第一章: 永遠の降り積もる箱庭
万華鏡のような極彩色の光が、白いリネンのシャツに落ちては揺れる。
虚無感を漂わせる深い蒼の瞳。ゆっくりと繰り返される瞬き。
色素の薄い銀髪を指先で梳くと、さらりとした感触が手のひらに残る。
あてがわれた黒いズボンは清潔だが、膝を曲げるたびにつきまとう窮屈な張り。
巨大なステンドグラスに覆われた温室。
見上げれば、色とりどりのガラスの向こう側。猛毒の「銀の灰」が、雪のように音もなく降り積もっていく。
色彩を失った死の世界。その中心で、ルカは目を覚ました。
甘い、むせ返るような紅茶の香り。鼻腔をくすぐる劇薬のような甘ったるさ。
エリス「おはよう、ルカ」
艶やかな黒髪のロングヘアが、空気を滑るように揺れる。
豪奢だが所々が色褪せたアンティーク調の黒いドレス。彼女の血のように赤い瞳が、ルカの顔を覗き込んだ。
エリス。それが彼女の名前。
ルカの記憶は、この温室で彼女に出会った日からしか存在しない。
エリス「さあ、お薬の時間だね」
エリスは細い指先で、自身のドレスの袖を捲り上げる。
両手首には、幾重にも巻かれた生々しい包帯。迷うことなく隠し持っていた剃刀の刃を、彼女は自身の肌に滑らせた。
ポタリ、ポタリ。
赤い雫が、純白の陶器のカップに落ちていく。
エリス「ルカ。口を開けて」
耳元を掠める吐息。甘く、どこか退廃的な香水と、濃密な血の匂い。
従順に顎を上げ、彼女が傾けるカップに唇を触れるルカ。
ルカ「……ありがとう、エリス」
熱を帯びた吐息とともに、ルカは彼女の指先についた血までも舐め取る。
喉の奥を滑り落ちる液体。強烈な鉄の味と、焼け付くような熱。
冷たい指先が、ルカの銀髪を優しく撫でる。
エリス「外は死の世界。あなたは私が守るから。ずっと、ずっと、ここから出ちゃ駄目だよ」
微かに震える彼女の唇。ルカは陶酔したように、自らの首筋を強く掻きむしりながらゆっくりと頷いた。
体に刻まれた無数の古い傷跡が、時折ひきつるように痛む。
しかし、この圧倒的に美しく狂気を孕んだ箱庭で、ルカは彼女の愛に溺れている。
自分の存在価値は、彼女に守られることでしか証明されない。
ルカ「君がそう言うなら、きっとそれが正しいんだと思う」
窓の外で、世界を覆い尽くしていく銀灰。
満たされた平穏。永遠に続くかのような甘い麻痺。
だが、ルカの胸の奥底。名状しがたい微小なノイズが、微かに鳴り始めていた。
第二章: 毒と疑念の青
温室の片隅。狂い咲く青い花々の花壇。
膝をつき、湿った土に指を這わせるルカ。
鼻腔を満たすのは、生命の息吹を凝縮したような濃密な土の匂い。
エリスの淹れる甘い紅茶の香りとは対極にある、生々しい自然の臭気。
エリス「ルカ、そんなに土を触ると手が荒れてしまうよ。私がやってあげる」
背後から伸びてきた白い腕。首に絡みつく冷ややかな感触。
背中に押し当てられる柔らかな体温。息が詰まるほどの、重く歪んだ愛情。
ルカ「いや……花の手入れは、自分でやりたいんだ」
エリス「そう? あなたが怪我をするのは、私、すごく嫌なんだけどな」
爪が食い込むほど自らの腕を強く抱きしめ、エリスは不満げに赤い瞳を伏せた。
彼女はルカのすべてを管理したがる。食事も、睡眠も、着る服さえも。
エリスが奥の部屋へ戻った後、再び土を掘り返すルカ。
指先が、ふと硬い異物に触れる。
石ではない。金属の冷ややかな感触。
ドクン、と心臓が跳ねる。
引きずり出したそれは、古びた錆びた短剣。
柄の装飾はすり減り、刃は黒ずんでいる。だが、掌は、そのグリップの感触を吸い付くように覚えていた。
なぜ。
さらに深く土を掘る。
油紙に包まれた、小さな革張りの手帳。
震える指でめくるページ。紙片は茶色く変色し、所々に黒褐色の染みがこびりついている。血の痕。
そこに記された文字は、紛れもなくルカ自身の筆跡。
『彼女を殺せ』
脳裏を閃光が走る。
小刻みに震える指先。浅くなる呼吸。
温室の柱の傷。ステンドグラスの不自然な修復痕。床に微かに残るえぐれたような跡。
かつて、自分がここで何かを成し遂げようとした痕跡。今更になって、パズルのピースのように繋がり始める。
俺は……一体、ここで何をしている?
甘い共依存の毒液に落ちる、疑念の一滴。広がる波紋。
その時だった。
ガシャアァァァン!!
鼓膜を劈く爆音。
頭上の巨大なステンドグラスが粉々に砕け散り、色鮮やかなガラスの雨が降り注ぐ。
猛毒の銀の灰が、外の冷たい風と共に温室の中へとなだれ込んできた。
第三章: 忘却の果ての真実
舞い散るガラス片と銀灰の向こう。着地するひとつの影。
くすんだ金髪。鋭い三白眼の琥珀色の瞳。
ボロボロになった軍用の防毒コートを纏い、顔の下半分を無骨なガスマスクで覆った青年。背中には重厚な大剣が鈍い光を放つ。
ノア「見つけたぞ。こんな鳥籠の中に引き篭もってやがったのか」
ルカ「お前は……誰だ?」
ノア「目を覚ませ。俺たちは世界を救うために全てを捨てたはずだ」
軍人らしい冷徹な響き。
ノアと呼ばれるその青年の姿を見た瞬間、ルカの奥歯がガチリと鳴る。
自分の中に湧き上がる、抑えようのない破壊衝動。
奥の部屋から飛び出してきたエリスが、息を呑んだ。
エリス「嫌……来ないで。私の、私のルカに触らないで!」
自らの髪を乱暴に引き抜きながら、彼女は悲痛な声で叫ぶ。
ノア「黙れ、絶望の魔女。この世界に猛毒の灰を降らせている元凶め」
魔女。
その単語が、ルカの鼓膜を殴りつける。
ゆっくりと背中の大剣を引き抜くノア。
ノア「ルカ。お前は組織最強の暗殺者だ。こいつを殺すために派遣された英雄なんだよ」
ルカ「俺が、暗殺者……?」
ノア「哀れだな。また記憶を消されたのか。お前は過去に何度もこいつを殺そうとし、その度に敗北した。そして、この魔女の力で都合よく記憶を奪われ、『愛しい無力なペット』として飼い直されてきたんだ」
記憶の蓋が、こじ開けられる。
喉を掻き毟る自分。エリスに短剣を突き立てる感触。
彼女の赤い瞳からこぼれる涙。
そして、額に触れる冷たい指先。
エリス「ごめんね、ルカ。また、初めからやり直そう」
ルカ「ああ……あああああッ!!」
頭蓋が割れるような激痛。
床に崩れ落ち、頭を抱えるルカ。肺が酸素を拒絶し、喉の奥から獣のようなうめき声が漏れる。
自分が何者で、何をしようとしていたのか。
嘘だ。無力であり、誰かに救われなければ生きていけない存在だと思い込んでいたのは。
すべては、彼女が仕組んだ残酷な舞台装置。
エリス「やめて……ルカ、思い出さないで。外の記憶なんて、全部毒なの。ここだけが私たちの永遠の救いなのに!」
歪む、エリスの周囲の空気。
風もないのに膨れ上がる黒いドレス。彼女の足元から、漆黒の魔力が渦を巻いて立ち昇る。
ノアが大剣を構え、地を蹴った。
第四章: 血塗られた微笑み
ガァァァンッ!!
激しい金属の衝突音。ノアの大剣が、エリスの展開した魔力の障壁に弾き飛ばされる。
ノア「死ねェッ!!」
防毒コートを翻し、猛然と連撃を叩き込むノア。
散る火花。焦げたオゾンの匂いと、焼けた肉の臭気が鼻腔を刺す。
だが、魔女の力は圧倒的だった。
エリスが、細い指先を虚空へ振り抜く。
《黒蝕の刃》
漆黒の刃が走り、ノアの胸を斜めに切り裂く。
ノア「ガァッ……!」
大量の血を撒き散らしながら、床に叩きつけられるノア。
琥珀色の瞳が焦燥に歪み、大剣を取り落とす。致命傷。
ルカ「ノア……!」
錆びた短剣を握りしめ、立ち上がるルカ。
すべてを思い出した。レリックでの過酷な訓練。ノアと交わした誓い。
そして、世界を滅ぼす魔女を討つという、重すぎる使命。
眼前に立つエリスは、肩で息をしながら、ぽろぽろと涙をこぼしている。
極度の孤独感に怯え、震える赤い瞳。
エリス「どうして……どうしていつも、あなたは私を置いていこうとするの?」
ほどける手首の包帯。古い傷跡から、どくどくと流れる血。
世界を憎みながらも、ルカへの執着だけでこの箱庭を維持してきた彼女。
ルカは悟る。
毎回自分に殺されかける痛みに耐え、それでも彼女は笑顔を作り、自分の血を薬と偽ってルカに分け与え続けていたのだ。
孤独への恐怖。相手を支配することでしか愛を確認できない、不器用な魂。
エリス「今回も、ダメだったね……」
自らの胸の前に、魔力で生成した鋭利な短剣を浮かび上がらせるエリス。
そして、その柄をルカの方へと差し出す。
エリス「さあ、ルカ。今度こそ私を殺して。そして、世界を救って」
血を流し、絶望に満ちた目で狂ったように笑う。
微かに震えながら、ルカの右手がその短剣の柄へと伸びる。
二人の間に、冷たい銀灰が降り注いでいた。
第五章: 二度目の世界を壊す
静寂。
短剣の柄を握る手。伝わるのは、エリスの冷たい体温。
刺せば終わる。大義を果たし、英雄になれる。
あるいは、再び記憶を消され、無知なペットとして永遠の平穏をむさぼるか。
自分の存在価値を組織の使命に委ねるのか、それとも、エリスの狂気に委ねるのか。
ルカの蒼い瞳が、エリスの赤い瞳を真っ直ぐに射抜く。
カラン、と。
石畳に響く乾いた音。
ルカは、短剣を床に投げ捨てた。
エリス「え……?」
目を見開くエリスの腕を、力強く引き寄せるルカ。
ルカの腕がエリスの細い背中に回り、彼女の体をすっぽりと包み込む。
薄い布越しに重なり合う、互いの心臓の鼓動。
エリスの甘い香水の匂いと生々しい血の匂いが混ざり合い、肺を満たす。
エリス「ルカ……? 何を……殺してよ。じゃないと私、また世界を……」
ルカ「もういい」
静かだが、確かな熱を帯びた声。
ルカ「お前の罪も毒も、俺が一緒に吸い込んでやる」
偽りの救済も、冷徹な正義もいらない。
誰かに救われるのを待つ無力な存在でも、使命に縛られるだけの道具でもない。
自分の意志で、目の前の不器用で狂った少女を選ぶ。
エリスの瞳から溢れ出す大粒の涙。
彼女の心を縛り付けていた孤独の呪いが、音を立てて崩壊していく。
エリス「ルカ……あぁ、ルカ……ッ!」
細い腕がルカの背中にしがみつき、子供のように声を上げて泣きじゃくる。
その温もりは、痛いほどにリアルだった。
頭上。残っていたステンドグラスの破片が一斉に弾け飛ぶ。
温室の中に差し込んでくる、眩い朝焼けの光。
空を覆っていた分厚い雲が割れ、光の束が世界を照らし出す。
宙を舞っていた猛毒の銀の灰。光を乱反射しながら、キラキラと輝く無害な雪へと変わっていく。
頬に触れる雪は、ただ冷たく、そして優しい。
床に倒れたノア。薄れゆく意識の中で、微かに唇の端を歪める。
ノア「……馬鹿な野郎だ」
血反吐を吐きながらも、その声に責める響きはなかった。
エリスの体を離し、彼女の傷だらけの手をしっかりと握るルカ。
互いの掌の熱が伝える、確かな未来の脈動。
ルカ「行こう、エリス」
エリス「うん……」
色を失っていた世界に降り注ぐ、新しい朝の光。
傷だらけの手を繋ぎ、踏み砕かれたガラスの上を歩き出す二人。
破壊された温室を抜け、再生し始めた世界へと向かって。
二度目の世界は、もう誰の箱庭でもない。
ただ、二人が生きていくための、果てしなく広がる荒野だった。