空から降る、硝子の雪。
肺の奥底まで凍てつく冷気が、錆びついた終着駅のホームをなめ回す。
ズキリ、と。
厚手の防塵コートに包まれたヨダカの右腕。それが、不気味に脈打つ。
包帯の下で皮膚を喰い破り、首筋へ這い上がろうとする青黒い鉱石。共生器官が、異界の空気を吸って熱を帯びる。
色素の薄い灰色の前髪。その奥で射抜くような三白眼の黒瞳。
摩耗した革ブーツが、プラットホームに積もるガラス片を乱暴に踏み砕く。甲高い不協和音が、死に絶えた世界へ虚しく反響していく。
狂気の生態系「星骸樹海」。妹を呑み込んだ地獄。
その入り口に、男は立つ。
鉄錆。そして、どこか甘ったるい腐乱花の匂いが鼻腔を突く。
視界の先。砕けた列車の残骸の影に、それはいた。
淡い月明かりを反射し、青いガラスの花が狂い咲く中心。
巨大な異形の獣たち。まるで神を拝むかのように円陣を組み、ひざまずく異様。
その中央に、ひとりの少女が眠っている。
透き通るような長い銀髪。毛先には、微小な青いクリスタルが星屑のように絡みつき、明滅を繰り返す。
植物繊維で編まれた簡素な白い貫頭衣。そこから伸びる手足は、骨が透けるほどに細く、病的だ。
ヨダカ「なんだ、あれは」
乾いた唇を震わせ、吐瀉物のように漏れ出る嗄れ声。
少女のまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。
現れたのは、底知れぬ深淵を宿す瑠璃色の瞳。
薄い唇が微かに動き、旋律を紡ぐ。
――あぁ、遠い空。星の骸が、降る夜に。
歌声に呼応し、周囲の星骸獣たちの赤く濁った瞳から、ふっと攻撃的な光が消え去る。
ヨダカの胸の奥。冷たく硬直していた何かが、音を立てて軋む。
温かい。
とうの昔に喪失し、記憶の底に封じ込めたはずの「人間の温度」。
少女が、ゆっくりと立ち上がる。
裸足のまま、鋭利なガラスの雪を踏みしめ、歩み寄ってくる。
ルリ「あなたは、誰ですか」
ヨダカ「俺は……ヨダカだ。お前は」
ルリ「わかりません。私には、何もないのです」
透明な声。感情の起伏を一切持たない、空虚な響き。
だが、その圧倒的な美しさと底知れぬ孤独。それがヨダカの脳髄を直接揺さぶる。
妹を救うための旅路。最奥「記憶の海」へ至る鍵は、この名もなき少女の手の中に。
ヨダカは双発式ボウガンのグリップを力強く握り直し、彼女の瑠璃色の瞳を真っ直ぐに見据える。
これこそが、二度と引き返せない地獄への片道切符。
第二章: 瑠璃色の軌跡
刃のように鋭いクリスタルのシダ植物が密生する獣道。
踏み出すたびに、足元で鉱石が擦れ合う無機質な音。
グガァァァッ!
背後から迫る異形の四足獣。体表を覆うのは、凶器のごとき鋭利なアメジスト。
ヨダカ「伏せろ!」
ヨダカは振り返りざまにボウガンを構え、引き金を絞り込む。
空気を裂き、金属の矢が獣の肩口を貫く。だが、獣はたたらを踏みながらも突進をやめない。
その刹那、ルリがヨダカの前に飛び出す。
ヨダカ「馬鹿野郎、下がるんだ!」
彼女は両手を広げ、血走る獣の鼻先にそっと触れる。
《鎮痛の波紋》
ふわりと舞い上がる銀髪。青い光の粒子が、獣の巨大な身体を優しく包み込む。
狂乱していた獣の喉から、甘えるような低い鳴き声。やがて巨体はガラスの粉と化し、崩れ落ちていく。
だが。
ルリ「……っ」
ルリの華奢な肩が、ビクンと痙攣する。
ヨダカが駆け寄る。
彼女の右手の指先。そこが、うっすらと透明なクリスタルに侵食されていた。
ヨダカ「お前、自分の身体をなんだと思ってる! 獣の痛みを肩代わりして、どうするつもりだ!」
ルリ「私は、ただの器ですから。痛くても、悲しくありません」
空っぽの微笑み。
その顔を見た瞬間、ヨダカは奥歯を強く噛み締める。
血の味が滲むほどの力で。
ヨダカ「嘘をつくな」
ヨダカは荒々しく防塵コートを脱ぎ捨てる。
包帯に巻かれた己の右手を伸ばし、冷たく硬化したルリの指先を両手で荒っぽく包み込む。
ひび割れた男の手のひらから伝わる、不器用で、ひどく熱い温度。
ルリ「ヨダカ……?」
ルリの瑠璃色の瞳が、かすかに揺らぐ。
ヨダカ「俺が守る。だから、二度と自分を安売りするな」
焚き火の爆ぜる音が、静寂の森を舐める。
アルミのマグカップから立ち上る、深く焙煎されたコーヒーの焦げた匂い。
ヨダカから手渡されたカップを両手で包み込み、ルリは小さく一口すする。
ルリ「苦くて……でも、お腹の奥が、ぽかぽかします」
ヨダカ「……そうか」
満天の星空。降るような星骸の光の下。
ルリはヨダカの胸元にそっと耳を寄せる。
ルリ「ヨダカの心臓の音、とても暖かくて……少しだけ、泣きそうです」
失われた人間の感情。それが確かな輪郭を持ってルリの内に芽生え始める。
だが、その安らぎを無惨に切り裂くように、樹海の奥深くから地響きが轟く。
ドォォォォン……!
風に乗って漂うのは、生臭い火薬の匂いと、焦げた肉の悪臭。
ヨダカの顔から、一瞬にして血の気が引く。
この狂気じみた破壊の痕跡。その主の心当たり。
第三章: 灰燼の狂信者
焼け焦げたクリスタルの残骸が、黒煙を上げてくすぶる。
中層エリア「硝子の谷」。
赤黒い炎を背に、その男は立つ。
黒く染め上げられた旧軍の防護服。焦げたマント。右目を覆う眼帯の奥で、残された赤い瞳が狂気の色にギラつく。
シラハ「遅えじゃねぇか、ヨダカ。待ちくたびれて、森を半分焼いちまったぜ」
ヨダカ「シラハ……! お前、まだこんな真似を」
ヨダカのボウガンを構える手。それが、微かに震える。
かつて背中を預け合った親友。だが、恋人を樹海に奪われたあの日から、彼は復讐の鬼と化していた。
シラハ「美しいから残酷なんだよ。こんな偽物の森は、全部灰にしてやる」
シラハの口から吐き出される紫煙。むせ返るような火薬の匂いと混じり合う。
冷ややかな視線が、ヨダカの背後に立つルリを射抜く。
シラハ「ほう。まさか、そんなモンまで連れ歩いてるとはな。お前、そいつの正体を知ってて抱え込んでるのか?」
ヨダカ「どういう意味だ」
シラハ「教えてやるよ。このふざけた生態系の、ヘドが出るような真実をな」
シラハの言葉が、重い鉛となってヨダカの鼓膜を打つ。
シラハ「この樹海は、滅びゆく人類が記憶を残すために造った巨大なサーバーだ。そして今、そのシステムの中枢で生体部品として組み込まれているのが……お前の妹、キリエだ」
ヨダカの呼吸が、凍りつく。
シラハ「そして、そ的外の銀髪の化け物。そいつは、キリエが世界の崩壊を防ぐために生み出した『感情の器』に過ぎねぇ」
シラハは口元の葉巻を靴底で乱暴に踏み躙り、歪な笑みを浮かべる。
シラハ「妹を取り戻したきゃ、中枢をぶっ壊すしかねぇ。だが、そうすればシステムの一部であるその人形も、跡形もなく消え去る」
喉の奥がカラカラに乾く。
血の気が引き、世界の色が急速に失われていく。
妹を救うか。
それとも、今、隣で温かな息を吐く少女を救うか。
残酷な天秤が、ヨダカの眼前に突きつけられる。
第四章: 欠落の天秤
死にたくなきゃ、そこをどけぇぇぇ!!
シラハの咆哮。同時に無数の起爆札が宙を舞う。
轟音。鼓膜を破るほどの爆発。
吹き荒れる熱波と、散弾のように降り注ぐガラスの破片。
ヨダカ「やめろぉぉぉ!!」
ヨダカはルリをかばい、防塵コートを盾にする。
右腕の共生器官が限界を超えて脈打つ。
皮膚を突き破り、青黒い血が飛沫を上げる。
視界が、赤と黒に明滅する。
呼吸のたび、喉の奥に広がる血と鉄の味。
シラハのナイフが、ヨダカの肩口を深くえぐる。
シラハ「目を覚ませ、ヨダカ! 過去に縛られるな! 俺と同じ絶望を、お前は味わう必要はねぇんだ!」
親友の悲痛な叫び。
膝から力が抜け、ヨダカは冷たいクリスタルの地面に崩れ落ちる。
限界。もう、どちらも救えない。
その時。
ルリが、ヨダカの前に進み出る。
ヨダカ「ルリ……? 駄目だ、行くな!」
彼女は振り返る。
浮かべるのは、信じられないほど穏やかな微笑み。
その身体から、圧倒的な青い光の粒子が溢れ出す。シラハの放つ炎を次々と飲み込んでいく光の海。
ルリ「ヨダカ。私に、名前と温もりをくれて、ありがとう」
光が強さを増す。ルリの足先から、透明なクリスタルへと還元されていく肉体。
ルリ「私には記憶がないから、消えても悲しくありません。だから、どうか笑って」
そう言いながら、彼女は自らの唇を血が滲むほど噛み破り、恐怖に震える手を無理やり押さえつけていた。
ヨダカ「嘘だ!! お前、手が震えてるじゃねぇか!!」
叫びながら手を伸ばす。
だが、指先が触れる直前。
ルリの身体は無数の光の粒と化し、天空へと巻き上がるように散華していく。
空中に残された、一条の銀色の髪。それすらも、すぐに幻のように溶けて消える。
ヨダカ「あ……あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
喉が裂けるほどの慟哭。
爪から血が滲むほど、地面の破片を掻きむしる指。
理不尽な喪失感。自己犠牲の痛み。
妹を救うために来たはずの森で、彼は何よりも大切なものを失う。
圧倒的な虚無と静寂だけが、血まみれの青年の周囲に横たわる。
第五章: 透明な君の鼓動
ガガ……システムエラー……生体反応……低下……
ヨダカは立ち上がる。
包帯を力任せに引きちぎった。
右腕から首筋、そして右目へと達する青黒い共生器官。彼は自らの命を削り、その力を完全に暴走させる。
ヨダカ「忘れるもんか。俺が、全部背負っていく」
意識の混濁。薄れゆく視界の中、彼は「記憶の海」の最深部へ。巨大な琥珀色の結晶体へと身を投じる。
水も音もない、精神の深海。
光の粒が舞う空間で、ヨダカはひとりの少女と対峙する。
古ぼけた赤いリボン。眠り続ける妹、キリエの魂。
彼女はゆっくりと目を開き、愛する兄を見つめる。
キリエ「お兄ちゃん。もういいんだよ。前を向いて」
その声は、ヨダカの脳内を直接震わせる。
ヨダカ「お前を、連れて帰る。ずっと、そのために」
キリエ「私の記憶を手放して。そして、彼女との明日を生きて」
キリエの手が、ヨダカの頬に触れる。幻の温もり。
瞳から零れ落ちた一滴の涙が、琥珀の結晶に亀裂を走らせる。
ヨダカ「キリエェェェェ!!」
泣き叫びながら、ヨダカは両手で結晶を叩き割る。
妹との記憶。後悔。罪悪感。その全てを、世界に捧げる決断。
ピシッ……パァァァァァンッ!!
その瞬間。
樹海中のあらゆる結晶が一斉に砕け散る。
溜め込まれていた人類の記憶と感情。それが圧倒的な光の奔流となって、真っ暗な天空を貫き昇っていく。
光の雨。ガラスの雪ではなく、温かな光のシャワーが大地を包み込む。
◇◇◇
柔らかな陽光が、まぶたを叩く。
草の青々とした匂い。風のせせらぎ。
ヨダカは、静かに目を開く。
右腕を覆っていた忌まわしい鉱石は、嘘のように消え去る。
残されたのは、ただの、人間の腕。
そして。
視界の端。
緑の草の上に、ひとりの少女が倒れている。
透き通る銀髪。白い貫頭衣。
だが、その毛先にクリスタルの輝きはない。
ヨダカは這うように近づき、震える手で彼女の肩を抱き起こす。
トクン。トクン。
小さな胸から伝わる、確かな心臓の鼓動。
長い睫毛が震え、ゆっくりと、瑠璃色の瞳が開かれる。
ルリ「……ヨダカ?」
頬に差す、柔らかな血の気。
冷たい器ではない。温かい、人間の心と身体。
ルリの細い指先が、ヨダカの傷だらけの頬をそっと撫でる。
その瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出す。
ルリ「痛いです……。ここが、ぎゅってして、すごく悲しくて……嬉しい」
彼女は自分の胸を強く握りしめ、初めての感情に泣きじゃくる。
ヨダカ「あぁ……そうだな」
ヨダカはルリの小さな身体を、壊れるほど強く抱きしめる。
喪失の痛み。それは一生消えないだろう。
妹との記憶は、光となって空の彼方へ散った。
だが、腕の中にあるこの透明な鼓動だけは、決して手放さない。
澄み切った青空の下。二人の影が、新しい世界に長く伸びていく。