第一章: 苦痛の洗礼、死の抱擁
冷たい泥が頬を叩き、獣の生臭い息が立ち込める。
亡霊の森は、うねる影に埋め尽くされていた。
木々の隙間から漏れる月光すら、この淀んだ空間では不吉な灰色に濁って見える。
白髪の混じった無造作な黒髪の下から、灰色の三白眼が濁った光を放つ。
レイン・アッシュフォードは、黒い外套をねっとりとした赤黒い血で染めながら、自らの腕に巻かれた包帯を歯で噛みちぎり、さらに強く締め直した。
傷口から滲み出る血はすでに生温かさを失い、凍てつく夜気に晒されて急速に温度を奪われていく。
その傍らで、艶やかな黒髪を雨に濡らしたエルセ・ノクトが身をすくませていた。
ゴシック調の黒いドレスは無残に裂け、透き通るような白い肌が冷雨に晒されて小刻みに震えている。
首元の重苦しい鉄の首輪が、彼女の浅く怯えた呼吸に合わせて小さく、しかし確実に軋んでいた。
エルセ・ノクト「レイン……もう、あそこまで魔獣が迫っているわ。私の、私のこの忌わしい毒が、またあなたを壊してしまう……。だから、近づかないで、お願い……」
彼女の言葉は、レインを拒絶しているのではない。
愛ゆえに、自らの毒が彼の肉体を蝕み、壊死させていく恐怖に耐えかねて、細い肩を激しく震わせている。
レイン・アッシュフォード「壊れる? いいや、逆だ。僕にとってはこれこそが肉体を動かす唯一の燃料だよ」
レインはそう告げながら、その冷徹な眼差しの奥で、彼女を絶対に他者に渡さないという妄執を燃え立たせていた。
レインは細く痩せた指先で、エルセの冷え切った喉元を容赦なく掴んだ。
ドク、ドク、と震える彼女の頸動脈が、指の腹に生々しい、確かな生の拍動を伝えてくる。
彼女を壊してしまいたいという加虐衝動と、失いたくないという強烈な依存心が、彼の細い指先に限界まで力を込めさせた。
そのまま、華奢な首を絞め上げる。
エルセ・ノクト「あ……っ、は、あ……。吸い、取って……わたしの、全部……っ、あなたになら、殺されても……っ」
エルセのルビー色の瞳が歓喜と苦悶に潤み、彼女の指先から、どろりとした漆黒の『死蝕の呪い』がレインの皮膚へと侵入する。
それは極彩色に煌めく猛毒。
レインの首筋の血管が、墨を激しく流し込んだようにドス黒く浮かび上がった。
全身の肉細胞が内側から一瞬にして腐食し、激しい炎で脳髄をじりじりと直接炙られるような激痛が神経を駆け巡る。
レイン・アッシュフォード「ああああッ! これだ! もっと深く、もっと奥まで刻んでくれ! その痛みだけが、僕がここに生きている唯一の証明だ!」
激痛が、泥の中で眠っていた彼の冷たい血を沸騰させ、禁忌の魔力を力任せに呼び覚ます。
《苦痛還元魔術》が暴力的に発動し、彼の身体から暴風のような黒い雷光が噴出した。
漆黒の放電が亡霊の森を不気味に払い、群がる魔獣どもの肉を一瞬にして炭化させ、骨さえ残さず灰へと変えていく。
圧倒的な破壊。
レインは膝をつき、激しい呼吸のまま、エルセの冷え切った身体をその胸に強く抱き寄せた。
エルセ・ノクト「お願い、私に触れて……あなたの命が擦り切れるまで、ずっと、私だけのものでいて」
首筋に絡みつく彼女の指先は驚くほどに冷たく、そして何よりも甘美にレインの脳を極上の麻痺へと誘っていった。
第二章: 暴かれた真実、裏切りの聖域

白亜の石柱が整然と並び、天井からは神々しいまでに真っ白な光が降り注ぐ。
だが、その美しさは無数の生贄の死臭を隠すための、欺瞞に満ちた化粧に過ぎない。
厳かな沈黙が支配する広間の奥で、レインとエルセの前に、純白の甲冑を纏った男が立ち塞がった。
黄金の装飾を施した鎧の中で、神聖騎士ガルディスの輝かしい金髪が眩しく揺れる。
ガルディスは、弱者を憐れむような非の打ち所がない美しい笑顔を浮かべ、背負った大剣を静かに引き抜いた。
神聖騎士ガルディス「ここまで這い寄ってくるとはな、不浄の害獣ども。その醜い歩みもここで終わりだ。神の光は、お前たちのような泥を許しはしない」
レイン・アッシュフォード「神の飼い犬が。その立派な大剣で、僕にどれほどの極上の痛みを刻んでくれるんだ?」
レインは口元を歪め、挑発的に笑う。
だが、その瞳は相手の出方を冷徹に観察していた。
神聖騎士ガルディス「ハハ、痛みだと? 勘違いするな、哀れな虫けら。お前たちが求める『蝕の心臓』は救済の道具ではない。世界中の呪われし者を燃料として起動する、神の大量破壊兵器だ。そしてその少女エルセは、最初からこの兵器のパーツとして、我が教会が作り出した実験体に過ぎん」
「なんだと……?」
レインの表情から余裕が消え失せ、底知れぬ怒りがその瞳に宿る。
ガルディスが冷酷に指先を掲げると、祭壇から伸びた冷たい光の鎖が、容赦なくエルセの四肢を貫き通した。
エルセ・ノクト「あああああッ!? レイン、レイン! 体が、溶けて、いく……っ! 熱い、熱いよ……!」
レイン・アッシュフォード「エルセに、その汚い手で触れるなッ!」
レインが地を蹴り、魔力を引き出そうとしたその瞬間、ガルディスは冷酷に嘲笑った。
空から降り注いだ無慈悲な聖なる光の雨が、レインの全身の神経を正確に、一本残らず射抜く。
だが、そこに肉体の破壊に伴うはずの、血が噴き出す痛みは存在しなかった。
レインは驚愕して自らの両手を見つめたが、指先の感覚すら、朝霧のように静かに消え去っていた。
何も、感じない。血の温かさも、吹き抜ける風の冷たさも、何一つ……。
レイン・アッシュフォード「何だ、これは……。痛くない、何も感じないんだ……!」
全身を襲う、血の凍るような静寂。
己の肉体がどこにあるのかさえ、見失いそうになる。
神聖騎士ガルディス「神の光はお前の不浄な神経を焼き切った。痛みを感じぬ肉体に、魔力は宿らない。ただの動く肉塊として、そこで惨めに這いつくばっていろ」
魔力の源泉である『痛覚』を無慈悲に奪われ、レインはただの抜け殻のように、冷たい白亜の石畳に崩れ落ちた。
第三章: 無痛の地獄、狂気の共有

感覚を失った世界は、底なしの暗闇よりも冷酷だった。
エルセの身体は光の祭壇に縛り付けられ、その生命力が兵器の起動へと急速に吸い取られていく。
レインは必死に自らの腕を掴んだが、肉を掴んでいるという手応えすら脳には届かない。
レイン・アッシュフォード「痛くない……これでは、僕は僕がここに生きていることすら分からない! 存在していないのと同じだ!」
神聖騎士ガルディス「無痛の地獄の中で、静かに塵へと還るがいい。それがお前に与えられた神の慈悲だ」
エルセの白い肌が徐々に光の粒子に溶け、ルビー色の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。
その涙を見た瞬間、レインの灰色の瞳に、ドス黒い狂気の火が猛然と灯った。
レイン・アッシュフォード「ハ、ハハハ……。肉体の神経が死んだなら、もっと奥に……魂の深淵に刻めばいいだけだ……!」
レインは感覚のない己の指を、自らの喉元へと深く突き立て、肉を容赦なく引き裂いた。
生温かい血が噴き出す。
だが、やはり脳は不気味なほどに無音のままだ。
レインは血を撒き散らしながら、執念だけで這いずり、祭壇の上のエルセへと手を伸ばした。
レイン・アッシュフォード「エルセ……僕に、最大の痛みをくれ。肉体の神経なんて生ぬるいものじゃない。君の『死の呪い』で、僕の『魂』を直接、跡形もなく侵蝕してくれ!」
エルセ・ノクト「レイン……! ああ、愛しい人。私の毒で、あなたの魂を縛ってあげる……!」
エルセは縛られた右腕を無理やり引きちぎり、血に濡れた手をレインの剥き出しの胸元へ、その心臓へと突き刺した。
ドクン! と、二人の心臓が直接連結される。
肉の感覚を完全に無視し、魂そのものが内側から腐食し、溶解していく極限の感覚。
レイン・アッシュフォード「ああああああああああああああああッッ!!! これだ!! これが僕の、僕たちの痛みだ!!」
脳を、魂を、存在のすべてを焼き尽くす究極の激痛が走る。
その瞬間、レインの心臓から、かつてない漆黒の魔力を暴風となって周囲に吹き荒れた。
神聖な祭壇が内側からひび割れ、ガルディスが展開していた光の防壁がガラスのように不快な音を立てて粉々に砕け散る。
レインはエルセを抱きしめ、二人の傷口を狂ったように重ね合わせて、ドス黒い魔力を聖域全体へと充満させた。
第四章: 神を穿つ黒き絶叫
神聖騎士ガルディス「ば、化け物め……! 神の秩序に仇なす穢れた肉塊が! なぜ動ける、なぜそれほどの力が湧き上がる!」
ガルディスの端正な顔が、生まれて初めて見る本物の狂気への恐怖で醜く歪む。
己の信じる絶対的な正義が、泥に塗れた異端に圧倒される現実を受け入れられず、彼の呼吸は激しく乱れていた。
ガルディスは大剣を狂暴に振り下ろし、レインの肩口を両断せんと力任せに叩きつける。
しかし、レインは避けるどころか、自らその鋭い刃に肉体を押し付け、骨で剣をがっちりと固定した。
レイン・アッシュフォード「痛いか? ガルディス。お前が信じる神の光は、こんなにも冷たい。だが、エルセの呪いは、僕の魂を狂わせるほどに温かいんだ!」
《苦痛還元魔術・死蝕連鎖》
レインの傷口から噴き出したドス黒い血液が、大剣を伝い、ガルディスの黄金の甲冑へと蛇のように絡みつく。
黒い雷撃が激しく走り、エルセの『死蝕の呪い』が神聖な甲冑を泥のように汚らしく腐食させていく。
神聖騎士ガルディス「私の……私の正義が、神の光が、こんな不浄な泥に……! あああああああッ!」
ガルディスの肉体は内側から黒く崩壊し、絶叫と共に一握りの黒い砂となって虚空へと消えた。
静まり返った聖域の廃墟。
冷たい風が、崩壊した天井から吹き込み、砂を散らしていく。
レインは血に塗れたまま、腕の中のエルセを優しく、しかし壊さんばかりに強く抱きしめた。
二人の肉体は今や、互いの苦痛と呪いを通さなければ一秒も生存できない、完全な共生体と化していた。
レインはエルセの濡れた黒髪に静かに唇を寄せ、その首輪の隙間に指を滑らせる。
エルセ・ノクト「もう、どこにも行かないで……ずっと、私の毒の中で、生きていてね」
レイン・アッシュフォード「ああ、お前の痛みが, 僕の命だ。世界をこの痛みで塗り潰しに行こう」
エルセはレインの胸の傷口にそっと唇を重ね、新たな甘い呪いをその血に混ぜ合わせた。
二人が歩み出す足跡の後には、ただ、神の秩序が崩壊した黒い荒野だけが、どこまでもどこまでも広がっていた。