第一章: 蒼い雨と硝子の骸
空は、腐肉のような鉛色。
錆びた鉄と泥水が混ざり合う酷い異臭。それが肺の底にべったりとへばりつく。
永遠に降り続く「蒼雨」。濡れた肉体は、徐々に透明な無機物へと変貌していく。
ハンマーが空を切る。
硬質な破砕音。
石畳に散らばる、かつてパン屋だった初老の男の腕。
ヨダカ「これで三キロ。明日の配給分にはなる」
麻袋へ無造作に放り込まれる、削り取られた硝子の破片。
色を失った灰色の髪が、重い雨だれを弾く。虚ろな三白眼。足元の死骸をただの資源として見下ろす冷たさ。分厚い防水防刃コートの襟元で、付着した硝子の粉が皮肉なほど美しく光を反射している。
空が、鳴動する。
亀裂。
鉛色の天蓋がひび割れ、眩い光の筋が第七廃棄都市の泥濘を刺し貫いた。
落ちてくる。
人影。
ぬかるみを蹴り、廃棄された装甲車の上へ身を投じるヨダカ。
腕の中に、軽い衝撃。
冷え切った、異様に柔らかな感触。
ルリ「……あ、……」
透き通るような銀髪。空の青をそのまま溶かし込んだような巨大な瞳。
身に纏うのは、ひどく薄い、雨に濡れた白いワンピース一枚のみ。
少女の細い喉仏が上下する。大きく開いた瞳孔から、一粒の涙が零れ落ちた。
ヨダカ「怪我はないか。どこから落ちた」
ルリ「わかんない……怖いよ、空が、割れて……」
彼女の震える涙が、地面に転がる男のガラスの腕に触れる。
閃光。
目も眩む光の奔流。
無残な死骸の破片が、うねりを上げて形を変える。鋭利な硝子が柔らかな曲線を描き、瞬く間に氷のように澄み切った一輪の美しい花へと姿を変えたではないか。
ヨダカ「……なんだ、これは」
ヨダカの肺から息が漏れる。死を養分にして咲き誇る、おぞましくも目を奪われる硝子の百合。
狂っている。
世界も、目の前の少女も。
背筋を這い上がる得体の知れない悪寒。指が白く鬱血するほど、ヨダカは握りしめたハンマーの柄を強く握り込んだ。
第二章: 温もりという名の病
口の中に広がる、淹れたてのコーヒーの泥臭い苦味。
雨風を凌ぐ地下のアジト。ストーブの赤熱するコイルが、冷え切った空気を微かに揺らしている。
ルリ「あたたかいの。火って、生き物みたいだね」
ストーブに両手をかざし、無防備に笑うルリ。
銀髪がオレンジ色の光を吸い込み、柔らかな輪郭を作っている。
ヨダカ「触るなよ。火傷する」
シグ「ヨダカの兄貴! 発電機、直したッスよ!」
油まみれの茶色い髪を揺らし、工具箱を抱えて飛び込んでくるシグ。額に載せたゴーグルと、つぎはぎだらけのオーバーオール。手や顔には黒い煤がべったりとこびりついている。
シグ「これで三日はお湯が沸かせるッス。オレ、役に立つッスよね?」
ルリ「すごいよ、シグくん! 魔法使いみたい」
シグ「えへへ……ルリ姉ちゃんに褒められちゃったッス」
黙ってコーヒーの残りを飲み干すヨダカ。
胸の奥で、小さく火が灯るような感覚。失うことを恐れて遠ざけていた「家族」という甘い錯覚。それが冷たい泥濘の底から顔を覗かせている。
鋼鉄の扉が、爆音と共に吹き飛んだ。
ギンドウ「美しい光景である。吐き気がするほどに」
粉塵の中から現れる、漆黒の制服を隙なく着こなした長身の男。オールバックの黒髪。左眼を覆う無機質な機械式の義眼が、不気味な赤い光を瞬かせる。手には鞘に収まった長剣。
ヨダカ「……中央の軍犬か。何の用だ」
ギンドウ「その少女を引き渡したまえ。彼女は『災厄の器』。この世界を水底に沈める毒だ」
地下室の反響を切り裂く、ギンドウの冷たい声。
ルリの肩が跳ねる。
ルリ「私が……毒……?」
ヨダカ「戯言を。帰れ。ここは俺の縄張りだ」
ナイフを抜き放つヨダカ。
ルリの前に立ち、シグもスパナを構えた。
ギンドウ「哀れだな、砕氷屋。お前が庇っている温もりこそが、お前の明日を奪うのだと気づきもしないとは」
冷たい刃のような視線が、ヨダカの首筋を撫でる。
圧倒的な戦力差。ここで戦えば全滅は免れない。
発煙筒を床に叩きつけ、ヨダカはルリの細い腕を乱暴に掴んだ。
ヨダカ「走れ!」
白煙に巻かれながら、暗い地下水道へと飛び込む。
背後から響くのは、ギンドウの嘲るような低い笑い声。
逃げる。この雨が降らないという伝承の地「天頂」へ。
喉の奥に広がる血の鉄の味。これが終わりの始まりの合図だとは、知る由もなく。
第三章: 降雨の天秤
凍てつく夜の冷気。それが肌を刃のように刺す。
廃墟の陰で燃える小さな焚き火。炎の熱だけが、世界で唯一の命綱に思える。
シグ「兄貴、ルリ姉ちゃん。この干し肉、うまいッスよ!」
配給食の包みを差し出すシグ。
それを受け取り、ルリはヨダカの隣に座り直した。
ルリ「ありがとう、シグくん。……ヨダカ、半分こ、しよ?」
ヨダカの顔を見上げるルリ。
空の青を宿した瞳が、炎の光を受けて優しく揺れている。
ヨダカ「俺はいい。お前が食え」
ルリ「だめだよ。一緒に食べるから、美味しいんだよ」
ほころぶルリの唇。
満面の、混じり気のない笑顔。
ヨダカの胸の奥で、硬い氷が微かに溶け出す音がする。
ルリ「私……今、すごく幸せ。二人に出会えて、本当によかっ——」
言葉が、途切れる。
ゴロゴロォォォォォンッ!!
悲鳴を上げる天蓋。
空が激しく鳴動し、滝のような蒼雨が前触れもなく降り注いだ。
雨粒の大きさが、先ほどまでの比ではない。
ヨダカ「な……っ!?」
シグ「兄貴ッ!! 危ないッス!!」
崩れ落ちてくる巨大な鉄骨。それを避けるため、シグがヨダカを思い切り突き飛ばす。
泥水に倒れ込み、ヨダカが顔を上げた瞬間。
シグの頭上から、大量の蒼雨が直撃した。
シグ「あ……れ……?」
シグの足先から、異常な速度で透明なガラス化が進行していく。
ボロ布のオーバーオールが、茶色い髪が、無機質な結晶へと置き換わる。
ヨダカ「シグ!! ふざけるな、おい!!」
シグ「兄貴……オレ……役に、立った……ッス、か……?」
パァァァンッ!!
乾いた破裂音。
シグの体が、数千のガラス片となって宙に舞い散る。血の代わりに、透明な破片が煌めきながら降り注ぐ。
ルリ「ああ……あああ……!! 私の、せいだ……!」
膝から崩れ落ち、頭を抱えるルリ。彼女は自らの髪を狂ったように掻き毟る。
背後の闇から響く軍靴の音。
ギンドウ「言ったはずだ。その少女は災厄だと」
雨の中を悠然と歩み寄るギンドウ。義眼の赤い光が、泥に塗れるヨダカを見下ろしている。
ギンドウ「天の眼の落とし子。彼女が感情を揺らし、幸福を感じるほど……世界を殺す雨は激しさを増す。君たちの温かな絆が、この少年を殺したのだ」
呼吸が止まる。
ルリが幸せになれば、世界が滅びる。
残酷すぎる真実の前に、ヨダカの視界がぐにゃりと歪む。
第四章: 硝子の祈り
冷たい。
足元に散らばるシグだったガラスの破片が、氷のようにヨダカの膝を刺す。
ルリ「嘘……全部、私のせいで……みんなが……」
雨に打たれ、頬に張り付く銀髪。
彼女の視線の先。激しさを増す蒼雨を浴びた廃墟の住人たちが、次々と悲鳴を上げながら硝子の彫像へと変わっていく。
逃げ惑う母親、すがりつく子供。すべてが美しい、透明な死骸と化す。
ギンドウ「理解したかね。個の命は、世界の存続という大義の前に塵と化す。彼女の命を絶ち、その心臓を天に捧げれば、この忌まわしい雨は永遠に止む」
長剣を抜き放つギンドウ。白刃が、冷たい雨を切り裂く。
ルリ「私が……消えれば……」
ふらふらと立ち上がるルリ。
その瞳に宿るのは、狂気に似た自己犠牲の光。恍惚とした笑みすら浮かべている。
ヨダカ「やめろ、ルリ! 動くな!!」
ルリ「ヨダカ……優しくしてくれて、ありがとう。私、ずっと、こんな風に誰かのために命を使いたかったの」
泣き笑いの形に歪むルリの唇。
一切の躊躇なく、彼女はギンドウの突き出した刃へ向かって走り出した。
ルリ「お願い……私を殺して!!」
ヨダカ「やめろぉぉぉッ!!」
泥を蹴る。腕を伸ばす。
しかし、届かない。
世界の救済という名の呪いが、少女の細い首に刃を突き立てようとしている。
血の気が引き、心臓が限界まで脈打つ。
このまま彼女を死なせれば、世界は救われる。
だが。
壊れたものは、二度と元には戻らない。
第五章: 硝子の森の永遠
ヨダカ「世界なんて、どうでもいい!!」
ガァンッ!!
ヨダカのハンマーが、ギンドウの長剣を横から弾き飛ばす。
火花が散り、鋼鉄が砕ける甲高い音。
ギンドウ「狂ったか、砕氷屋! 全人類を見殺しにする気か!」
ヨダカ「俺の家族を奪う世界に、生きる価値などない!!」
逆手に持ち替えたナイフ。
迷いはない。
泥に塗れた体を沈み込ませ、ギンドウの懐に飛び込むヨダカ。
刃が漆黒の制服を裂き、心臓を正確に貫いた。
ギンドウ「……愚か、な……。絶望の、泥濘で……溺れ、るが、いい……」
雨の匂いを上書きする、血の生臭い匂い。
巨体が崩れ落ち、ギンドウの呼吸が完全に止まる。
血塗れのナイフを捨て、ヨダカは立ち尽くすルリの元へ歩み寄った。
ルリ「どうして……私を殺してよ! 私が生きていたら、ヨダカまで死んじゃう!」
ヨダカの胸を何度も叩く、ルリの小さな両手。
彼女の細い手首を掴み、ヨダカは強引に自分の胸の中へ引き寄せた。
ヨダカ「お前がいない世界なんて、息をするのすら面倒だ」
冷え切った彼女の唇を、塞ぐ。
泥と血の味が混ざり合う、不器用で暴力的なキス。
硬直していたルリの身体から、やがて力が抜けていく。ヨダカの背中に回された小さな手が、しがみつくようにコートの生地を握りしめた。
ヨダカ「俺と一緒に生きてくれ。他の何も要らない」
ルリ「ヨダカ……ああ、ヨダカ……ッ!」
ルリの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
止めどない幸福。極限まで解放された愛の悦び。
カァァァァァァァァンッ!!!
天の亀裂が、完全に弾け飛ぶ。
光の奔流。
数兆の雨粒が、世界を飲み込む。
第七廃棄都市も、中央統制都市も、逃げ惑う人々も、泣き叫ぶ赤ん坊も。
すべてが、光の中で一瞬にして無機質な結晶へと変化していく。
音が、消える。
そこは、無臭の透明な森。
見渡す限りの広大な世界が、巨大で圧倒的に美しいクリスタルの彫像群へと変貌している。
死の静寂。
輝く硝子の骸の海の中央で、ヨダカとルリだけが呼吸を繰り返している。
ルリ「綺麗……。世界中が、お花畑みたい」
ヨダカの胸に顔を埋め、陶酔したように微笑むルリ。
ヨダカ「ああ。綺麗だな」
虚ろな三白眼で、滅び去った世界を見つめるヨダカ。
足元には、砕け散ったシグの破片と、ギンドウの硝子の死骸。
狂気を受け入れた者にだけ許される、究極の救済。
たった二人の永遠の愛が、煌めく静寂の中で確かに脈打っている。