第一章: 至高の青は死体から
放課後の美術準備室。そこは腐敗した果実とテレピン油が混ざり合い、甘く爛れた悪臭で満ちていた。西日が窓枠を焼き、埃の舞う空間を変える。黄金色の檻へと。
灰谷カイトは、古びたパイプ椅子に浅く腰掛けていた。
死人のように光のない瞳。濃い隈に縁取られ、硝子玉めいて感情を拒絶するその眼差し。漆黒の前髪が長く垂れ下がり、視界の半分を遮断している。制服の白いシャツは第一ボタンまで几帳面に留められているものの、右の袖口には消えない赤黒い絵具の染みがこびりついていた。血痕か、あるいは枯れた薔薇か。
目前には、巨大なキャンバスに向かう少女。
聖隷芸術学園の至宝、神楽坂イヴ。
豪奢なプラチナブロンドが、背中で波打ちながら床にまで届きそうに揺れる。小柄な身体には不釣り合いなほど大きな、深紅のエプロン。その下から覗く素足は、床に散らばった絵具のチューブを踏みしめ、極彩色の泥に塗れていた。
神楽坂 イヴ「ねえ、カイト。色が死んでるの」
イヴは筆を握ったまま振り返らない。その声は鈴を転がすように愛らしいが、内容は断頭台の刃のように鋭利だ。
神楽坂 イヴ「この青じゃない。もっと深く、もっと冷たくて、内臓が凍るような青じゃなきゃ、私の『嘆き』は描けない。……飽きちゃった。もう、やめようかな」
カタン。彼女が筆を放り投げ、乾いた音が静寂を割る。天才のスランプ。それはこの学園において、王の死と同義。
カイトはゆっくりと立ち上がる。錆びついた機械が軋むような動作で、彼女の背後に歩み寄った。
灰谷 カイト「飽きるのが早いですね、イヴ。コンクールまであと三日だ」
神楽坂 イヴ「うるさいなぁ。描けないものは描けないの! 私の心が動かないんだもん。ねえ、もっと面白いおもちゃ頂戴よぉ」
駄々をこねる子供のように振り返るイヴ。その瞳は、深淵を覗き込むような紫水晶(アメジスト)。
カイトは表情一つ変えず、懐から一枚の写真を取り出した。
灰谷 カイト「君が可愛がっていた野良犬のポチですが」
神楽坂 イヴ「あ! ポチ! 今日も見かけなかったけど、どこに行ってたの? ご飯あげなきゃ」
カイトは写真をイヴの目の前に突きつける。
そこには、雨に濡れたアスファルトの上で、冷たくなった毛玉が映っていた。首には、イヴが結んでやった赤いリボンが、泥にまみれて巻きついている。
瞬間、空気が凍りついた。
イヴの小さな唇が半開きになり、呼吸が止まる。紫色の瞳孔が限界まで開き、小刻みに震え始めた。
灰谷 カイト「僕が処理しました。保健所のトラックが来る前に、裏の焼却炉で」
神楽坂 イヴ「え……?」
灰谷 カイト「君が絵を描く邪魔になると思ったので。餌をやる時間も、撫でる時間も無駄だ。だから、排除しました」
嘘だ。
実際には、老衰で死にかけていた犬をカイトが見つけ、最期を看取ったに過ぎない。だが、天才に必要なのは真実ではない。「劇的な喪失」という名の燃料だ。
カイトは、震えるイヴの肩に手を置いた。指先から伝わる彼女の体温が、急激に冷えていくのを感じる。
神楽坂 イヴ「う……そ……、カイト、が……ころ、したの……?」
灰谷 カイト「感謝してください。その悲しみで、君は誰よりも美しい青が作れる」
神楽坂 イヴ「あ、あぁ……ああああああ!!」
イヴはカイトの胸に爪を立て、獣のような悲鳴を上げた。涙が溢れ、ファンデーションを溶かし、美しい顔を崩していく。だがその瞬間、彼女の視線はカイトを通り越し、背後のキャンバスへと釘付けになった。
絶望が脳髄を焼き、神経回路を焼き切る。その熱量が、彼女の「色彩」を覚醒させる。
神楽坂 イヴ「見える……見えるわ、カイト! その冷酷な目の色! ポチの死体の色! あは、あはははは! 最高! 最低で最高よ、カイトぉぉぉ!」
彼女はカイトを突き飛ばし、パレットナイフを鷲掴みにすると、チューブから直接絵具をキャンバスに叩きつけた。青。群青。藍。涙と混ざり合い、キャンバスの上で絶望が踊り狂う。
カイトは床に倒れ込んだまま、その光景を見上げていた。
肋骨が軋む痛み。だが、それ以上に胸の奥がどす黒い快感で満たされるのを感じる。
他人の心を壊し、その破片で芸術を組み上げる。自分は、なんと醜悪な寄生虫だろうか。
泣かないでくれ、イヴ。その涙は、もっと高く売れるのだから。
◇◇◇
第二章: 泥中の白百合
雨の匂いが鼻孔をくすぐる。
旧校舎の三階、使用禁止の音楽室。カイトは雨宿りのためにそこへ逃げ込んでいた。壊れた時計を修理するのが趣味の彼にとって、時が止まったこの場所は唯一の安息地。
だが今日は、先客がいた。
雨宮 セツナ「♪〜籠の鳥は いついつ出やる」
埃っぽい空気を震わせる、透明なソプラノ。
窓辺に立つ少女、雨宮セツナ。黒髪のボブカットが、湿気を含んだ風に揺れている。飾り気のない制服は清潔だが、袖口や襟元は擦り切れていた。
彼女はカーストの最下層、「奴隷」階級の生徒。だが、その歌声には、カイトがこれまで演出してきたどの「王」たちも持たない、純粋な光があった。
灰谷 カイト「……いい声だ。だが、選曲が古いですね」
セツナはびくりと肩を跳ねさせ、振り返った。大きな瞳が、不安げに揺れる。
雨宮 セツナ「あ、あの……ごめんなさい! すぐに出ていきますから……!」
灰谷 カイト「待て。逃げる必要はない」
カイトは彼女に歩み寄る。本能が告げていた。この素材(いし)は、磨けばダイヤモンドになる。だが、いつものように「傷」をつけて輝かせるべきではない。この無垢な輝きこそが、彼女の武器だ。
灰谷 カイト「君、名前は?」
雨宮 セツナ「あ、雨宮……セツナ、です」
灰谷 カイト「雨宮さん。君をプロデュースさせてくれないか。僕なら、君を次の学園祭のメインステージに立たせることができる」
目を丸くするセツナ。そして、少し困ったように微笑んだ。
雨宮 セツナ「灰谷さん……ですよね。『死神』って呼ばれてる。有名な演出家さん」
灰谷 カイト「……知っていたか」
雨宮 セツナ「でも、お断りします。私、そういうの……誰かを蹴落としたり、何かを犠牲にして手に入れる成功なんて、欲しくないんです」
カイトの眉間がぴくりと動く。
拒絶された。この僕が。「不幸」という名の劇薬を使わずとも、人は輝けるというのか?
雨宮 セツナ「私は、兄に聴いてもらいたいだけなんです。いつか、遠くへ行ってしまった兄に届くように……ただ、真っ直ぐに歌いたいだけ」
その眩しさに、カイトは思わず目を細めた。
胸の奥で、錆びついた歯車が逆回転を始める。
もし、この少女を「傷つけず」に頂点へ導くことができたら? それは、汚泥に塗れた自分の魂に対する、最初で最後の贖罪になるのではないか。
灰谷 カイト「……わかった。なら、賭けをしましょう。君がその『真っ直ぐなやり方』で成功できるよう、僕が裏からサポートする。代償はいらない。ただ、君の歌を一番近くで聴かせてくれ」
雨宮 セツナ「えっ、そんな……いいんですか?」
「ああ。君は、綺麗だ」
思わず口をついて出た言葉に、カイト自身が驚愕した。
◇◇◇
第三章: 女帝の嫉妬、兄の亡霊
セツナの快進撃は続く。
カイトの緻密なスケジュール管理と、セツナの天性の歌声。余計なスキャンダルをカイトが闇に葬り、彼女はただ歌うことだけに集中できた。学園祭の予選を一位で通過した夜、セツナは泣きながらカイトの手を握った。
雨宮 セツナ「灰谷さんのおかげです! 私、信じてよかった……!」
その温もりが、カイトの冷たい指先を溶かしていくようだった。
だが、光が強くなればなるほど、影は濃くなる。
数日後。イヴのアトリエ。
部屋中が、切り裂かれたキャンバスと真っ赤な絵具で埋め尽くされていた。鉄錆と血の匂いが鼻をつく。
イヴは部屋の中央で、膝を抱えて座り込んでいた。裸足の足裏はガラス片で傷つき、赤い花を床に咲かせている。カイトが入ってくると、彼女はゆらりと立ち上がり、彼に抱きついた。
神楽坂 イヴ「ねえ、カイト。最近、あの子とばかり遊んでるね。あの貧乏くさい歌い手」
甘い、毒入りのシロップのような声。彼女の指がカイトのシャツのボタンを一つずつ弄ぶ。
灰谷 カイト「仕事だよ、イヴ。君のライバルを育てることで、君の闘争心を煽るための……」
神楽坂 イヴ「嘘つき」
イヴはカイトの耳元に唇を寄せ、熱い吐息と共に囁いた。
神楽坂 イヴ「凡人の幸せな歌なんて、誰も聴きたくないのよ。だから私、少し『手伝って』あげたの。あの子がもっと良い声で泣けるように」
ドクン。
カイトの心臓が早鐘を打つ。
灰谷 カイト「……何をした?」
神楽坂 イヴ「理事長にお願いしたの。喉にいいお薬をあげてって。今頃、保健室で飲んでるんじゃないかなぁ? 硫酸入りのハーブティー」
「イヴッ!!」
カイトはイヴを突き飛ばし、廊下へ走り出した。
背後でイヴの高笑いが響く。
「壊れろ、壊れろ、みんな壊れて私の絵具になればいい!」
カイトが保健室に辿り着いた時、そこは地獄だった。
喉を押さえて床を転げ回るセツナ。吐血。白衣の理事長が冷ややかな目で見下ろしている。
雨宮 セツナ「あ……が、あ……っ、こ、え……が……」
声が出ない。
あの美しい、天使の歌声が、潰れた蛙のような掠れ音に変わっている。
理事長がカイトに近づき、耳元で囁いた。
「灰谷くん。君の過去の『作品』……雨宮翔(カケル)くんだったかな。彼が自殺したのは、君がピアノの弦を細工して、指を切断させたからだったね」
視界が白く弾けた。
雨宮……翔。
かつての親友。そして、カイトが初めて「不幸」を演出し、結果として死に追いやった天才ピアニスト。
セツナの兄。
兄に届くように歌いたい。
セツナの言葉がリフレインする。
彼女が追い求めていた兄を殺したのは、他ならぬ自分だったのだ。
理事長は薄く笑った。
「彼女を助けたければ、君が『仕上げ』を行いなさい。彼女はもう歌えない。だが、『悲劇のヒロイン』としてなら商品になる。……彼女に真実を告げ、心を殺しなさい。さもなくば、君の過去を警察に売り、彼女もろともこの学園から追放する」
カイトは崩れ落ちるセツナを見つめた。
彼女の瞳が、救いを求めてカイトを捉える。
信頼。愛情。
それら全てが、今からカイトが突き立てるナイフとなる。
◇◇◇
第四章: 愛するが故の破壊
病室のカーテンが、死装束のように白く揺れていた。
セツナはベッドの上で、膝を抱えている。喉の包帯が痛々しい。筆談用のスケッチブックには、震える文字で『私、もう歌えないんですか?』と書かれていた。
カイトはベッドの脇に立ち、彼女を見下ろす。
手には、雨宮翔の遺書(捏造されたものだが、筆跡は完璧に模倣されている)が握られていた。
灰谷 カイト「……セツナさん。君に、話さなければならないことがある」
カイトの声は、砂を噛むように乾いていた。
セツナが顔を上げる。その瞳にはまだ、微かな希望の光が宿っていた。カイトが何か魔法を使って、この悪夢を終わらせてくれると信じているのだ。
その光を、僕が消すんだ。
灰谷 カイト「君の喉を潰したのは、事故じゃない。仕組まれたことだ」
セツナの目が見開かれる。
灰谷 カイト「そして、君の兄……雨宮翔を殺したのも、僕だ」
時間が止まる。
セツナの唇がパクパクと動くが、声は出ない。
カイトは遺書を彼女の膝に置いた。
灰谷 カイト「僕は彼の才能を引き出すために、彼を追い詰めた。指を怪我させ、絶望させ、そして彼は……屋上から飛び降りた。君が今味わっている絶望も、僕が君を『商品』にするために演出したシナリオの一部だ」
嘘だ。後半は嘘だ。だが、彼女を救う(=学園に留め、生かす)ためには、彼女の中でカイトを「信頼できるパートナー」から「憎むべき支配者」、あるいは「恐怖の対象」に書き換えなければならない。
彼女の精神を粉々に砕き、カイトが一つずつ組み立て直す。それ以外に、彼女がこの学園で生き残る道はない。
雨宮 セツナ「う……そ……」
掠れた声。涙が溢れ出し、頬を伝う。
雨宮 セツナ「しんじて……たのに……! 灰谷さん……わたし……あなたを……!」
灰谷 カイト「泣け! その涙が必要なんだ! お前の不幸こそが、至高の絵具(うた)になるんだよ!!」
カイトは叫んだ。心臓が引き裂かれるような激痛を押し殺し、悪魔の仮面を顔に焼き付ける。
雨宮 セツナ「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
セツナの絶叫が、病室の空気を引き裂いた。
彼女は自らの髪を掻きむしり、獣のように泣き叫ぶ。その瞳から光が消え、焦点が合わなくなり、やがて虚無へと沈んでいく。
カイトはその崩壊を、一瞬たりとも目を逸らさずに見つめ続けた。
これでいい。これで君は、怪物として生まれ変われる。
カイトは泣き崩れる彼女を抱きしめた。
彼女の抵抗する力はすぐに消え、人形のようにぐったりとカイトの腕に委ねられる。カイトは彼女の耳元で、呪いのような愛の言葉を囁き続けた。
「許さないでくれ。憎んでくれ。僕だけを見てくれ。君の世界にはもう、僕と絶望しかいないんだ」
◇◇◇
第五章: 硝子の聖女、あるいは怪物
五年後。
世界最大級のオペラハウスは、死のような静寂に包まれていた。
満員の観衆は、誰一人として拍手をしない。できないのだ。
舞台の中央に立つ歌姫の歌声が、彼らの魂を根こそぎ抉り取ってしまったから。
『魔性の嘆き』。
雨宮セツナの歌声はそう呼ばれていた。喉の怪我により高音域を失った彼女は、その代わりに、地獄の底から響くような倍音を含む、呪術的な歌唱法を身につけていた。聴く者は自らのトラウマを呼び覚まされ、涙を流し、時には失神する。
舞台袖。
タキシードに身を包んだ灰谷カイトが、ステージから戻ってきたセツナを迎える。
彼の目尻には皺が増え、かつての死んだ魚のような目は、今は奇妙な熱狂を帯びていた。
灰谷 カイト「素晴らしいよ、セツナ。今日の君の不幸は、過去最高に美しかった」
セツナはドレスの裾を引きずりながら、ふらふらとカイトの元へ歩み寄る。
彼女の瞳に光はない。焦点はカイトの顔すら捉えていないように見える。
雨宮 セツナ「……水」
灰谷 カイト「ああ、常温のを」
カイトがペットボトルの蓋を開け、口元に運んでやる。セツナは赤子のようにそれを啜る。カイトの指示がなければ、彼女は食事も、着替えも、排泄すらままならない。彼女の精神はあの病室の日以来、砕け散ったままだ。
だが、歌う時だけ。
カイトが「歌え」と命じた時だけ、彼女は神が宿った怪物となる。
コツ、コツ、コツ。
背後から足音が近づく。
車椅子に乗った神楽坂イヴだ。彼女は数年前、スランプに耐えきれず自らの目を潰し、今は筆を折っていた。
神楽坂 イヴ「相変わらず、趣味の悪い見世物ね」
灰谷 カイト「イヴか。君にはもう、あの色は見えないだろう」
神楽坂 イヴ「見えるわよ。音だけでわかる。あの子の魂はどろどろに溶けて、あなたの形をしてる。……羨ましいわ、カイト。あなたは最高の作品を手に入れたのね」
カイトはイヴを無視し、セツナの髪を梳く。
「セツナ、愛しているよ」
カイトの指がセツナの冷たい頬を撫でる。
セツナは一瞬だけ、虚ろな瞳をカイトに向け、歪に唇の端を持ち上げた。それは微笑みと言うにはあまりに不気味で、しかし聖母のように慈悲深い。
雨宮 セツナ「はい……たに、さん……もっと、こわして……わたしを……」
その言葉に、カイトは至上の幸福を感じた。
兄の代わりでもいい。憎悪の対象でもいい。
彼女の世界の全てが自分であるならば、それは愛と何が違うというのか。
カイトは彼女の手を取り、再び光の当たるステージへとエスコートする。
観客のどよめき。
それは絶望への喝采だ。
さあ、行こう。僕たちの地獄は、こんなにも美しい。
カイトの唇が、音もなく動いた。
「君の不幸は、僕の至高の絵具だ」
幕が下りる。永遠に明けない夜のように。