第一章: 秋雨とガラスの風鈴
雨音。
窓ガラスを滑り落ちる無数の水滴。灰色の空を、無残に切り刻む。
少し長めに伸びた無造作な黒髪を掻き上げ、春樹は浅く息を吐いた。休日の定番となったシンプルな白シャツに、薄手のグレーのカーディガン。袖口から覗く手首は、神経質そうに骨張って。
窓際に立つ彼の姿。それをガラスが薄ぼんやりと反射する。疲労の色が濃く滲み、光を吸い込むような双眸。
手元のマグカップから鼻腔をくすぐるのは、淹れたてのドリップコーヒーの苦い香り。一口含む。舌の奥に広がるのは、泥のような渋み。
隣のベランダから。
チリン、と。高い音が鼓膜を叩いた。
ガラスの風鈴。季節外れの澄んだ音色に惹かれ、春樹は網戸を引き開ける。
頬にまとわりつく、冷たい秋雨の湿気。
フェンスの向こう側。そこに、彼女は立っていた。
[A:雪乃:冷静]「……あ」[/A]
病的なまでに透き通った白い肌。肩のラインで寸分違わず切りそろえられた濡羽色の黒髪。淡い光を弾く清楚な白いワンピースの裾が、冷たい風に小さく揺れて。
彼女の瞳孔は不自然なほどに開ききっている。底なしの深淵。それを覗き込んでいるかのような、得体の知れない圧迫感。
同時に、雨の匂いを上書きするほどの強烈な香り。むせ返るほど濃厚な百合の匂いが漂ってくる。
[A:春樹:照れ]「あ、すみません。風鈴の音が聞こえて……。今日、引っ越してこられたんですか?」[/A]
[A:雪乃:喜び]「はい。雪乃と申します。これから、よろしくお願いいたしますね」[/A]
彼女の唇の端。それが、ほんのわずかに持ち上がる。
夕立が急に上がり、分厚い雲の切れ間から斜めに射し込む黄金色の光。フェンス越しに見上げる空。そこに架かる、淡い七色の虹。水たまりが光を乱反射し、世界が一瞬だけ圧倒的な色彩に包まれる。
その光景の中心。どこか寂しげに微笑む彼女の姿は、暴力的なまでに美しい。
[Think]この人となら、心の奥底で凍りついている孤独を、分け合えるかもしれない。[/Think]
春樹の胸の奥で静かに芽吹く、致命的な錯覚。
引き返すことのできない地獄への入り口。そうとは知る由もなく。
第二章: 侵食する水面
時計の針。深夜二時。
[A:美波:怒り]「どうして、いつもそうやって自分の殻に閉じこもるの?」[/A]
スマートフォンのスピーカーから響く、棘のある声。
脳裏に浮かぶ美波の顔。明るく染めたブラウンのボブヘア、意思の強さを物語るつり上がった目尻。いつも完璧に着こなすオフィスカジュアルの隙のなさ。今の春樹には、それが少しだけ息苦しい。
[A:春樹:悲しみ]「ごめん。そういうつもりじゃ……ただ、少し疲れていて」[/A]
[A:美波:悲しみ]「……もういい。おやすみ」[/A]
通話が切れる。無機質な電子音が部屋に響き渡った。
みぞおちの辺りが重く沈む。彼女を愛している。嘘ではないはずなのに、どうしても最後の一線を越えさせることができない。
ふと、短く鳴るインターホン。
モニターに映るのは、真っ白なワンピース姿の雪乃。
ドアを開ける。タッパーを手にした彼女が静かに佇んでいた。
[A:雪乃:愛情]「夜分に申し訳ありません。作りすぎてしまって。……少し、お疲れのようでしたから」[/A]
差し出された容器。そこから微かに漏れ出す、出汁と生姜の温かな匂い。
春樹の喉仏が上下する。なぜ彼女は、自分が美波と口論してひどく消耗している「今」この瞬間に、現れたのか。
[A:春樹:驚き]「どうして、僕が疲れてるって……」[/A]
[A:雪乃:喜び]「わかりますよ。あなたのことなら、なんだって」[/A]
[Whisper]私たちは、同じですから。[/Whisper]
彼女の細い指先。それが春樹の手首に触れる。氷のように冷たい感触。
心地よい温もり。そして、背筋を這い上がるような得体の知れない違和感。
翌日。春樹はゴミ捨て場に向かう途中、ふと立ち止まった。
昨日、自分が部屋のゴミ箱に捨てたはずの「破り捨てた映画の半券」。
それが、雪乃の部屋の郵便受けの隙間に。まるで大切なしおりのように挟まれている。
視野がチカチカと明滅する。不快なリズムを刻み始める心臓。
第三章: 完全なるレプリカ
[A:拓海:怒り]「春樹、お前マジで気をつけろよ。隣の女、絶対におかしい」[/A]
居酒屋の喧騒の中。拓海がジョッキを叩きつけるように置いた。
短く刈り込んだ髪、スポーツで鍛え上げられた分厚い胸板。ラフなレザージャケットを押し上げるほどの体躯。鋭い視線が春樹を射抜く。
[A:春樹:冷静]「考えすぎだよ、拓海。彼女はただ、親切なだけで……」[/A]
[A:拓海:怒り]「俺の直感を舐めんな! あいつの目、人間を見る目じゃねぇんだよ。なんか嫌な予感がするんだよ!」[/A]
その夜。
スマートフォンの着信音。けたたましく鳴り響く。
電話の向こうから聞こえたのは、[Shout]ドンッ![/Shout]という鈍い衝撃音。金属製の階段を転げ落ちる無残な摩擦音。そして、微かな血の鉄の匂いが通信電波を越えて漂ってくるかのような、生々しい沈黙。
拓海が、何者かに駅の階段から突き落とされた。意識不明の重体。
さらに、昨夜から美波と連絡がつかない。
スマートフォンの画面をスクロールする春樹の指先。それが小刻みに震える。
[Tremble]まさか。[/Tremble]
雪乃が外出するのを見計らい、春樹は隣室のドアノブに手をかけた。
鍵は、開いていた。まるで彼を招き入れるかのように。
一歩足を踏み入れた瞬間、春樹の呼吸が止まる。
鼻を突くのは、無臭。生活臭が一切存在しない、異常なまでの無機質さ。
しかし、視界に飛び込んできた光景。それに春樹は膝から崩れ落ちそうになる。
[Impact]同じだ。[/Impact]
淡いベージュの壁紙、安物のローテーブルの位置、本棚に並ぶ背表紙の順番。さらには部屋の隅に置かれたゴミ箱の角度に至るまで。
雪乃の部屋。それは春樹の部屋と「寸分違わぬ完璧なレプリカ」として構築されていた。
狂気のジオラマ。
壁一面にびっしりと貼られているのは、春樹の日常を記録したメモと隠し撮りの写真。
めまい。胃袋がせり上がり、口の中に酸っぱい唾液が湧く。
部屋の奥。固く閉ざされたクローゼットの扉の隙間から、何かが微かに蠢く音がした。
春樹は、震える手でその扉のノブを握りしめる。
第四章: 模倣と神の不在
扉を引き開ける。
埃っぽい空気とともに転がり出てきたのは、猿轡を噛まされ、手足を結束バンドで縛られた美波。
乱れたブラウンのボブヘア。恐怖で充血したつり目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちている。ブラウスは泥と汗に汚れ、縛られた手首には痛々しい鬱血の痕が赤黒く浮かんで。
[A:春樹:絶望]「美波……!」[/A]
[A:美波:恐怖]「んっ……! んんっ!!」[/A]
慌てて猿轡を外そうとした瞬間。背後からひんやりとした空気が流れ込んできた。
[A:雪乃:冷静]「勝手に入っては、いけませんよ」[/A]
振り返る。そこには、純白のワンピースを纏った雪乃の姿。
彼女の手に握られているのは、銀色に光る長い裁ち鋏。
[Sensual]
雪乃はゆっくりと春樹に近づき、その氷のように冷たい指先で、彼の頬を愛おしそうになぞった。
春樹の全身の産毛が逆立つ。粘りつくような汗が首筋を伝う。
[A:雪乃:愛情]「三年と四ヶ月前。踏切の前に立っていた私に、あなたは傘を差し出してくださいました。……『大丈夫、なんとかなるよ』と」[/A]
彼女の息遣いが、耳元を掠める。甘く、腐敗した百合の匂い。
[A:雪乃:狂気]「あの瞬間、あなたは私の神様になりました。神様に孤独は似合いません。だから、私があなたになるんです。あなたの痛みも、悲しみも、すべて私に溶かして……」[/A]
指先が頬から首筋、そして胸元へと滑り落ちる。心臓を直接撫でられているかのような錯覚。
[A:雪乃:喜び]「この不純なノイズたちは、私が綺麗にお掃除しておきますから」[/A]
[/Sensual]
[A:春樹:怒り]「[Shout]ふざけるなッ!![/Shout]」[/A]
春樹は雪乃の手を激しく払い除けた。
[A:春樹:怒り]「君は異常だ……! こんなの、愛でも救いでもない。ただの狂気だ!!」[/A]
弾き飛ばされた雪乃は、床に倒れ込みながら、ぱちりと瞬きをする。
彼女の瞳孔。それが限界まで開く。彼女は自分の指先をガリガリと噛みちぎるように頬張った。
[Glitch]カミサマが、わたしを、キョゼツ、した。[/Glitch]
床から立ち上がった彼女の手。いつの間にか赤いポリタンクが握られていた。
キャップが外される。強烈な灯油の刺激臭が、鼻腔を暴力的に貫く。
第五章: 灰の降る箱庭
ドクン、と心臓が脈打つ。
[A:雪乃:悲しみ]「そうですか。……同化できないのなら、せめて」[/A]
無造作に灯油を撒き散らす彼女。壁紙、家具、レプリカの部屋のすべて。ぬらぬらとした液体に濡れていく。
ライターのフリントが擦れる乾いた音。
小さな火種が、床に落ちる。
[Flash]一瞬の静寂の後、爆発的な業火が部屋を舐め尽くす。[/Flash]
[A:美波:恐怖]「[Shout]いやぁぁぁッ!![/Shout]」[/A]
[A:春樹:絶望]「雪乃、やめろ!!」[/A]
肌を焼くような強烈な熱波。空気が一瞬で膨張し、肺の中の酸素が奪われる。
紅蓮の炎。それが、狂気の箱庭を美しく焼き崩していく。
天井の壁紙が剥がれ落ち、舞い散る灰。まるで真冬の粉雪のように、空間を優雅に舞う。熱による上昇気流が、彼女の白いワンピースを花びらのようにめくり上げて。
炎の中心。雪乃は至福の笑みを浮かべていた。
[A:雪乃:愛情]「私の存在を、最も美しい傷として……あなたの胸に、永遠に刻みます」[/A]
[Pulse]ドンッ![/Pulse]
凄まじい力。春樹と美波の背中が突き飛ばされた。
廊下へと転がり出る二人。
振り返った春樹の網戸越しに見る、最後の光景。
崩れ落ちる炎の枠の中。雪乃の姿が溶けるように消えていく。ガラスの風鈴が熱で弾け飛び、悲鳴のような高い音を立てて砕け散る。
◇◇◇
三年後。
長い雨が上がった、秋の夕暮れ。
春樹はベランダのフェンスに寄りかかり、薄ぼんやりと空を見上げていた。
あの事件の後。拓海は奇跡的に意識を取り戻し、美波との生活も表面上は平穏を取り戻す。
しかし、春樹の瞳の奥底。そこに棲みついた空虚な色は、もう二度と消えない。
風が吹く。
チリン、と。
そこにあるはずのない、ガラスの風鈴の音が耳の奥で鳴る。
同時に、雨上がりのアスファルトの匂いに混じって、むせ返るほど濃厚な百合の香りが鼻腔を通り抜けた。
[FadeIn]『私たちは、同じですね』[/FadeIn]
胸の奥、心臓に刻まれた火傷の痕。それがチリリと熱を持つ。
春樹は無意識に、誰もいない隣のベランダに向かって、優しく微笑みかけていた。
決して消えることのない、狂おしいほどの喪失感。それを抱きしめながら。
空には、あの日のように淡い虹が架かっている。
フェンスを滑り落ちる雨粒。
静寂だけが、彼を永遠の檻に閉じ込める。
緻密に作り上げられた、見えない箱庭の中で。