第1章: 神の葬列
紫煙。淀んだ空気を、ゆっくりと這い上がっていく。
新宿の雑居ビル、その最奥にある黴臭い事務所。蛍光灯の明滅が、デスクに足を投げ出した男の姿を断続的に切り取る。久堂蓮(くどうれん)。まるで葬儀の帰り道で数年を過ごしたかのような、安物の黒いスーツ。襟元はよれ、袖口からは骨張った手首が覗く。
瞳は、水槽の底に沈殿した泥。光を吸い込むばかりで何も反射しないその「死んだ魚」のような眼球の下、不健康な生活が彫り込んだ濃い隈がタールの如く張り付いている。ボサボサに伸びた黒髪。気怠げにかき上げる仕草。
「3分ですね」
短くなったタバコを空き缶に押し付け、ジュッという断末魔と共に言葉を吐き出す。
「ネットの女神が『ただの肉塊』に堕ちるまでの時間です」
PCモニターの光だけが照らす部屋の隅。そこに少女はいた。
真白アイ。
世界で最も愛されているVTuber『セラフィナ』の、中身(ソウル)。
しかし、そこに座っているのは女神ではない。色素が抜け落ち、枯草のようになった髪。毛玉だらけのジャージ。ちっぽけな存在。手首には幾重にも巻かれた包帯。かつて白かった布は、赤黒いシミで地図を描いている。
「……私、もう空っぽなんです」
ガラス片を喉に詰まらせたような掠れ声。モニターの中、完璧な造形で微笑む『セラフィナ』を、彼女は虚ろに見つめる。
「事務所は、中身を入れ替えるつもりです。新しい魂を入れて、セラフィナだけを生き延びさせる。……私が死んでも、誰も気づかない」
呼吸をするたび、痩せこけた肩が軋むように上下する。
「久堂さん。私が私を殺すのを、手伝ってください」
久堂は眉一つ動かさず、新しいタバコを咥えた。オイルライターの蓋を弾く音。乾いた室内に響く金属音。
「夢を見させるのがアイドルの仕事。その悪夢を始末するのが、俺の仕事だ」
紫煙の向こう。濁った瞳の奥に、剃刀のような鋭い光が一瞬だけ宿る。
「いいでしょう。あなたのその『社会的自殺』、俺がプロデュースしますよ」
第2章: 嘘と泥
「草。これ完全に詰んでね?」
極彩色のパーカー、首にかけたヘッドフォン。御子柴レイが飴をガリガリと噛み砕き、モニターを指さす。薄暗い部屋、唸りを上げる無数のサーバー。熱気が肌にまとわりつく。
「相手は時価総額トップのテック企業だお。喧嘩売る相手間違ってるって」
「御託はいい。掘れ(ディグれ)」
冷めたコーヒーを喉に流し込み、キーボードを叩く御子柴の背中を睨みつける。
敵は巨大だ。セラフィナという虚像は、もはや宗教。数百万の信者が信じる「清廉潔白」。そのイメージを保ったまま、中の人である真白アイだけを契約解除させる。針の穴を通すようなミッション。
「……あった。脱税の痕跡、それとパワハラの音声ログ」
御子柴の指が止まる。画面に映し出されたのは、事務所幹部がアイを罵倒する記録。
『お前の代わりなんていくらでもいるんだよ! 吐血? 知らねえよ、マイクミュートにして吐け!』
久堂のこめかみに浮かぶ青筋。
脳裏にフラッシュバックする、かつて救えなかった少女の姿。ビルの屋上、風に舞うスカート、コンクリートに叩きつけられた赤い染み。
胃の腑が焼けつくように熱い。太ももを爪が食い込むほど強く掴み、その幻影を振り払う。
その夜、アイの配信。
画面の中では、セラフィナが天使のような声で歌っている。
「みんな、大好きだよ!」
だが、マイクの向こう側。薄汚れたアパートの一室、洗面器を抱えるアイ。歌の合間、マイクを切り、赤黒い液体を吐き出す。口元を汚れた袖で拭い、再びスイッチを入れて「女神」に戻る。
その姿を、久堂は遠隔カメラ越しに見ていた。
彼女は削っている。自分の命を燃料にして、幻影を輝かせている。
「……くだらねぇ」
呟き、画面を閉じた。だが、その手は微かに震えていた。
第3章: 裏切りの配信
世界が反転したのは、その翌日。
スマートフォンの通知音が、けたたましい警報のように鳴り響く。画面を埋め尽くすSNSのトレンド。
『悪徳フィクサー久堂蓮、過去の自殺教唆疑惑』
『セラフィナを脅迫する反社勢力』
捏造されたチャットログ。加工された写真。企業のカウンター・インテリジェンス。久堂の「掃除屋」としての過去が、最悪の形で歪められて拡散されている。
「……仕事が早いな」
舌打ちをした瞬間、さらなる通知が画面を覆う。
『セラフィナ、緊急配信』。
嫌な汗が背筋を伝う。指先の冷えを感じながら、配信を開く。
そこには、いつも通り完璧なアバターのセラフィナ。だが、その声は震えている。
「……私、脅されていたんです。久堂という男に……引退しないと殺すと……」
息が止まる。
心臓が早鐘を打ち、視界が白く明滅する。
アイが、俺を売った?
いや、違う。彼女の声のトーン、わずかな息継ぎの間隔。これは台本だ。横に誰かがいて、銃でも突きつけられているかのような、強張った演技。
「ごめんなさい……みんな、助けて……」
コメント欄、加速する殺意の奔流。
『久堂を殺せ』『特定しろ』『社会的に抹殺せよ』
数百万の「正義」が、牙を剥いて襲いかかってくる。
携帯を握りしめたまま、壁に背を預けてずるずると崩れ落ちる久堂。事務所のドアの向こう、ドンドンと激しく扉を叩く音。
「久堂! 出てこいこの人殺し!」
マスコミか、狂信的なファンか。
世界中が敵に回った。アイとの連絡手段も遮断された。
俺はまた、守れなかったのか。
第4章: どん底からの反撃
路地裏のアスファルトは冷たい。頬を濡らす泥水。
降りしきる雨が、ドブ川のような臭気を立ち昇らせていた。
ゴミ捨て場の陰に身を潜め、割れた画面のスマホを見つめる久堂。酒の入った小瓶を煽るが、アルコールですら恐怖と焦燥を麻痺させられない。
「……クソが」
配信のアーカイブを再生する。アイの告発。完璧な「悲劇のヒロイン」。
だが、違和感。
『私、脅されていたんです』
その言葉の直前、アバターの手が一瞬だけ不自然な動きをした。
指を二回叩き、親指を握り込む。
久堂の濁った瞳が、一瞬で見開かれる。
それは、かつて二人が交わした契約の際の、些細な約束。
――もし言葉を奪われたら、指で合図してください。
『ハンドサイン(助けて)』。
彼女は、裏切ってなどいない。
敵の懐、監視下の中で、命がけで俺にSOSを送っている。
「……はは」
漏れる乾いた笑い。
血管の中を流れる泥が、瞬時に沸騰するような感覚。五体の感覚が鋭敏になり、雨音さえもが戦太鼓のように鼓膜を叩く。
「法が裁けないなら、俺が裁く」
泥水の中から立ち上がる久堂。
安物のスーツは雨で重く張り付いているが、もはや喪服ではない。戦闘服だ。
連絡先リストを開く。
そこにあるのは、かつて彼が「闇に葬った」はずの人間たち。スキャンダルを揉み消して救った地下アイドル。解雇された元マネージャー。ゴシップ屋。業界の掃き溜めに生きる「嫌われ者」たち。
「……仕事だ。全員、死ぬ気で集まれ」
セラフィナの引退ライブ、すなわち「魂の入れ替え式」まであと24時間。
史上最悪の放送事故(テロル)を起こす。
第5章: 最後のカーテンコール
世界中の視線が集まる、引退ライブ当日。
同時接続数は500万人を超えていた。
ステージ中央、新曲を歌い上げようとする光り輝くセラフィナ。その背後では、企業の役員たちがシャンパンを開ける準備をしていたことだろう。
「御子柴、合図だ」
「了解。派手に逝くお!」
久堂の合図、叩かれるエンターキー。
瞬間、煌びやかなステージの映像がノイズに飲まれた。
『え? 何?』
『バグ?』
ざわめくコメント欄。切り替わる映像。
そこに映し出されたのは、きらきらしたステージではない。
薄暗い、監獄のような狭い部屋。
そこに、パイプ椅子に縛り付けられ、男たちに囲まれた「ボロボロの少女」。
真白アイだ。
目の前には、強要された台本の原稿が散らばっている。
「な、なんだこれは! 映像を切れ!」
裏側で怒鳴るスタッフの声。全世界への垂れ流し。
だが、映像は切れない。御子柴による完全な回線ジャック。
「見ろよ」
マイクに向かい、地を這うような低い声で囁く久堂。その声は、会場のスピーカー、そして500万人のデバイスから響き渡る。
「これが、お前たちが愛した女神の正体だ!!」
さらに流出させる、アイが書き溜めていた日記のデータ。
『喉が痛い。血が止まらない。でも、みんなが喜んでくれるなら』
『アバターの私は愛されている。でも、ここにいる私は誰?』
『生きたい。死にたい。生きたい』
綺麗な嘘ではない。血と膿にまみれた、汚い真実。
一文字一文字が、ファンの胸にナイフのように突き刺さる。
画面の中、拘束を解かれたアイが、震える手でカメラを見つめた。
メイクもしていない。髪もボサボサ。剥き出しのリストカットの痕。
醜い。あまりにも生々しい人間。
しかし、彼女は口を開いた。
アバターを通さない、掠れた、しかし確かな彼女自身の声。
「……これが、私です」
涙も流さず、カメラを睨みつけるように見据える。
「綺麗なセラフィナは、もう死にました。……今まで、幻を愛してくれて、ありがとう」
その瞬間、変わるコメント欄の流れ。
『ふざけるな』という怒号は消え、
『生きて』
『そこにいていいんだ』
言葉の滝。
「さようなら」
アイが頭を下げた瞬間、久堂は全ての回線を切断した。
完全なブラックアウト。
静寂。
世界一のVTuberは死んだ。
そして、一人の人間が生き残った。
***
数年後。
海沿いの小さな街にある、名もなきカフェ。
エプロン姿の女性が、テラス席の客にコーヒーを運んでいる。
短く切り揃えられた髪。戻った健康的な血色。手首の傷跡を隠すブレスレット。
客の冗談に、屈託のない笑顔を見せる彼女。
その様子を、道路の向かい側に停めた古いセダンの中から見つめる男がいた。
黒いスーツは相変わらず安物。だが、その瞳に宿っていた泥のような濁りは、少しだけ澄んでいる。
男は新しいタバコを取り出そうとして、ふと手を止めた。
そして、箱ごとダッシュボードに放り投げる。
「……任務完了(ミッション・コンプリート)」
久堂蓮は、彼女と目を合わせることなく、静かにアクセルを踏んだ。
車の去った後には、潮風だけが優しく吹き抜けていった。