第1章: 死者からの通知
午前二時。網膜を焼くブルーライトの痛み。
六畳一間の狭小な宇宙で、僕は指先だけで世界を転がす。
視界を遮る前髪を払い、充血した三白眼を液晶へ。
三日脱いでいないオーバーサイズパーカー。安っぽい柔軟剤と淀んだ汗の臭気。
「これ、マジじゃね?」
乾いた唇から漏れる独り言。
Twitter(現X)のタイムライン。廃墟探索アカウント『廃墟の迷い子』が投下した、一枚のJPEG画像。
苔むすコンクリート。砕けた窓からの月光。その中央に佇む少女。
透き通る白磁の肌。腰まで届く漆黒の髪。泥に塗れた裾すら、異様な聖性を放つ。
星奈アイ。
10年前に消失した、伝説の国民的アイドル。
あどけない輪郭。寂しげな瞳。時間の凍結。
「生存説、確定かよ」
指先の震え。武者震いか、それともエナジードリンクによる中毒症状か。
拡散のリツイート。即座に画像解析ソフトを起動。
安全圏からの謎解き。相馬慶人にとっての、唯一の娯楽にして日常。
画像の拡大。荒れるピクセル。画面を占拠するアイの顔。
瞳。その黒目へのフォーカス。
高解像度データならば、撮影者を鏡のように反射しているはず。
コントラスト調整、露光量の低下。闇からの抽出。
カチッ、カチッ。
静寂を切り裂くマウス音。
処理完了。
「……は?」
喉が鳴る。
アイの瞳に映る、廃墟の風景。朽ちた柱、電線、割れた窓。
不在。
カメラを構える『廃墟の迷い子』の姿はおろか、三脚すら映っていない。
透明人間による撮影か。あるいは――彼女の瞳による、他者の拒絶か。
背筋を這い上がる悪寒。室温二十四度、急速に冷える指先。
その時。
スマホの振動。画面上部への通知バナー。
DM: 廃墟の迷い子
『見つけたね?』
心臓の早鐘。耳奥で刻まれる不快なリズム。
フードを深く被り直す。
物理的に隔絶された安全地帯。そこに触れた、冷たく湿った指先の感触。
第2章: 集合知の暴走
止まらぬ打鍵。秒速で更新されるスレッド。
情報の奔流。
『星奈アイ発見報告スレ Part 52』
特定班の異常な熱量。植生、コンクリートの風化、星座の位置。
数時間での特定。長野県山間部、廃ホテル。
「マジで凄え……これだからネットはやめらんねえ」
恐怖を好奇心で塗り潰す。DMは愉快犯の悪戯。
そう定義し、解析結果をスレッドへ投下。
トレンド世界一位、「#星奈アイ生存」。
掘り起こされる過去。10年前の密会写真。痩せ細った手首。
『許せない』
『大人の玩具にされていたのか』
『俺たちが真実を暴いてやる』
正義という名の麻薬。陶酔。
画面越しの断罪。甘美で安全なエンターテインメント。
社長の実名、プロデューサーの住所、家族構成。次々と晒される個人情報。
僕たちは神だ。コーラを啜り、悪を裁く全能の存在。
モニターの中、泥だらけの星奈アイが笑った気がした。
汚れすら聖痕。
書き込む指。
『この廃ホテル、地下に隠し部屋があるらしいぞ。図面見つけた』
投稿ボタン。
直後、照明の明滅。
チカッ、チカッ。
電圧の不安定さか。
だが、同時に落ちるモニター光度。暗転した画面に映る、生気のない三白眼の男。
不協和音のような通知音。
画面の復帰。
『廃墟の迷い子』からの新着ツイート。
画像ではない。テキストファイル。
胃の腑を締め上げる予感。掌の脂汗。
第3章: 断罪の矛先
『共犯者リスト_01.txt』
震える指での展開。文字列の羅列。
住所、氏名、大学名。そして――
No.1 相馬慶人(HN: ケイト)
東京都世田谷区×××……
10年前の投稿ログ:
『星奈アイとかいう媚び売り女、マジで消えればいいのに。枕営業乙w』
呼吸停止。
脳の酸欠。視界の明滅。
11歳の記憶。ネットカフェの薄暗がり。憂さ晴らしの書き込み。
意味などない。現実味などない。
だが、文字は残る。デジタルタトゥーとして。
狂ったように振動するスマホ。
通知、通知、通知。
『お前だったのか』
『人殺し』
『死ね』
『住所特定完了。突撃します』
刃の反転。喉元への切っ先。
「ちが、違う、そんなつもりじゃ……」
掠れる息。床で蜂の羽音のように響き続けるバイブレーション。
ガチャリ。
玄関のドアノブ。
施錠されているはず。
だが執拗な回転。ガチャ、ガチャ、ガチャガチャガチャ。
郵便受けからの紙切れ。
赤い文字。
『出てこい』
「うわああああああああ!!」
部屋の隅での縮こまり。フードを限界まで引き絞る。
壁の向こう、床下からの視線。
安全地帯の崩壊。
薄氷の上での舞踏。
スピーカーからのノイズ混じりの声。
『……見つけて、くれますか?』
丁寧で、感情の欠落した、氷の敬語。
窓ガラスに映る、白いワンピースの残像。
第4章: 真犯人との対話
「開けろや! いるんやろ、ボケ!」
ドンドンドン!
扉を叩く暴力的な音。野太い怒声。
特定班ではない。質量を伴う殺気。
覚悟を決め、チェーンロックを外す。数センチの隙間。
くたびれたトレンチコート。無精髭、紫煙、血走った眼光。
沼田誠。かつてのマネージャー。業界の追放者。
「……沼田、さん?」
「手ぇ貸せや若造。ここで死にたくなきゃな」
強引な侵入。パソコンの乱暴な操作。
「あれは幽霊やない。アイが死ぬ前に仕掛けた、時限式の告発プログラムや」
ガラガラの声。焦燥。
「プログラム……?」
「あの子は天才やった。汚い欲望にまみれながら、独学でコードを書いとったんや。自分の死をトリガーとする復讐装置」
USBメモリの接続。
「アイの狙いは、『無責任な傍観者』と『実行犯』の両方を地獄に落とすこと。だが、このままじゃ暴走したネットの正義がお前を殺して終わる。真のターゲット……当時の社長たちへのトドメには、最後のピースが足りへん」
「最後の、ピース……」
「アイが隠した『最期の証拠映像』や。それを一番憎んでいた相手……誹謗中傷をしたお前のパソコンの深層領域に埋め込む設定」
僕のパソコン?
10年前の書き込み。復讐劇の「鍵」への選抜。
「復元するぞ。お前の人生、ここで終わらせとうなかったら、指動かせ!」
怒号。
キーボードへ向かう。涙と鼻水。
迫るサイレン。警察か、暴徒か。
投石。ヒビ割れる窓ガラス。
パリンッ。
床に散らばる破片。
「急げ! 奴らに踏み込まれる前に、全世界にバラ撒くんや!」
プログレスバーの進行。98%、99%……。
破裂寸前の心臓。
蹴破られるドア。
「そこまでだ!」
なだれ込むスーツの男たち。警棒。
「押せぇぇぇッ!!」
沼田のタックル。
Enterキー。
指の骨が軋むほどの打鍵。
第5章: 10年越しのログアウト
送信完了。
四文字の表示。変質する空気。
流されたのは、10年前の廃ホテル映像。
泥にまみれたアイ。カメラへの淡々とした語りかけ。
背後の会話。社長、プロデューサー。金と欲望、嘲笑。
決定的な証拠。
埋め尽くされる世界中のタイムライン。
『うわああああ、これマジかよ』
『吐き気がする』
『これが真実だったのか』
スーツの男たちのスマホ。一斉の着信。
狼狽。逃走。蜘蛛の子を散らすように。
へたり込む沼田。震える手での着火。
「……終わったんやな、アイ」
紫煙の向こう。無精髭に吸い込まれる涙。
『廃墟の迷い子』のアカウント。数百万のフォロワー。
不意の投稿。
『ありがとう、さようなら』
光の粒子のような消滅。
「ユーザーが見つかりません」
無機質なエラーメッセージ。
止んだ攻撃。だが消えぬデジタルタトゥー。
失墜した信用、晒されたプライバシー。
それでも。
東の空の白み。
朝焼け。輝くガラスの破片。
パーカーを脱ぐ。汗と匂いの染み付いた殻。
風の感触。冷たく、心地よい。
「……行こう」
当てなどない。就職も、日常も、崩壊した。
けれど、モニターの光ではない。本物の太陽の下へ。
机上のスマホ。
黒い画面。映るのはもう、何も無い。
ただ、朝日に照らされた部屋と、背筋を伸ばした僕の顔。
ドアを開ける。
壊れた世界への、最初の一歩。