第1章: 亡骸の祈り
湿り気を帯びた地下の空気。肌にまとわりつく粘膜のような不快感。鼻腔を刺すのは、鉄錆と腐敗した苔の臭気だ。
篝火レンは、震える指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。伸び放題の黒髪が視界を遮り、その隙間から覗く瞳だけが、暗闇よりも深い黒を湛えている。冷え切った石畳に擦れる、毛玉だらけの安パーカー。袖口の黒ずみが、彼のFランクという地位を無言に物語っていた。
「……あ、あー。聞こえてますか、これ」
ドローンカメラへの呼びかけ。だが、浮遊するレンズは無機質に明滅を繰り返すのみ。網膜投影されたステータス画面――視聴者数、ゼロ。
地図なき未踏破エリア、その最深部。人気集団『雷光』のリーダー、剛鬼の高笑いが鼓膜に残る。「お前みたいな陰気なゴミは、囮がお似合いだァ!」。崩落した出口。置き去りにされた現実。
地響き。重苦しい足音が、死へのカウントダウンのように近づいてくる。
闇の奥より現れたるは、三メートル超の巨躯。牛頭の怪物、ミノタウロス。岩肌のごとき筋肉の鎧、鼻孔から噴き出す白煙が、燐光に青白く照らされる。
死ぬ。
錆びついた短剣を握る掌。笑う膝。早鐘を打つ心臓。口内は砂を噛んだように乾ききっている。
だが、戦斧は振り下ろされなかった。
ドスン、という轟音。巨大な膝が折れ、レンの眼前に平伏す怪物。剛毛に覆われた双眸から溢れる大粒の雫が、石畳に黒い染みを作っていく。
『――頼む』
脳髄を直接揺さぶるノイズ混じりの音。レンの固有スキル『全言語翻訳』が、異常発熱のようなスパークを起こす。
『俺を、殺してくれ。……これ以上、人間を傷つけたくないんだ』
「……え?」
カラン。乾いた音を立て、手から滑り落ちる短剣。
怪物の喉が震え、漏れ出るのは咆哮ではない。嗚咽だ。それは伝説の魔獣などではない。罪悪感に圧殺されそうな、ただの「誰か」。
レンは震える手でドローンの高度を下げ、ミノタウロスの濡れた瞳へレンズを向けた。
「……聞こえてるよ。君の、その叫び声が」
フードを目深にかぶり直し、魔物の前であぐらをかく。
視聴者ゼロの配信枠。そこで始まろうとしていたのは、世界初の「対話」。
その瞳の奥にある絶望の色が、やがて世界を揺るがす光へ変わることを、レンはまだ知らない。
第2章: 100万の慟哭
「娘に……、ユイに、会いたい」
ミノタウロスの口から漏れる、重低音の唸り。しかしレンの唇を通して紡がれる言葉は、あまりにも人間臭く、切実。
あぐらをかいたまま、巨大な獣の蹄にそっと手を重ねる。硬く冷たい皮膚の感触。だが、そこには確かな体温の脈動。
「僕は……元は人間だった。ダンジョンの呪いで、こんな姿に……」
同接カウンターのバグじみた跳ね上がり。
『嘘だろ?』『合成音声?』『翻訳スキルは本物だ』『剛鬼のところから来た』
滝のごとく流れるコメント欄。10人、1000人、5万人。
かつて人間だった男。家族を養うために潜り、帰らぬ人となった父。変異してなお守り続けていたのは、娘へ贈るはずだった泥だらけのぬいぐるみ。胸の剛毛の中から取り出され、レンへと差し出される。
「これを……あの子に。俺はもう、我慢できない。本能が、俺を人食いの獣に変えてしまう前に……」
歪む視界。頬を伝う熱い雫が、パーカーの布地に吸い込まれていく。
目の前にいるのは怪物ではない。一人の父親。
「わかった……届けるよ。絶対に」
ぬいぐるみを抱きしめるレン。満足げに目を細めるミノタウロス。
刹那、崩れ始める怪物の輪郭。討伐ではない。魂の救済、呪縛からの解放。
『ありがとう』
黄金色の粒子。暗いダンジョンを暖かく照らす光の奔流。高解像度のCGすら凌駕する、残酷なほどの幻想美。
レンの背中越し、世界中へ拡散される輝き。
画面の向こう、数百万人の息を呑む音。「殺さないで」「ありがとう」で埋め尽くされるタイムライン。
鳴り止まぬ通知音。底辺配信者の口座へ、一夜にして叩き込まれる億単位の送金。
光が消えた静寂。立ち尽くすレン。
手元に残ったのは、薄汚れたウサギのぬいぐるみ一つ。
だが、その温もりに浸る間もなく走る悪寒。
ドローンの死角、暗闇の奥。金色のオールバックを揺らす男――剛鬼。サングラスの奥、猛禽類のごとき冷酷な眼光。
「……余計な真実(マネ)を、しやがって」
第3章: 英雄の失墜
「聖者」としての賛美。「人類の敵」という罵倒。反転は、わずか一日。
「見てください! この篝火レンという男、魔物を操り、我々探索者を罠にハメていたのです!」
街頭ビジョン。巧妙に切り貼りされた映像。レンがミノタウロスへ指示し、冒険者を襲わせているかのような捏造動画。
告発者は剛鬼。最新鋭パワーアーマーに身を包み、演じるは正義の執行者。大衆の扇動など容易いこと。
魔物が「元人間」であっては困るのだ。魔石や素材として資源化するダンジョン協会にとって、レンの「対話」は不都合な真実でしかない。
通知の嵐で熱を持つスマホ。
『裏切り者』『死ね』『魔物の手先』
特定された住所。ガシャンと砕け散る安アパートの窓ガラス。投げ込まれた石に滴る赤いペンキ、「出て行け」の文字。
部屋の隅、膝を抱えるレン。フードを限界まで引き絞り、外界を遮断する。
「……違う。僕はただ、話を聞いただけなのに」
誰も、本当の声など聞いていない。
求められているのは「感動」か「憎悪」の消費対象。レンという人間そのものではない。
唯一の理解者と思われたアイドル配信者、姫宮ヒマリからのDM。未読のまま削除。彼女もまた、炎上を恐れて沈黙を選んだ。
ゴミ袋の山に隠したウサギのぬいぐるみ。
「もう、いいや」
乾いた笑い。消える瞳の光。吸い込まれるような黒は、今や何も映さない虚無の色。
電源を切り、へし折られるシムカード。
その夜、篝火レンのアカウントは削除された。
ネットの海から「聖者」が消えた瞬間。東京地下深部、地殻変動にも似た不気味な鼓動。それを知る者は、まだいない。
第4章: 怨嗟の行進
裂けるアスファルト。飴細工のように捻じ曲がるビル群。
新宿、大規模スタンピード(百鬼夜行)。
その中心に君臨する、全長百メートルの異形――『嘆きの巨神』。
泥と瓦礫、無数の魔物の死骸が融合した醜悪な肉塊。
Sランク探索者、剛鬼率いる討伐隊の攻撃が、巨神の表皮で炸裂する。
「オラァ! 死に晒せェ!!」
必殺スキル『剛力無双』。ビルの残骸ごと殴り飛ばされる巨神。
だが、倒れない。
攻撃を受けるたび赤黒く脈打ち、肥大化していく絶望。
「なんだコイツ……! 痛覚がねえのか!?」
否。痛みこそが、こいつの糧。
開かれる巨神の口。放たれたのは衝撃波ではない。耳をつんざく「悲鳴」。
砕けるガラス。頭を抱えのたうち回る人々。それは、人類に殺されてきた魔物たちの、断末魔の集合体。
壊滅する討伐隊。砕けたパワーアーマー、瓦礫の中で血を吐く剛鬼。
「クソ……力が、足りねぇってのか……」
都市を覆い尽くす絶望の影。
その時。
ハッキングされた街頭ビジョン、スマホ、全てのモニターが一斉に切り替わる。
ノイズの嵐。その向こうに映る、一人の少年。
薄汚れたグレーのパーカー。風に煽られるボサボサの黒髪。
篝火レン。
武器はない。
崩壊する新宿のど真ん中、暴れ狂う巨神の足元へ、たった一人。
『……聞こえてるよ。君たちの、声が』
マイクを通していないはずの声が、都市中のスピーカーから共鳴する。
見上げる巨神。その瞳は、もう死んでいない。静かに燃える、確固たる意志の炎。
振り下ろされる山のような拳。圧殺せんと迫る死。
逃げない。避けもしない。
両手を広げ、死の影を受け入れるように踏み出す一歩。
「僕だけは、絶対に耳を塞がない!」
拳の直撃寸前、画面はブラックアウトした。
第5章: 静寂のハッピーエンド
衝撃は来なかった。
レンの『絶対共感』スキル。限界を超えた展開が、物理的質量をもつ怒りの拳を、純粋な「感情の奔流」へと変換したのだ。
流れ込む、無限の痛み。
(痛い痛い痛い寒い暗い怖い帰りたいお母さん殺さないで痛い痛い痛い!)
何千、何万という魔物たちの最期の記憶。
焼き切れる脳血管。鼻から、耳から滴り落ちる鮮血。
それでも、レンは叫ぶ。声帯が千切れるほどの絶叫で。
「痛かったよなァ!! 寒かったよなァ!!」
綺麗な言葉など不要。
ただ、彼らの痛みを代弁し、世界に叩きつける。
「人間(おれたち)が!! お前たちを!! こんな姿にしたんだ!!」
赤い光となり、巨神の全身を駆け巡るレンの咆哮。
止まる巨神の動き。
醜悪な顔に入る無数の亀裂。そこから溢れ出したのは、泥ではない。透き通るような清らかな水。
血の涙を流しながら、崩れ落ちてくる巨神の顔を抱きしめる。
「もう……泣かなくていい。僕が全部、聞いてるから」
閃光。
視界を染める純白。
暴虐の巨神は、桜の花びらのような無数の光となって弾け飛んだ。
廃墟と化した新宿に降り注ぐ光の雨。瓦礫の山が、みるみるうちに美しい花畑へと変わっていく奇跡。
剛鬼も、ヒマリも、世界中の人々が、ただ呆然とその光景を見上げていた。
***
数ヶ月後。
郊外の小さな廃屋。
ひっそりと配信を続けるレンの姿。
数千人の視聴者。かつてのような爆発的な勢いはない。けれど、コメント欄に溢れる穏やかな言葉たち。
喉に残る大きな傷跡。あの日、過剰な魔力負荷と絶叫によって失われた声。
それでも、彼は笑っていた。
卑屈さの消えた、陽だまりのような微笑み。
レンの周りに集うスライム、小さな妖精、小鬼たち。パーカーを引っ張り、膝の上で眠る彼らとの間に、言葉はもう必要ない。
カメラに向かい、ゆっくりと紡がれる手話。
『ありがとう。今日も、いい天気だね』
画面の端。本棚には、泥汚れを綺麗に落とされたウサギのぬいぐるみが、優しく彼を見守っていた。