泥濘の献身、あるいは復讐の雨

泥濘の献身、あるいは復讐の雨

主な登場人物

相馬 蓮司(そうま れんじ)
相馬 蓮司(そうま れんじ)
42歳 / 男性
白髪混じりの乱れた黒髪。右頬に古傷。常に安物の灰色のコートを羽織っている。瞳は深く暗い。
神宮寺 凱(じんぐうじ がい)
神宮寺 凱(じんぐうじ がい)
28歳 / 男性
整えられた茶髪、高級ブランドのスーツ、爬虫類を思わせる冷たい目。
橘 美咲(たちばな みさき)
橘 美咲(たちばな みさき)
26歳 / 女性
ショートカットの黒髪。機能的なジャケット姿。意志の強さを感じさせる大きな瞳。

相関図

相関図
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第1章: 悪魔の契約

執拗にコンクリートを叩く雨音。路地裏、泥濘む水たまりに揺らぐ男の顔。

白髪混じりの乱れた黒髪、右頬から顎へ走る古傷。擦り切れた灰色のコートが、鉛のように重く肩にのしかかる。相馬蓮司は、泥中の自分から視線を逸らし、重い鉄扉を押し開けた。

悲鳴を上げる錆びた蝶番。漂うのはカビと紫煙、そして腐爛した欲望の臭気。

「……来たか」

革張りのソファに沈む仲介人が、分厚い封筒をテーブルへ放る。中身を改めるまでもない。蓮司の視線は、一点に吸い寄せられた。一枚の写真。人工呼吸器に繋がれた少女。痩躯に無数の管。陽菜。

「手付金だ。残りは刑期終了後。約束通り、娘の手術は最高のスーパードクターが執刀する」

ひび割れた唇を舐め、震える指先で契約書を掴む蓮司。ペン先が紙に沈む。それはインクではない。魂を切り売りした血判。

三ヶ月後、東京地方裁判所。

網膜を焼き尽くす無数のフラッシュ。鼓膜を震わせる怒号。「鬼畜」「死んで詫びろ」。降り注ぐ罵声のつぶて。

証言台の彼方、弁護席の青年――神宮寺凱は、退屈そうに欠伸を噛み殺していた。仕立ての良いスーツ、一分の隙もない茶髪。爬虫類めいた冷たい瞳が、天井を這う蜘蛛を追っている。

「被告人。起訴事実は間違いありませんか」

水底から響くような裁判官の声。

こみ上げる胃酸を飲み込み、蓮司は乾いた声帯を無理やり震わせた。

「……はい。私が、やりました」

嘘だ。

あの子を殺したのは、そこに座る男。だが、この一言が陽菜の命綱。床を見つめ、拳を握りしめる。爪が皮膚を食い破り、掌に滲む生暖かい液体。

判決、懲役十五年。

閉廷後、連行される蓮司の横を神宮寺が掠める。鼻につく高価な香水。

すれ違いざま、耳元に吹き込まれる湿った呼気。

「僕の人生を生きてくれてありがとう、ゴミ屑さん」

理性の導火線を焼き切る嘲笑。だが、奥歯が砕けるほど噛み締め、視線は上げない。ここで暴れれば契約は白紙。耐えろ。

背中を押され、重厚な扉の向こうへ。閉ざされる鉄の音と共に、世界から色が消滅した。ただ一つ、心臓の奥底で脈打つ娘への想いだけが、煉獄の炎のごとく燻る。

まだ、終われない。ここからが本当の地獄。

第2章: 檻の中の獣

「新入り、挨拶がねえぞ」

鈍い音。腹部にめり込む革靴の爪先。

強制排出される肺の空気。咳き込む間もなく、顔面を捉える硬い拳。叩きつけられるコンクリートの感触。口内に広がる鉄の味。

刑務所の最底辺、雑居房。殺人犯、強姦魔、社会の掃き溜めたちが歓迎する、新たな玩具。

「お前だろ? 十代の娘っこを犯して殺したっていうクズはよぉ!」

髪を掴まれ、引きずり回される屈辱。抵抗はしない。してはいけない。体を丸め、急所のみを庇う。軋む肋骨、裂ける皮膚。だが、瞼の裏には陽菜の笑顔。

(痛くない。これくらい、陽菜の苦しみに比べれば……)

鉄格子の向こう、退屈そうに警棒で掌を叩く看守。ここでは「子殺し」は人間以下の扱い。それが不文律。

夜。消灯後の静寂。

煎餅布団の下から取り出す一枚の封筒。手垢で黒ずんだ紙片だけが、暗黒世界における唯一の光。

月明かりを頼りに、拙い文字を指でなぞる。

『パパへ。海外のお仕事がんばってね。わたしもきょう、リハビリがんばったよ。はやくあいたいな。だいすき』

文字の震えは、病魔と闘う娘の懸命さ。紙から漂うのは消毒液、そして微かなミルクの香り。

便箋に顔を埋め、深く息を吸い込む。肺腑に満ちるその香りが、砕けかけた心を繋ぎ止める接着剤。

引きつる古傷。腫れ上がった瞼から零れ落ち、紙を濡らす雫。

「ああ……陽菜……」

漏れ出る嗚咽。この紙切れ一枚のためなら、どんな屈辱も耐え抜ける。泥水を啜り、排泄物に塗れようとも、お前が生きているなら。

壁の向こうの寝息、呻き声。便箋を抱き、胎児のように丸まる蓮司。

あと、十二年。

突如、廊下に響く重い足音。看守ではない。革靴の響き。

鉄格子の隙間から投げ込まれる封筒。

「差し入れだ」

遠ざかる低い声。

這うように封筒を拾う。差出人不明。中には一枚の写真。

病室のベッドで微笑む陽菜――ではない。

背景のカレンダー。そこに記された日付は、ありえない未来を示していた。

第3章: 偽りの希望

服役から三年。

暴力と重労働により、鋼のごとく削ぎ落とされた肉体。岩のように硬化した筋肉。

面会室のアクリル板越しに座る女。際立って黒いショートカット、射抜くような瞳。橘美咲と名乗るフリージャーナリストは、挨拶もそこそこに書類を押し付けた。

「単刀直入に言います。相馬さん、あなたは騙されている」

ピクリと動く眉。「……何の話だ」

「契約した仲介業者、先週摘発されました。報酬のほとんどを中抜きし、被害者への支払いは雀の涙。そして……」

微かに震える美咲の声。提示される一枚の写真。

墓石。

新しくも、どこか寂れた石に刻まれた名。『相馬陽菜』。

停止する心臓。

逆流する血液、消失する指先の感覚。

「……なんだ、これ」

「陽菜ちゃんは、あなたが収監された半月後に亡くなっています。手術費用など、支払われていなかった」

「嘘だ!!」

アクリル板を叩く拳。「手紙が来てるんだ! 毎月、あの子から! リハビリを頑張ってるって、俺の帰りを待ってるって!」

痛ましげに目を伏せ、唇を噛む美咲。

「それが、彼らの手口。受刑者を自殺させず、罪を被り続けさせるため……AIに筆跡を学習させ生成した、偽造文書です」

消える音。

動く美咲の唇。聞こえない。

手紙。あの匂い。あの温もり。生きる糧。全てが、0と1の信号?

機械が作った、偽りの愛?

俺が泥を啜り、殴られ、罵られている間、陽菜は一人で、金も治療もなく、暗い土の下で腐っていったのか?

「ああ、あああ、あああああああ!!!」

迸る咆哮。人間のものではない。

蹴り飛ばされる椅子。アクリル板に打ち付けられる頭部。響く鈍い音、滴る鮮血。

「返せ! 俺の人生を! 娘を! 返せぇぇぇ!!」

赤黒く充血する古傷。溢れ出す血混じりの涙。

駆けつける刑務官たち。「落ち着け! 54番!」

床に押し付けられた視界、コンクリートの冷たさの中で、何かが完全に砕け散った。

外れる希望という名の足場。底なしの奈落への落下。

だが、暗闇の底で灯る青白い炎。

愛は死んだ。残ったのは、世界すべてを焼き尽くすほどの憎悪のみ。

アクリル板の向こう、美咲は戦慄していた。

そこにいるのは冤罪被害者ではない。

地獄の釜の底から這い上がろうとする、「修羅」そのもの。

第4章: 復讐と虚無

出所の朝。

抜けるような青空。だが蓮司の目には、すべてが灰色。

門前に停まる古いセダン。降り立つ美咲。

「……行きますか」

無言の頷き。助手席へ。灰色のコートを翻す姿は、三年前とは別人。槍のごとく伸びた背筋、剃刀のように鋭い眼光。

復讐劇は静かに、しかし徹底的に遂行された。

美咲の情報を元に、仲介業者の幹部を一人ずつ「訪問」。必要最低限の暴力。だが、骨を砕く音と、二度と逆らえぬ恐怖を植え付けるには十分。

吐き出された金の隠し場所、神宮寺との繋がりを示す証拠。

それらを使い、外堀を埋められる神宮寺凱。

企業の不正会計リーク、株価暴落。

違法会員制クラブへの警察の手入れ。

SNSで拡散される過去の蛮行。

地位、名誉、金、人間関係。「特権」だと信じていたものが、ガラガラと崩れ去る音。

テレビ画面の中、マスコミに囲まれ狼狽する神宮寺。

「ざまあみろ」

美咲の呟き。対して無表情のまま、缶コーヒーを握りつぶす蓮司。

乾いた部屋に響く、スチール缶のひしゃげる音。

満たされない。

神宮寺が苦しむほど、胸の真ん中に広がる風穴。

復讐が進むたび、陽菜の面影は遠ざかるばかりだ。憎悪の炎に焼かれ、愛しい笑顔さえもが灰と化す。

(俺は、何のために……)

鏡を見つめる。そこに、陽菜が愛した父親の姿はない。娘を餌に生き延びた、醜い怪物が立っている。

「蓮司さん、居場所がわかりました」

顔を上げる蓮司。

「港区の別邸に潜伏中。今夜、海外へ高飛びするつもりです」

立ち上がり、懐の重みを確かめる。冷たく硬い、鉄の塊。

これで終わらせる。

陽菜のいない世界に未練はない。

「美咲、ここまででいい。帰れ」

「いいえ。最後まで見届けます。あなたを地獄へ誘った記事を書いた、せめてもの償いとして」

一瞥もしない蓮司。

夜の闇に溶け込むように、雨の街へ踏み出す。

死に場所を求める亡霊の背中。

第5章: 雨上がりの贖罪

港区、高級住宅街を叩きつける豪雨。

無力化された警備システム。音もなくリビングへ侵入する影。

広大な空間の隅、大理石の床にへたり込む男。神宮寺凱。

かつての傲慢さは何処へ。無精髭、充血した目、止まらぬ震え。

「ひ、ひぃっ……! くるな、くるなぁ!!」

閃く雷光。長く伸びる蓮司の影。

「久しぶりだな、神宮寺。俺の人生の味はどうだった?」

突きつけられる銃口。引き金にかかる指。引けば終わる。脳漿をぶちまければ、この乾きは癒えるのか?

「ま、待ってくれ! 金ならある! 十億か!? 倍払う! だから!」

「金で買えないものを教えてやる」

昏い殺意で濁る蓮司の瞳。

その時。

「パパ!」

飛び出す小さな影。甲高い声。

フリルのパジャマ、五歳ほどの少女。長い髪を揺らし、両手を広げて父を庇う。

「パパをいじめないで! おじちゃん、あっちいって!」

その背中にしがみつく神宮寺。「み、美優、助けてくれ、こいつがパパを殺そうとしてるんだ!」

我が子さえ盾にする卑劣さ。

止まる時間。

少女の必死な瞳。恐怖に震えながらも父を守ろうとする姿。

重なる陽菜の面影。

『パパ、お仕事がんばってね』

もし陽菜が生きていたら。もし俺が、罪を被らなければ。

震える銃口。

(撃て。こいつは悪魔だ。陽菜を殺した男だ)

(だが、この子の前で? 父親を奪うのか? お前があれほど憎んだ、「理不尽」そのものになるのか?)

「う……ぅぅぅあああぁぁぁ!!!」

獣のごとき咆哮。天井に向けられる銃口。

ターン!

粉砕されるシャンデリア。降り注ぐ硝子の破片、宝石の雨。

「……連れて行け」

床に捨てられる銃。

近づくサイレンの音。美咲による通報、全ての証拠データと共に。

「俺は、お前と同じ怪物にはならない。陽菜に……顔向けできない生き方は、もうしない」

へたり込む神宮寺と泣き叫ぶ少女を残し、蓮司は雨の中へ消えた。

数日後。

雨上がりの墓地。雲の切れ間から覗く太陽。

小さな墓石の前にしゃがみ込む男。

供物は缶コーヒーと、道端で摘んだ名もなき白い花。

「……陽菜。遅くなってごめんな」

穏やかな声。憑き物が落ちたように澄んだ表情。

「パパは、嘘つきだった。でも、もう嘘はつかない」

吹き抜ける風。揺れる白髪混じりの髪。それはまるで、小さな手が頭を撫でてくれたような感触。

「これからは、お前の分も生きる。泥水を啜ってでも、正しく生きるよ」

立ち上がる蓮司。

遠景、レンズを向ける美咲の姿。

失ったものは二度と帰らない。傷跡も消えない。

だが、雲間から射す光は、確かにその足元を照らしている。

彼は一歩、また一歩と、自分自身の人生を歩き始めた。

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