汚泥の聖女を捨てた王国の、美しくも腐りゆく末路

汚泥の聖女を捨てた王国の、美しくも腐りゆく末路

主な登場人物

エララ・ノックス
エララ・ノックス
18歳 / 女性
追放前は煤と泥で薄汚れた灰色の髪と瞳。解放後は、月光のように輝く銀髪と、透き通るようなアメジストの瞳を持つ絶世の美女となる。簡素だが清潔な麻のドレスを着用。
セドリック・フォン・アイギス
セドリック・フォン・アイギス
19歳 / 男性
金髪碧眼、絵に描いたような王子様。常に最高級の軍服や礼服を纏うが、物語後半ではボロボロの服で泥にまみれる。
ギルバート
ギルバート
26歳 / 男性
無造作に伸びた黒髪、眼鏡、常に白衣の上に土色のローブを羽織っている。無精髭を生やし、学者然としている。
10 5077 文字 読了目安: 約10分
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第1章: 汚泥の聖女と、崩れ落ちる砂上の楼閣

王都最深部。下水と瘴気が煮詰まったような、地下回廊。

湿り気を帯びた石壁に囲まれ、膝をつく女――エララ・ノックス。

幾層にもこびりついた煤と泥。かつての色を失った灰色の髪が、汗で額に張り付く。纏うのは継ぎ接ぎだらけの麻布。元は生成り色だったそれも、今は汚水のような褐色。擦り切れた裾から、痩せた足首が覗く。

彼女の両手は、コールタールのように粘つく黒い「何か」の中に沈んでいた。

国を蝕む『呪い』の残滓。

素手で掬い上げ、自らの体内に取り込み、無害な魔力へと変換する。皮膚が焼けつく熱。骨がきしむ鈍痛。指先から肩へと駆け上がる激痛にも、エララのアメジストのような瞳――今は埃で曇っているが――は、ただ淡々と作業を見つめるだけ。

「……ふぅ」

重い吐息。汚れた手の甲で、額の汗をぬぐう。

その時。

カツ、カツ、カツ。

地下には不釣り合いな、硬質で軽やかな足音。

「ここにいたか、ドブネズミ」

よく通る、しかし冷徹な声。

顔を上げれば、そこには豪奢な軍服に身を包んだ青年。セドリック・フォン・アイギス。この国の第一王子にして、エララの婚約者。

金糸の刺繍が施された純白のジャケット。地下の松明を浴びて輝く金髪。彼はハンカチで鼻と口を覆い、露骨な嫌悪感を碧眼に湛えて見下ろしている。

「セドリック様……」

「近寄るな。臭いが移る」

立ち上がろうとするエララから一歩後ずさり、吐き捨てられる侮蔑。

「貴様のその薄汚れた姿、見るに堪えない。王族の恥だ。ただ泥を捏ねるだけの『雑用』しか能のない無能が」

「これは、浄化の……」

「口答えをするな!」

石壁に反響する、セドリックの怒号。

「美しいものこそが正義だ。貴様のような汚物は、私の隣にふさわしくない。よって、この場で婚約を破棄し、国外追放を命じる。二度と私の視界に入るな」

瞬きを、一つ。

反論も、嘆願もしない。ただ静かに、自分の掌を見つめる。黒く変色し、ひび割れた皮膚。

長年の激痛と疲労で摩耗した感情。いや、今この瞬間、彼女の中で何かが「切れた」音。

「……承知いたしました」

水面のように静かな声。

最後に一度だけ、セドリックの顔を見る。未練など欠片もない。ただ、哀れなピエロを見るような目が、曇った瞳の奥で微かに光った。

「私が去れば、もう私の手が汚れることはありません」

ゆっくりと背を向け、出口へと歩き出すエララ。

「ですが殿下。私の手が汚れなくなった時、あなたのその美しい靴が汚れることになります」

「負け惜しみを! 行け、さっさと失せろ!」

罵声を背に、地下牢のような作業場を後にする。

彼女の姿が見えなくなった、その直後。

ピキッ。

微かな、しかし硬質な音。

ふと視線を上げれば、地下回廊を支える巨大な石柱に、髪の毛ほどの細い亀裂。

飾り棚の国宝級の花瓶が、何の前触れもなく砂のように崩れ落ちる。

「……なんだ?」

足元。地下から染み出した黒い液体が、磨き上げられた革靴の爪先を、音もなく濡らし始めていた。

第2章: 森の深呼吸と、黒斑の宴

王都の城門を背に、ただ北へ。

人々が忌み嫌う「魔の森」。原生林へと足を踏み入れ、初めて足を止める。

「……ああ」

肺いっぱいに吸い込んだ空気の、なんと甘いことか。

腐敗臭も、鉄錆の臭いもしない。樹木の香り、湿った土の匂い、そして濃密な生命の気配。

震える指先で、ボタンを外す。汚泥にまみれた麻布を脱ぎ捨て、近くの清流へ。

冷たい水が、こびりついた『呪い』の垢を洗い流していく。

流れ落ちる灰色の泥。その下から現れたのは、月光を繊維にして織り込んだような銀色の髪。曇っていた瞳は、陽光を透かす最高純度のアメジストのごとく、鮮烈な紫色を取り戻す。

濡れた髪をかき上げ、岸辺の枯れ木に手を触れた、その瞬間。

枯れ枝から爆発的に吹き出す緑の芽。瞬く間に咲き誇る白い花。

エララの浄化能力の本質は、単なる掃除ではない。「生命力の活性化」による異物の排除。

「君、すごいね。歩くパワースポットか何かかい?」

茂みから顔を出した丸眼鏡の男。古代魔法研究者のギルバート。次々と開花する花々を見て、口笛を吹く。

驚きもせず、ただ静かに一礼するエララ。

「……騒がしくして、申し訳ありません」

「いやいや、大歓迎だよ。ここには僕しかいないからね」

穏やかな隠遁生活の始まり。

一方その頃、王都は緩やかに、しかし確実に地獄へと変貌しつつあった。

王宮の晩餐会。

上機嫌でグラスを掲げるセドリック。エララという「汚点」を排除し、会場は着飾った貴族たちと、色とりどりの料理で満たされている。

「見よ、この美しさを! これこそが我が国の繁栄の象徴だ!」

突き刺した極上のローストビーフ。それを口に運ぼうとした刹那。

肉の色が、ドス黒い紫色へ。

鼻をつく腐臭。

皿の上でドロドロと溶解し、中から湧き出す無数の蛆。

「な、なんだこれは!?」

悲鳴。

顔を覆って叫ぶ貴族の令嬢。白磁のような肌に浮かぶ、黒いカビのような斑点。一人ではない。会場にいる全員の肌に広がる、黒い刻印。

「エイ……エララの呪いだ! あの女、去り際に何か仕掛けおったな!」

グラスを床に叩きつけ、激昂するセドリック。

だが、彼は気づいていない。

足元の床大理石が、まるで沼地のようにブヨブヨと波打ち始めていることに。

揺れるシャンデリア。地震ではない。王城という巨大な建造物が、その自重に耐えきれず、腐り始めた地盤へと沈み込んでいる音。

第3章: 激痛の可視化、あるいは嘔吐する王子

一週間後。死臭に包まれた王都。

鉛色に淀む空。コールタールのように黒く濁る井戸水。

王城の東棟は完全に崩落し、瓦礫の山と化していた。

「原因は何だ! なぜ浄化できない!」

半壊した玉座の間。宮廷魔導師団を怒鳴りつけるセドリック。自慢の金髪は艶を失い、頬には黒い隈。

呼び出されたギルバートは、他の魔導師たちと共に、冷ややかな目で王子を見上げる。

「殿下。原因も何も、この王都はもともと『巨大な毒沼』の上に建っているのです」

淡々と告げるギルバート。

「過去数百年の汚染物質、生活排水、呪いの澱み……それら全てを、地下でたった一人の人間が吸い上げ、濾過していた。エララ嬢が、その身一つで」

「そんな馬鹿な……あんな小汚い女に、そんな力が……」

「想像力が欠如しているね」

杖を一振り。

展開される魔法陣。禍々しい赤黒い光がセドリックの体を包み込む。

「ギャアアアアアアアッ!!!」

絶叫。玉座から転げ落ちる身体。

全身の皮を紙やすりで削られ、傷口に塩と硫酸を流し込まれるような激痛。内臓が焼けただれ、骨が万力で締め上げられる感覚。

「い、いた、ぎ、あが、ああああ!!」

のたうち回り、床を爪で掻きむしる。剥がれる爪、滲む血。

ほんの数秒で解除された魔法。しかしセドリックは白目を剥き、口から泡を吹いて痙攣していた。

「これが、エララ嬢が『毎秒』感じていた痛みだよ。食事中も、睡眠中も、君に罵倒されている間もね」

冷徹な見下ろし。

「彼女はこの痛みを、表情一つ変えずに耐えていた。君が『汚い』と蔑んだその手で」

「う……オェッ……!!」

ぶちまけられた胃の中身。

吐瀉物が、かつて愛した美しい絨毯を汚す。

理解してしまった。自分が切り捨てたものの正体を。自分がどれほど残酷な仕打ちを、誰のために強いていたのかを。

「殿下、報告です!」

泥まみれで転がり込んでくる伝令。恐怖で歪む顔。

「し、市民が……暴徒と化した市民が、城門を突破しました! 『聖女を返せ』と……彼らは皆、肌が黒く染まり、まるで亡者のようです!」

遠くから響く、地鳴りのような怒号。

ドォン、ドォンと叩かれる王城の堅牢な扉。

悲鳴を上げ、歪んでいく蝶番。

第4章: 泥濘の懇願と、氷点下の拒絶

プライドも、権威も。全ては泥の中。

走るセドリック。

王城から抜け出し、裏口から森へと続く道を。

破れた軍服。泥と汚物にまみれた身体。片方の靴はとうに失せ、裸足の足裏は石で切れ、血の跡を残す。

「エララ……エララ……ッ!」

彼女なら、許してくれるはずだ。

今までどんなに酷いことを言っても、彼女は黙って従っていた。

謝ればいい。王妃の座を用意すると言えばいい。そうすれば、またあの痛みを引き受けてくれる。この地獄から救い出してくれる。

森の奥。光溢れる場所。

そこだけが別世界だった。

瑞々しい緑、咲き乱れる花々。そしてその中心に、彼女。

麻のドレスではない。木漏れ日を織り込んだような純白の衣。風になびく銀の髪。

あまりにも美しく、神々しい姿。

「エララ! 戻ってくれ! 私が悪かった!」

足元に滑り込み、額を地面に擦り付ける。土下座。かつて「雑用」と呼んだ女にひれ伏す、国の王子。

「国が滅びてしまう! 国民が死んでしまう! お前の力が必要なんだ! 頼む、戻って浄化してくれ! 何でもする、お前を王妃に……」

必死の懇願。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして見上げれば、エララと目が合う。

凪いだ湖のように静まり返った、アメジストの瞳。

怒りも、憎しみもない。

そして、慈悲も、愛も。そこには一滴もなかった。

「……セドリック様」

鈴を転がすような、美しい声。

「私はもう、誰かのために痛みを引き受ける道具ではありません」

「だ、だが、お前がいなければ……!」

「ええ、そうですね。滅びるでしょう」

淡々と告げられる事実。まるで明日の天気を話すように。

「自分たちが汚した場所で、自分たちの出した汚れに埋もれて生きる。……それが、あなた方が選んだ『美しさ』の結末です」

返される踵。

その背中は、どれだけ手を伸ばしても、決して届かない場所にある。

「待て! 待ってくれぇぇぇ!!」

叫び、衣の裾を掴もうと伸ばした手。

しかし。

生き物のように根を張り出した森の木々が、彼の手を、体を、容赦なく打ち据え、拒絶した。

「行かないでくれ! 一人にしないでくれ! 俺を、俺を見捨てないでくれぇぇぇ!!」

森の奥へと消えていく光。

残されたのは、急速に迫りくる王都からの黒い瘴気と、絶望に顔を歪ませた、泥まみれの男だけ。

ざわめく森。それはまるで、愚かな人間を嘲笑う哄笑。

第5章: 花咲く廃墟と、終わらない悔恨

数年の月日が流れた。

かつて王都と呼ばれた場所は、地図から消滅していた。

「腐海の湿地」。人が立ち入ることのできない禁足地。

その中心部。かつて王城があった場所の瓦礫の丘に、一人の男。

セドリック。

かつての美貌は見る影もない。白髪交じりの髪はボサボサに、纏うのは襤褸切れのみ。

彼は毎日、崩れた石畳の一角を、ボロボロになった布で擦り続けていた。

「きれいに……しなくては……美しく……」

ブツブツと繰り返される譫言。

そこは、かつてエララが膝をつき、泥を掬っていた場所。

どれだけ擦っても、染み付いた黒い汚れは落ちない。擦り切れた指先、剥がれた爪、混じり合う血と泥。

エララが味わっていた痛みの、ほんの数億分の一にも満たない痛みを抱え、終わらない掃除を続ける日々。

ふと、風が吹いた。

北の森から、甘い花の香りを乗せて。

空から舞い降りる、綿毛のような種子が一つ。

それはセドリックの目の前、血を流して磨き続けた石の隙間へ。

「あ……」

こぼれ落ちる涙。

その雫が種子を濡らすと、信じられない速度で萌え出る小さな芽。

そして、咲いた。

可憐な白い花が、一輪だけ。

それは、エララが森で最初に咲かせた花と同じもの。

「う、うあぁぁ……ぁぁ……」

触れようと伸ばした手。そして、止まる。

あまりにも汚れている自分の手に気づいたから。

触れることすらできず、ただ花の前で崩れ落ち、獣のように慟哭する男。

その泣き声は、誰にも届かない。

北の森では、銀髪の聖女が木漏れ日の中で穏やかに微笑み、ハーブティーの湯気を楽しんでいることだろう。

彼女の世界は清浄で、もはや彼を思い出すことさえない。

廃墟に咲いた一輪の花だけが、かつての王子の罪と罰を、静かに見つめ続けていた。

クライマックスの情景

AI物語分析

【物語の考察:不可視化された労働の復讐】

この物語の根底にあるのは、「社会維持のために不可欠だが、忌避される労働(エッセンシャルワーク)」の可視化です。エララが担っていた「汚泥の処理」は、王都の華やかな生活を支えるインフラそのものでしたが、王子セドリックはそれを「美しくない」という理由で切り捨てました。これは、現代社会における特権階級が、自らの快適さが誰の犠牲の上に成り立っているかを理解せず(あるいは直視せず)、その基盤を軽んじた結果、システムごと崩壊する様子のメタファーとなっています。

【メタファーの解説:泥と花】

セドリックが執着した「表面的な美しさ」は、実はエララが泥にまみれることで維持されていた「砂上の楼閣」でした。対照的に、エララが森で咲かせた花や、最後に廃墟に咲いた一輪の花は、「生命の本質的な美しさ」を象徴しています。セドリックが最後に花に触れられなかったのは、彼がその本質的な美しさを理解する資格を永遠に失ったこと、そして彼自身の魂が(かつてのエララ以上に)汚れてしまったことを自覚した瞬間を表現しています。

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