第一章: 終わりの始まり
空は、灰色の臓器のように重く垂れ込めている。
永遠に止まない小雨。冷たくアスファルトを打ち据える無数の針。
水上凪は、くたびれた黒いトレンチコートの襟を立て、海へと続く錆びた廃線跡を歩いていた。
額に張り付く無造作な黒髪。冷たい雫が、頬の輪郭をなぞって落ちる。
憂いを帯びた三白眼の黒い瞳が追うのは、足元のひび割れた枕木だけ。
雨の匂いに混じる、赤錆と潮のひどく生臭い死臭。
ここは「水没症候群」に侵された街。
人々の大切な記憶が、街の景観ごと美しい水底の異界へと沈みゆく、終わりの病。
海面すれすれまで沈みかけた鉄橋の突端。
そこに立つ、傘もささない人影。
光を乱反射する、透明感のある銀髪。湿った海風に揺れるその細い糸。
薄手の白いワンピースが肌に張り付き、華奢な肩のラインを酷薄なまでに露わにしている。
波音が、遠くで砕け散った。
[A:水上 凪:驚き]「お前……」[/A]
喉の奥が干上がり、漏れ出すかすれた声。
ゆっくりと、少女が振り返る。
澄んだ深い青い瞳。凪の胸の奥底を、真っ直ぐに射抜く視線。
[A:星野 蛍:喜び]「やっと、見つけたよ」[/A]
風に吹かれたら消え入りそうなほど、儚い響き。
息を呑む。
彼女の足元。ワンピースの裾から覗くはずのふくらはぎが、ない。
いや、ある。
だが、それはまるで純度の高い水のように透き通る異物。その向こう側で波打つ暗い海面が、はっきりと透けて見える。
[Flash]信じがたい光景。[/Flash]
彼女の頬を伝い落ちる雫は、雨か、それとも涙か。
圧倒的な美しさと、胸を締め付けるような物理的な痛覚。凪の網膜に、その姿が焼き付く。
[Think]俺は、この光景を知っている……?[/Think]
心臓が早鐘のように肋骨を内側から殴りつける。
少女の身体が、さらに深い透明度を帯びて明滅。
[Pulse]ドクン、ドクン。[/Pulse]
かつて大切な者を喪った時の、あの凍りつくような冷気。凪の足元から、べっとりと這い上がってきた。
◇◇◇
第二章: 透過する境界線
甘いホットミルクの湯気。薄暗い部屋に漂う、微かな安らぎ。
行き場のない彼女——星野蛍を保護し、始まった奇妙な同居生活。
[A:星野 蛍:照れ]「凪くん、コーヒーばっかり飲んでるね」[/A]
マグカップを両手で包み込むように持ち、蛍がふわりと微笑んだ。
[A:水上 凪:冷静]「……苦い方が、目が覚める」[/A]
黒い瞳を逸らし、冷めたブラックコーヒーを喉の奥へ流し込む。
舌の上に残る鈍い苦味。それが、かろうじて現実を繋ぎ止める錨。
蛍は不思議な力を持っている。
雨上がりの路地裏。ふとしゃがみ込む彼女。
透き通るような白い指先が、水溜まりに沈むビー玉大の光の粒をすくい上げる。
街の人々が失った記憶の結晶、『星屑』。
[A:星野 蛍:喜び]「あ、この光、すごく温かいよ」[/A]
彼女が星屑に触れるたび、その冷たい指先からほんのりとした熱が伝わってくる。
[Sensual]
危うげな彼女の肩を引き寄せ、その小さな手を自分の掌で包み込む凪。
肌と肌が触れ合う熱。
驚くほど冷たく、そして柔らかい感触。
彼女の銀髪から香る、雨上がりの澄んだ空気の匂い。
重なる鼓動。シンクロしていく呼吸のペース。
[A:星野 蛍:愛情]「泣かないで。私はずっと、あなたのそばにいるから」[/A]
[Whisper]吐息が、凪の耳元をくすぐる。[/Whisper]
[/Sensual]
だが、その瞬間。
凪の手の中で、蛍の指先が[Blur]ふっと輪郭を失う。[/Blur]
[A:水上 凪:恐怖]「蛍……!」[/A]
握りしめたはずの感触。空を切る虚無感。
彼女の右腕が、肘から先まで完全に透明化している。背後の古ぼけた壁紙を透かして見せる異常事態。
開く瞳孔。
胃の腑がねじ切れるような、強烈な悪寒。過去のフラッシュバック。
妹の指先が水に溶けて消えていった、あの日の凄惨な光景。
[Glitch]記憶のノイズ。[/Glitch]
蛍は困ったように微笑み、透けた手を胸に当てた。
彼女が抱える、巨大で致命的な違和感。
狂ったような速度で、時計の針がチクタクと音を立て始める。
◇◇◇
第三章: 決壊する真実
[Tremble]窓硝子を叩き割るような、暴力的な豪雨。[/Tremble]
部屋の空気が一瞬で氷点下まで凍りつく。
ドアの前に立つ、一人の男。
水没しかけた街にはひどく不釣り合いな、仕立ての良いスリーピーススーツ。
白に近い金髪。感情を一切読み取らせない、冷ややかな灰色の瞳。
[A:星野 湊:冷静]「迎えに来たよ、蛍」[/A]
慇懃無礼で芝居がかった口調。
だが、その底で煮えたぎるような暗いマグマの気配。
[A:水上 凪:怒り]「誰だ、あんたは」[/A]
トレンチコートのポケットの中。凪の拳が、白くなるほど硬く握り込まれる。
湊は薄く笑った。
[A:星野 湊:狂気]「哀れだね。感情なんて不完全なものがあるから、人は苦しむんだ。特に君はね、水上凪」[/A]
鳴らされる指の音。
[Magic]《忘却の海嘯》[/Magic]
爆ぜる床板。黒い水が部屋に雪崩れ込む。
くるぶし、膝、腰。あっという間に跳ね上がる水位。
凍てつく水の冷たさが、凪の体温を容赦なく奪い去る。
[A:星野 湊:怒り]「蛍はね、君の命を現世に繋ぐための『楔』なんだよ! 君が抱える悲しみを代わりに吸い上げ続け、その身を水に溶かしている!」[/A]
[Impact]脳天をハンマーで砕かれたような衝撃。[/Impact]
息が詰まる。
蛍が街を救っていたのではない。彼女は、凪一人のために自らを捧げ続けていたという残酷な真実。
幼馴染という記憶すら、凪は失っている。
[A:水上 凪:絶望]「嘘だ……やめろ、自分の指を噛みちぎりたくなるような冗談はやめてくれぇぇぇ!!」[/A]
[Shout]喉が裂け、血を吐くほどの絶叫。[/Shout]
水位はすでに胸まで達している。
蛍の身体は首筋まで完全に水と同化。もはや光の屈折でしか、そこにいることを視認できない。
[A:星野 蛍:悲しみ]「生きて、凪くん」[/A]
最後の微笑み。
銀色の髪が水面に散る。彼女の姿は、完全に水底の異界へと溶けて消えた。
残されたのは、圧倒的な質量を持つ黒い海と、絶対的な孤独。
凪の意識は、暗い水の底へと真っ逆さまに引きずり込まれていく。
◇◇◇
第四章: 深淵へのダイブ
雨が降り続く灰色の街。
肺の中に泥水が詰まっているかのような、絶え間ない息苦しさ。
路地裏の喫茶店。
白髪混じりのオールバックに無精髭の男、五十嵐健三。無言で珈琲をテーブルに置く。
古いタバコの煙。焙煎された豆の香ばしい匂い。
[A:五十嵐 健三:冷静]「後悔ってのはな、生きている奴にしかできねえ贅沢なんだよ」[/A]
右目の三筋の傷跡を指で撫でながら、低く唸る五十嵐。茶色いエプロンについた、拭いきれないコーヒーの染み。
凪は、目の前の黒い液体を見つめる。
悲しみを見ないふりをすれば、傷つかずに生きられる。
それは、自分を守るための卑怯な『嘘』。
蛍の本当の痛みを、俺は何も分かっていなかった。
[A:水上 凪:怒り]「……俺はもう、何も失いたくないんだ」[/A]
トレンチコートを翻し、立ち上がる凪。
三白眼の黒い瞳に宿る、かつてない鋭い殺意と決意の光。
悲しみを全て水に溶かして無に還す。そんな狂った平穏を、俺は絶対に認めない。
[A:五十嵐 健三:驚き]「坊主、本気か。あそこは『星降る水底』だぞ。生きて帰った奴はいねえ」[/A]
背を向けたまま、凪は答える。
[A:水上 凪:冷静]「行ってくる」[/A]
防波堤の先端。
眼下に広がるのは、街の記憶を飲み込んだ巨大な渦。
頬を打つ冷たい風。
凪は大きく息を吸い込み、暗黒の海面へとその身を躍らせた。
[FadeIn]視界を包み込む、青白い光。[/FadeIn]
愛する者を取り戻すための、切実な反逆の幕開け。
◇◇◇
第五章: 水葬の街、君に降る星
雪のように沈殿する、狂おしいほど美しい星屑。
圧倒的な映像美を誇る、水底の異界。
無重力の空間で、沈んだ街の残骸がゆっくりと回転している。
[A:星野 湊:狂気]「なぜ来た! 君のせいで蛍は……!」[/A]
憎悪に歪む湊の顔面。
破れた仕立ての良いスーツ。白に近い金髪が、水中で狂ったように乱れ踊る。
[Magic]《記憶の剥離》[/Magic]
凪の頬を裂く、水の刃。
口の中に広がる血の鉄の味。
だが、凪は止まらない。
痛みを避けない。
湊の振り下ろす拳。それを、凪は正面から受け止める。骨が軋む音。
[A:水上 凪:悲しみ]「あんたも、痛かったんだろ……」[/A]
湊の背中に回る、凪の両腕。
暴力ではなく、剥き出しの孤独ごと抱きしめる。
[Tremble]激しく痙攣する湊の身体。[/Tremble]やがて力なく項垂れた。
その奥。
巨大な光の結晶の中。眠る白いワンピースの少女。
凪は結晶に手を伸ばす。
[System]警告:対象の引き上げには、代償が必要です。[/System]
脳内に響く無機質な声。
代償。それは、蛍に関する自分自身の全ての記憶。
震える指先。
彼女の笑顔。甘いホットミルクの匂い。冷たい手の感触。
それら全てが、消える。
だが。
[A:水上 凪:愛情]「それでも、君に生きてほしい」[/A]
[Flash]世界を呑み込む、純白の光。[/Flash]
◇◇◇
抜けるような青空。
心地よく鼓膜を揺らす潮騒。
海辺の駅のホーム。くたびれた黒いトレンチコートのポケットに手を突っ込み、電車を待つ凪。
向かい側から歩いてくる、一人の少女。
光を反射する銀髪。白いワンピース。
すれ違う瞬間。
鼻腔を掠める、雨上がりの澄んだ空気の匂い。
[Pulse]ドン、と。[/Pulse]
激しく跳ねる心臓。
理由は全く分からない。
なのに、瞳から大粒の雫がボロボロと溢れ出し、止まらない。
痙攣する喉。
無意識に、凪は振り返った。
[A:水上 凪:悲しみ]「君を……」[/A]
少女もまた、足を止めて振り返る。
少しだけ見開かれる、澄んだ深い青い瞳。
[A:水上 凪:愛情]「知っている気がする」[/A]
吹き抜ける風。ふわりと舞い上がる彼女の銀髪。
遠くで鳴り響く、踏切の鐘の音。
深く、清冽な痛みが、いつまでも胸の奥に反響している。