第一章: 砕ける空と、光を縫う少女
海風が、緩めたネクタイの結び目を弄る。
視界を遮る、少し長めに伸びた黒髪。遠野凪は苛立たしげにそれを払った。
首から下げた銀色のフィルムカメラ。使い込まれて真鍮の地金が覗く愛機が、鎖骨に当たって鈍い音を立てる。
夕立上がりの無人駅。燃えるような茜色の空を、プラットホームの水たまりが鏡のように反射していた。
三白眼に宿る、どこか冷めた光。
ファインダー越しに切り取る世界。それは凪にとって、常に平面の他人事。
僕がいなくても、世界は回る。
シャッターを切ろうとした指。その動きが硬直する。
空に、巨大な亀裂が走っていた。
パァンッ!
ガラスが砕けるような鋭い音が鼓膜を突き破る。零れ落ちる空の破片。
群青と茜色が混じる境界線から、物理的なステンドグラスの破片となって、パラパラと線路のバラストに降り注いだ。
そこへ、彼女が現れた。
透き通るような白い肌。風に揺れる軽やかなショートボブ。翻る、清潔なセーラー服のプリーツ。
彼女の細い指先から紡ぎ出されたのは、眩い光の糸。
星野 結衣「……繋いで、縫い合わせる」
《修復》
空間の亀裂を縫い上げる光の糸。ヒビは嘘のように塞がっていく。
アスファルトから立ち昇る雨上がりの匂い。再び鼓膜を叩く波の音。
直後、少女が振り返る。
凪を真っ直ぐに捉える、淡い群青色の瞳。彼女の頬を、透明な雫が伝っていた。
星野 結衣「ここは、どこ? 私はなぜ泣いているの?」
記憶の欠落。
彼女の髪を激しく揺らす海風。警鐘を鳴らす凪の心臓。
ひどく美しく、そして残酷な光景。それがレンズを通さず、直接凪の網膜へ焼き付く。
出会いの瞬間。凪の足元から、退屈な日常が崩れ去る音がした。
◇◇◇
第二章: レンズ越しの記憶と、日常の尊さ
星野結衣は翌日、凪のクラスに転校生として現れた。
誰にでも向ける、ふんわりとした笑顔。だが、彼女は放課後になるたび屋上へ向かう。
《修復》
それを行うたびに、こぼれ落ちていく彼女の記憶。昨日覚えた英単語。友人の名前。砂時計のように指の隙間から滑り落ちていく。
遠野 凪「昨日教えた数式、また忘れてるぞ」
星野 結衣「あはは、ごめんね。最近、物忘れがひどくて」
黒板のチョークの粉の匂い。埃が西日に乱反射する放課後の教室。
無言でカメラを構え、シャッターを切る凪。カシャリ、という機械音が静寂を破る。
遠野 凪「忘れてもいいよ。僕が全部、記録しておくから」
星野 結衣「ほんと? 凪くんの写真、私大好きなんだ」
三日月のように細められる群青の瞳。
ファインダー越しに見る彼女の笑顔。それが永遠ではないという事実が、凪の喉の奥をカラカラに乾かせる。日に日に厚みを増していく、現像した写真の束。
飛行機雲を指差す結衣。甘いクレープを頬張る無邪気な笑顔。海風に髪をなびかせる彼女の姿。
星野 結衣「大丈夫。空が青い限り、私はここにいるよ」
夕暮れの海岸。風が冷え込み、結衣の華奢な肩が微かに震える。
凪は着ていたブレザーを脱ぎ、彼女の肩にそっと掛けた。触れた指先から伝わる、彼女の微熱。
見上げた彼女の群青の瞳。至近距離で見つめ合う。
甘い、シャンプーの匂い。
彼女の小さな手が、ブレザーの襟を掴む凪の手に重なった。
「……凪くんの匂いがする」
微かに震える唇。肋骨を突き破るほどの勢いで跳ねる凪の心臓。波音が、二人の間の距離を少しずつ削り取っていく。
だが、平和な時間は砂上の楼閣に過ぎない。日に日に大きくなっていく空の亀裂。破滅の足音は、すぐ後ろまで迫っていた。
◇◇◇
第三章: 決定的なすれ違いと、優しい絶望
「彼女に空を直させるな」
図書室の静寂を切り裂く、冷徹な声。
完璧に整えられた髪、シワ一つないブレザー。銀縁眼鏡の奥で、神宮寺蒼の瞳が氷のように冷たく凪を射抜いていた。
遠野 凪「どういう意味だ」
神宮寺 蒼「理解できないのか? このままでは彼女は『心』を失い、ただのシステムになる。俺は彼女の心が残るなら、こんな狂った世界など終わればいいと思っている」
カチャリ、とチェスの駒を置く乾いた音。
神宮寺 蒼「感傷的なお前には分からないだろうな。彼女は自分を犠牲にすることしか知らない。自己犠牲という名の、醜い呪いだ」
遠野 凪「ふざけるな!」
机を叩く凪の拳。白く鬱血する指の関節。古い文献の埃っぽい匂いが、鼻腔を突いた。
夕暮れの屋上。錆びた鉄扉を押し開ける。そこには、虚空を見つめる結衣の背中。
遠野 凪「もう、修復はやめろ。これ以上やったら、君は僕のことすら……!」
星野 結衣「やめられないよ……っ!」
結衣の肩が、激しく震える。
星野 結衣「私が我慢すれば、みんなが幸せになれるの。でも、怖い……凪くんとの記憶が消えていくのが、怖いよ……!」
両手で顔を覆い、泣き崩れる彼女。
慰める言葉が見つからない。引きつる凪の唇の端。喉仏が上下し、奥歯を強く噛み締めた。口の中に広がる、血の鉄の味。
翌日、結衣は凪の前から姿を消した。机の上には、カメラのフィルムだけが残されている。終わりの始まりを告げる、静かなカウントダウン。
◇◇◇
第四章: 硝子の雨と自己犠牲
空が、悲鳴を上げた。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
物理的な硝子の破片となった空。それが無数に街へ降り注ぐ。
逃げ惑う人々の悲鳴。アスファルトに突き刺さる鋭利な空の破片。鳴り響く車のクラクション。街全体がパニックに飲み込まれていく。
神宮寺 蒼「結衣……っ! なぜだ、なぜ俺の言うことを聞かない!」
血走った目で天を仰ぐ蒼。眼鏡にヒビが入っていることすら気付かずに。
現像室。暗室の赤いランプに照らされ、凪は結衣が残したフィルムを確認していた。
浮かび上がる最後のメッセージ。
動画のような連続写真。レンズに向かって微笑む結衣。そして、彼女は口パクで言葉を紡ぐ。
『全部忘れても、凪くんのファインダーの中の私は、ずっと笑っているよ。さようなら』
「ふざけんなっ!!」
暗室のドアを蹴り開ける。カメラを首にかけ、駆け出す凪。
神宮寺 蒼「行くな、遠野! お前が行ったところで、もう彼女は完全な人柱になる!」
凪の腕を掴む蒼。
遠野 凪「離せ! 傍観者でいるのは、もうやめだ!」
力任せに振り解かれる蒼の腕。
崩壊の中心。天へと伸びる『空の塔』。
焼け焦げるように痛む肺。悲鳴を上げる足の筋肉。それでも、螺旋階段を駆け上がる。視界の端で、世界が音を立てて崩れていく。
塔の頂上。
吹き荒れる強風の中、結衣の体が光の粒子となって溶けかかっていた。
星野 結衣「凪くん……? どうして……」
すでに透明になり、空に溶け込んでいる彼女の足元。
ドクン、ドクン。
世界が限界を迎える、最後の瞬間。圧倒的な光が、二人を包み込んだ。
◇◇◇
第五章: 満ちる光と不完全な世界の朝焼け
狂う重力。眼下の海の水が、空へ向かって逆流していく。
光を反射して煌めく、巨大な水柱。
破滅という名の圧倒的な芸術。
だが、凪の視線は結衣だけを捉えていた。
遠野 凪「結衣っ!!」
跳躍する凪。光に溶けかかっている彼女の腕を、強く掴む。
冷たい。実体がないような、恐ろしいほどの冷たさ。
星野 結衣「離して……! 私が消えれば、世界は永遠に崩れないの!」
遠野 凪「そんな完成された世界なんて、クソ食らえだ!」
風で乱れた黒髪の下。三白眼が鋭く光を放つ。
「君のいない完成された世界より、君が傷つく未完成な世界を一緒に歩きたい!!」
結衣の腰を強く引き寄せ、その唇を塞ぐ。
光の奔流の中で重なる二人の影。
大きく見開かれた群青の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
血の鉄の味と、しょっぱい涙の味が混ざり合う。
ピカァァァァッ!!
白く焼き切れる、凪の視界。
代償が必要なら、僕の視力を持っていけ。
凪の眼球から急速に失われていく、色彩を感じる力。
モノクロームに染まる世界。
だが、腕の中の温もりだけは、確かな質量を伴って戻ってきた。
《呪縛断絶》
収束する光。
逆流していた海水が落下し、轟音と共に海面を打つ。
静寂。
頬を撫でる、朝の冷たい空気。
目を開ける凪。
視界はセピア色に霞んでいた。完全には直らず、巨大な傷痕として空に刻まれた亀裂。
不完全で、いびつな世界。
星野 結衣「……凪くん」
胸元で、制服のシャツをきつく握りしめている結衣。
彼女の顔を覗き込む。色を失った世界の中で、彼女の笑顔だけがなぜか鮮やかに見えた。
遠野 凪「記録なんて、もういらない。これから、二人で覚えていけばいいんだ」
傷ついた空から降り注ぐ、眩しい朝焼けの光。
カメラをそっと手放し、両手で結衣を強く抱きしめる凪。
新しい世界の始まりを静かに祝福しているかのような、潮騒の音が響いていた。