第一章: 舞い散る灰と、美しき追放劇
音もなく王都の石畳を埋め尽くしていく、灰色の雪。
世界を蝕む猛毒、『星の灰』。
肺を焼き、命をすするその死の結晶が降り注ぐ広場の中央。銀色の乱れた髪を冷たい風に揺らし、一人の青年が立っていた。
ボロボロに擦り切れた漆黒の厚手外套。それをきつく引き寄せ、黒く変色し異形化しつつある右腕を隠す。
群衆の罵声が空気を震わせる中、アルトの鋭く虚ろな青い三白眼は、ただ真っ直ぐに眼前の少女だけを捉える。
ルミナ「アルト……。なぜ、こんなことを」
純白を基調とした豪奢な聖女の法衣。風に舞う黄金の長い髪。
強い意志を秘めた彼女のエメラルドグリーンの瞳。それが、激しく揺らいでいる。
かつて同じスラム街の泥水を啜った幼馴染の唇。今は血の気を失い、微かな震え。
アルト「俺に触れるな。穢れがうつるぞ」
喉の奥から絞り出した声。意図的に温度を抜いた言葉が、冷たい空気と同化する。
アルトの視線の先。手入れの行き届いた銀のフルプレートアーマーと青いマントを纏った若き騎士が、腰の剣の柄に手をかけた。
短く刈り込んだ茶髪の下、厳格な鳶色の瞳が、かつての親友を射抜く。
カイル「聖女の功績を奪い、私腹を肥やすために民を虐げた大罪人。……貴様には、失望した」
アルト「正義の騎士様には、俺のやり方がお気に召さなかっただけだろう」
薄く笑い、アルトは背を向ける。
吐く息の白濁。口の中に広がる、微かな血の鉄の味。
背中に突き刺さる何千もの憎悪の視線。
靴底が灰の雪を踏みしだく、ざくり、というくぐもった音。それだけが、彼の世界を支配していく。
◇◇◇
王都の城門を抜け、誰の目も届かない深い森の入り口。
突如もつれる、アルトの足取り。巨木の根に膝から崩れ落ちる。
ガクガクと肩が揺れ、胃袋の底からせり上がるような激しい嘔吐感。
「……ッ、が、ぁ……!!」
雪の上にぶちまけられたのは、コールタールのような黒い血。
鉄と泥が混じった強烈な悪臭が鼻腔を突き刺す。
震える左手で口元の血を拭い、黒外套の奥で拍動する右腕を押さえ込んだ。
人間の形を保っていない右腕。どす黒い鱗と茨のような呪いの線が、皮膚の下で蠢いている。
ルミナ。お前は俺を憎んで、ただ前だけを向いていればいい。
見上げる満天の空。灰の奥で瞬く冷たい星々。
自らがすべての罪を被る。
彼だけが知る、残酷な世界の真実。それをたった一人で背負うための、これが彼にできる唯一の選択。
アルトの青い瞳に宿る、狂気に似た静かな微笑み。
破滅への歯車は、もう誰にも止められない。
第二章: 忘却の果て、孤独な浄化
辺境の森。そこは死の静寂に沈んでいる。
足裏に伝わる腐葉土の湿った感触。そして、常に漂う微かなカビの匂い。
苔むした大岩に寄りかかり、アルトは荒い息を吐き出していた。
アルト「ぐ、うぅ……ッ」
ドクン、ドクン。
激しい拍動を繰り返す、異形化した右腕。
世界中から漂い来る星の灰。それが黒い霧となって、彼の右腕に吸い込まれていく。
肉を内側から業火で焼かれるような激痛。額から滝のように冷や汗が流れ落ち、限界まで開く瞳孔。
爪が岩肌に食い込み、指先から赤い血が滲む。
イリス「無茶な真似を。……その腕、もう原型を留めておらんじゃろう」
枯葉を踏む音。森の風景に溶け込むような深緑のローブが現れる。
目元を覆う汚れた包帯。足元まで届く青白い長髪を引きずりながら、盲目の魔女イリスが杖を突いて近づいてくる。
アルト「……魔女殿か。相変わらず、足音がしねぇな」
イリス「お主のその不器用な優しさが、いつかお主自身を殺すじゃろうな」
イリスは包帯越しの顔を、空へと向ける。
彼女の魔眼が捉えているのは、世界を覆う呪いの奔流。
アルトが自らの肉体を器にして、世界の穢れを限界まで溜め込んでいる事実。
イリス「すでに器の限界は近い。これ以上呪いを吸えば、お主の自我は消え失せ、本物の化け物になるぞ」
アルト「化け物で上等だ。……あいつが生きる世界が、明日も続くならな」
血の滲む唇の端を釣り上げる、アルト。
その時、イリスの眉間が微かにピクリと跳ねた。
イリス「……狂犬どもが、嗅ぎつけてきたようじゃ」
◇◇◇
同じ頃、王都の騎士団本部。
カイルは執務室の窓辺で、銀のガントレットに落ちた灰を無言で払い落としていた。
紅茶の冷めた渋い匂いが漂う中、彼の鳶色の瞳が鋭く細められる。
アルトを追放した。元凶は絶ったはずだ。それなのに……。
窓の外。降り注ぐ星の灰は、以前よりも明らかにその濃度を増している。
規則と秩序の象徴であるはずの王都の空。それがどす黒く淀んでいく。
カイル「あの男、辺境で何を企んでいる……?」
背後で響く、重い木扉が開く音。
振り返ると、純白の法衣を纏ったルミナが、青白い顔で立っていた。
彼女のエメラルドグリーンの瞳の奥。かつてないほどの激しい焦燥の渦。
ルミナ「カイル様。辺境へ向かいます。この世界の崩壊を止めるために……私の手で、あの人を討たねばなりません」
無言で頷き、剣の柄を強く握りしめるカイル。
決定的な破滅の足音。それは、すぐそこまで迫っている。
第三章: 死に至る光と、決定的なすれ違い
切り立った岩肌が続く、辺境の深淵。
吹き荒れる強風。砂埃が喉の奥に張り付く。舌の上でザラリとした土の味。
巨大な黒い呪いの竜巻が渦巻く谷の底。そこに、アルトは立っている。
完全に破れ去った漆黒の厚手外套。禍々しい瘴気を放つ異形の右腕が露わになる。
ルミナ「アルト……!」
崖の上から飛び降りたルミナとカイル。武器を構えて対峙する。
風に乱れるルミナの黄金の髪。美しい顔が苦痛に歪む。
カイル「貴様が灰の元凶だったか! どこまで世界を汚せば気が済む!」
アルト「はっ、遅かったじゃねぇか。お出迎えの準備はとっくに済んでるぜ」
わざと下品な笑いを浮かべ、右腕を突き出すアルト。
その瞬間、祈るように両手を胸の前で組むルミナ。
彼女のエメラルドグリーンの瞳から、ひとすじの涙がこぼれ落ちる。
ルミナ「私がこの光で、世界のすべての穢れを焼き尽くします……ッ!」
パァァァァッ……!
ルミナの全身から放射される、眩い純白の光。
最大出力の『浄化の光』。
一直線に、アルトへ向かって撃ち出される。
……そうだ、ルミナ。お前はそれでいい。
避けない、アルト。
真実を口にすることは、決してない。
彼女の放つその「光」こそが星の命を削り、灰を生み出している猛毒であるという事実。
ルミナ自身が、この世界を滅ぼす元凶。残酷すぎる真実。
《光の裁き(ホーリー・レイ)》
直撃。
光の奔流がアルトの体を包み込む。
「が、ぁあああああぁぁぁッ!!」
肌の表面が炭化し、肉が爆ぜる熱。
全身の毛細血管が焼き切れるような、想像を絶する激痛。
ルミナの光の毒。世界へ散らばる前に、己の異形の右腕ですべて吸収する。
肺から根こそぎ奪われる空気。激しく上下する喉仏。
崩れゆく足元。背後は底なしの絶望の谷。
アルト「……お前の光など、ひどく冷たいな」
薄れゆく意識の中、アルトは嗤った。
遠ざかっていく、目を見開いたルミナの顔。
彼の体は宙を舞い、重力に引かれて真っ暗な谷底へと飲み込まれてゆく。
「アルトォォォッ!!」
空しく響き渡る、ルミナの絶叫の木魂。
第四章: 遺された痕跡と、崩壊する嘘
濃密な死の匂いに満ちた、谷底。
腐肉と錆びた鉄の臭気が入り混じる暗がり。
ルミナとカイルは、アルトの痕跡を探して岩場を歩き回る。
擦り切れた膝当て。血に染まった石。
やがて二人が見つけたのは、岩壁のくぼみに隠されるように建つ粗末な庵。
扉を開けると、そこにはイリスが静かに座っていた。
彼女の前のテーブル。無数の手記と、アルトが残した血まみれの包帯の山。
カイル「魔女よ。あの男はどこだ。遺体を……確認せねばならない」
イリス「遺体などない。あやつは今、星の核へと落ちていった。……自らを完全な『贄』とするためにな」
手記の一冊を、ルミナの方へ滑らせるイリス。
そこには、アルトの乱れた筆跡で、この世界の仕組みが克明に記されている。
ルミナの指先が、カタカタと小刻みに震え出す。
ページをめくるたび、彼女の顔から完全に引いていく血の気。浅く速くなる呼吸。
『聖女の光は猛毒』
『彼女が祈るたび、星の寿命が縮む』
『俺がすべての毒を吸う。彼女には、綺麗なままで生きてほしい』
ガチャンッ!!
カイルの手から滑り落ちた銀の長剣が、石の床を叩く。
収縮する鳶色の瞳孔。呼吸を忘れたように半開きになった口。
カイル「馬鹿な……。我々の正義が……聖女の祈りが、世界を滅ぼしていたというのか……?」
イリス「あやつは、お前たちに憎まれることで、その真実を隠し通そうとした。ルミナよ。お主が真実を知り、己の存在意義を呪って絶望するのを防ぐためにな」
膝から力が抜け、冷たい石の床に崩れ落ちるルミナ。
エメラルドグリーンの瞳から溢れ出す、大粒の涙。
己の信じていた純粋な正義。それが最愛の幼馴染の肉体を焼き、心を引き裂いていた。
彼から奪った木彫りのペンダントを握りしめる。
指に食い込む木肌の痛み。彼の抱えていた痛みの万分の一にも満たないことに気づき、喉の奥から獣のような嗚咽が漏れた。
ルミナ「ああ……ああああああぁぁぁッ!! アルト! アルトォォォッ!!」
血の涙を流し、弾かれたように立ち上がるルミナ。
法衣の裾が破れるのも構わず、彼女は駆け出す。真っ暗な谷のさらに奥、星の核へと続く大穴へ向かって。
もう、間に合わないかもしれない。
それでも、彼を一人で死なせることだけは、絶対に許されない。
第五章: 星屑の雨と、たった一つの希望
星の核。
空間全体を覆う、赤黒いマグマのような脈動。肺を刺す硫黄の臭気。
中央の空洞で蠢く、巨大な異形の塊。
ドロドロと溢れ出す漆黒の呪い。もはや人間の原型を留めていない。
背中から伸びる黒い翼のような触手。虚ろな青い三白眼だけが、濁った光を放つ。
警告:呪いの飽和限界を突破。自我の崩壊が開始されます。
アルト「ァ……、ルミ……、ナ……」
獣のような、いや、壊れた楽器のような掠れた声。
駆けつけたルミナは、迷うことなくその異形の化け物に向かって飛び込む。
どす黒い粘液と瘴気を放つ、異形化した巨大な腕。
ルミナは純白の法衣が黒く汚れることも厭わず、その腕に強く抱きついた。
熱い。肉が溶けるほどの高熱が、彼女の華奢な体を容赦なく焼く。
「アルト……ッ! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
彼の胸板に顔を埋め、ボロボロと涙をこぼす。
その涙が、黒い鱗を伝い、呪いの亀裂へと浸み込んでいく。
「もう一人にしない。……あなたの業を、私も一緒に背負うから!」
ルミナの細い腕が、異形の背中へ回り、ありったけの力で彼を締め付ける。
アルトの鼻腔に届いたのは、ルミナの甘い花の香りと、彼女の涙の塩辛い匂い。
ドクン。
大きく跳ねる、異形の巨体。
濁りきっていたアルトの青い瞳に戻った、一瞬の、かつての優しい光。
あぁ。……やっぱり、お前の泣き顔は、好きじゃない。
残された左手で、ルミナの黄金の髪をそっと撫でるアルト。
そして決意する。限界を超え崩壊しつつある自らの命の核、そのすべてを燃やし尽くすことを。
アルト「泣くな、ルミナ。……俺の、たった一つの光」
カァァァァッ……!!
アルトの体内に溜め込まれた数万の呪いと猛毒。彼の命を触媒にして、一気に反転を始める。
漆黒の呪いが、純白の眩い光の粒子へと昇華されていく。
肉体を覆っていた鱗がボロボロと剥がれ落ち、露わになる元の青年の姿。
光の奔流の中で静かに揺れる、銀色の髪。
《星の命(ステラ・リヴァース)》
大爆発。
光の結晶が空洞を突き抜け、地殻を割り、真っ暗な辺境の空へと撃ち出される。
吹き飛ぶ分厚い灰の雲。空一面に降り注ぎ始めた、満天の星屑の雨。
冷たい灰ではない。暖かく優しい、命の煌めき。
ルミナの腕の中で、アルトの体が徐々に透け、光の粒子となって崩れていく。
彼の唇に浮かぶのは、出会ってから一度も見せたことのない、心からの安らかな笑み。
ルミナ「いや……行かないで。アルト、お願い……!」
「……愛してる。お前の世界を、生きてくれ」
最期の言葉は音にならない。無数の光となって夜空へと溶けていく、アルトの身体。
後に残されたのは、彼の身につけていた擦り切れた黒外套の切れ端だけ。
外套の切れ端を胸に抱き寄せ、声の限りに泣き叫ぶルミナ。
遅れて到着したカイルも、膝をつき、空を見上げて静かに涙を流す。
降り注ぐ星屑の雨が、彼らの頬を優しく照らしている。
世界を救った悪役の、不器用で狂おしいほどの愛の残滓。
彼が命に代えて守り抜いた美しい世界の片隅。星降る夜の静寂だけが、いつまでも二人を包み込んでいた。