第一章: 絶望の縦穴
リィザ・シルバート「アルト・ルイン、逃げて! 後ろよ!」
酸を含んだ毒霧が、露出した皮膚をじりじりと焼き焦がす奈落の第四階層「獣の喉笛」。
吸い込むたびに、肺腑が灼熱の溶岩を流し込まれたように熱い。
リィザ・シルバートの金属性の悲鳴が、粘りつく霧を裂く。
彼女の誇りである白銀のフルプレートアーマーは、随所がひび割れ、砕け散っていた。
隙間から覗く白い肌は、泥と赤黒い血にまみれている。
サファイアブルーの瞳は、暗闇にうごめく無数の多脚の影を執念深く捉え続けていた。
カサカサと甲殻が擦れ合う湿った音が、四方八方の壁から、天井から、津波となって押し寄せる。
クロウ・ヴァルハイト「ちっ、アビス・クローラーの野郎ども、完全に俺たちを囲みやがったな」
無精髭を生やしたクロウ・ヴァルハイトが、ボロボロの緑の外套を揺らして激しく舌を打つ。
彼の背負う双剣は、すでに幾百もの怪物の肉を裂き、骨を砕いたことで、ノコギリのように刃こぼれしていた。
荒い呼吸のたびに、彼の傷だらけの胸元が激しく上下する。
カチカチと歯を鳴らし、膝の震えを必死に抑えながら、リィザは半壊した聖盾を構え直した。
リィザ・シルバート「私はもう、誰も見捨てない……この命が尽きるとも!」
彼女の凛とした声が、重苦しい大気の中でかすかにかすれる。
かつて部下全員を目の前で屠られたあの悪夢が、彼女の視界を狂わせていた。
対するアルト・ルインは、ぼさぼさの黒髪を揺らし、生気のない濁った灰色の瞳をただ妖しく光らせる。
ボロボロの黒い革鎧を纏った彼の全身から、黒い呪いの紋様が蠢きながら溢れ出ていた。
それは包帯を食い破り、肉を焼きながら、彼の生命力を直接貪り食う。
アルト・ルイン「ハハ、痛くも痒くもねえよ!」
乾いた、そして完全に理性を手放した笑い声が、洞窟の奥深くに木霊する。
アルトは錆び付いた鉄剣を両手で力任せに握り締めた。
ミーナ……待ってろ。すぐに、そこへ行くからな
脳裏で甘く囁く、死んだはずの妹の幻影。
その細い首を絞めるようにして、彼は自身の心を無理やり前へと進める。
アルト・ルイン「命の値段なんてな、死に際にしか決まらねえんだよ!」
「うおおおおお!」
漆黒のエーテルが、彼の呪われた肉体から爆発的に噴き出す!
アルトは自身の痛覚を脳の奥底で遮断し、無数の爪と牙が蠢く怪物の渦へと自ら身を投じた。
クローラーの強靭な鎌が、アルトの左肩を骨ごと抉り取る。
しかし、彼は表情一つ変えず、一歩も退かない。
噴き出す赤黒い血が、彼の歪んだ笑い顔を冷たく染め上げる。
アルトは壊死しかけた右腕を限界まで引き絞り、エーテルをまとわせた一撃をクローラーの頭蓋へと垂直に叩き込んだ。
ドゴン、と肉と殻が押し潰される鈍い破壊音が響き渡る。
緑色の酸性体液が周囲に飛び散り、リィザの頬を、そして砕けた鎧をジュウジュウと焦がした。
リィザ・シルバート「な……、そんな、自らの肉体を顧みない剣技など……!」
リィザは喉を詰まらせ、命を薪のように焚べて戦う少年の背中に、ただ釘付けになる。
その背中に漂う、底知れない孤独。
彼を死の淵から踏み止まらせ、同時に奈落へと引きずり込む妄執の正体を、彼女は知る由もない。
クロウ・ヴァルハイト「おいおい、本気で死に急いでやがる. ガキに先を越されてたまるか、走るぞ!」
クロウの怒号が、リィザの硬直した身体を無理やり引きはがした。
アルトが肉の盾となってこじ開けた黒い突破口を、三人は全力で駆け抜ける。
背後では、執拗に追いすがるクローラーたちのカサカサという足音が、闇を埋め尽くしていた。
息が切れる。肺が焼ける。
たどり着いたのは、階層の最深部。
そこに佇むのは、不気味な血の色の発光を帯びた古代の巨大な円環扉。
リィザ・シルバート「開かない……!? どのような細工が施されているのですか!」
扉の中央。そこには、赤黒く乾いた肉片がこびりついた、無数の鋭利な棘を持つ「生贄の台座」が、貪欲に口を開けていた。
クロウ・ヴァルハイト「血だよ。ただの血じゃねえ。奈落に汚染され尽くした、呪血だ」
クロウの冷徹な解説が言い終わるよりも早く、アルトが泥まみれの足取りで台座の前に立った。
アルト・ルイン「ここで立ち止まってる暇はねえんだよ」
アルトは眉ひとつ動かさず、包帯が引き裂かれた、真っ黒な呪いの右腕を迷わず持ち上げる。
ドクン、ドクンと、腕の皮膚の下で肉が異常にうねり、鼓動した。
グサリ、と肉と骨が貫かれる重い音が、薄暗い遺跡に響き渡る。
アルトは躊躇なく、自らの右腕を台座の無数の棘に、根元まで突き刺した。
リィザ・シルバート「アルト・ルイン!?」
リィザの叫びをかき消すように、台座が貪欲に彼の血を吸い上げ、回路が不気味に赤く明滅し始める。
第二章: 黄金の裏切り

リィザ・シルバート「扉が……開く……!」
巨大な円環扉が、地響きとともにその重厚な身体を左右に割った。
台座を流れる呪血が、壁画に彫り込まれた無数の幾何学模様を満たし、冷たい黄金の光を放つ。
扉の向こうに現れたのは、息を呑むほどに美しい円形闘技場。
そして、その中央に鎮座する「神棺」の真上で、伝説の秘宝「星の涙」が神々しく輝いていた。
まるで夜空から零れ落ちた星をそのまま凝縮したような、澄み切った青と黄金の光。
リィザ・シルバート「あ、あれさえあれば……王国の呪いも、すべて浄化できるのですね……!」
リィザの瞳に、乾いていた涙がじわりと滲む。
彼女は崩れかけた鎧の胸元を握り締め、ようやく辿り着いた希望にその顔を輝かせた。
しかし、チャキン、という鋭利な金属音が、その歓喜を凍りつかせる。
クロウが無言のまま、腰の双剣ではなく、外套の奥から二本の漆黒の短剣を引き抜いていた。
その極薄の刃先は、無防備なアルトの、確実に無防備なリィザの首元を捉えている。
アルト・ルイン「……おい、おっさん。手の位置が間違ってるぞ。何をしてやがる」
アルトは首だけをわずかに傾け、冷徹な声で問いかけた。
その灰色の瞳には、動揺の欠片すら宿っていない。
クロウ・ヴァルハイト「悪いな、お前ら。ここで終わりなんだよ」
無精髭の間から漏れた声は、酷く掠れ、そして氷のように冷たかった。
鋭い琥珀色の瞳の奥に、引き裂かれるような葛藤がのぞく。
リィザ・シルバート「クロウ・ヴァルハイト殿……? なぜ、私たちに刃を向けるのです」
リィザが足を引いて聖盾を掲げようとする。
しかし、クロウが放つ圧倒的な殺気が、彼女の四肢を金縛りに処した。
クロウ・ヴァルハイト「星の涙』なんて美しいおとぎ話、最初から存在しねえんだよ」
クロウは自嘲気味に吐き捨てた。
それは世界を救う秘宝ではなく、邪神「アビス・ディヴァウラー」の封印を維持するための狂ったシステム。
そしてギルドの役割は、アビスの機嫌を取るために、定期的に生贄を送り込むこと。
クロウ・ヴァルハイト「俺はその『生贄』を確実にここで殺すための、ただの掃除係だ。今までも、これからもな」
短剣を握る彼の無骨な指先が、微かに、しかし確かに震えている。
かつての仲間をこの手で葬り、その罪の重さに耐えかねて心を壊してきた老騎士の末路。
彼もまた、この不条理なシステムに囚われた哀れな犠牲者そのものだった。
アルト・ルイン「ハハ、ははは! おもしろすぎるだろ、これ!」
アルトの笑い声が静寂を切り裂く。
台座から引き抜いた右腕から、黒い呪いの血が絶え間なく滴り落ちていた。
アルト・ルイン「妹を救う奇跡が、ただの殺戮の道具か。傑作だな」
全部が、嘘だったのか? ミーナ、俺は……何を信じてここまで……
アルトの脳髄を、激しい耳鳴りが襲う。
首筋の紋様が狂ったように皮膚を侵食し、彼の瞳から最後の理性を削り取っていく。
クロウ・ヴァルハイト「悪く思うな……! お前らの命で、上の世界が救われるんだよ!」
クロウの身体が弾丸のように跳ね、漆黒の刃がアルトの無防備な頸動脈へと一直線に肉薄した。
その瞬間、円形闘技場の全体が、禍々しい赤紫色の光に染め上げられる!
ドクン、ドクン、ドクンと、不気味な心音が石壁を震わせる。
「ウ、ガアアアァァッ!」
突如として天井から噴き出した、血の味のする濃厚な霧が、クロウの身体を容赦なく吹き飛ばした。
神棺が、生き物のようにドクドクと脈動を始め、円形闘技場の床を血の海へと変えていく。
第三章: 神喰らいの覚醒

クロウ・ヴァルハイト「これで……ようやく、終わりを迎えられるァ!」
吹き飛ばされ、這いつくばりながらも、クロウは血を吐きながら狂ったように笑った。
彼の漆黒の短剣が、アルトの呪血をその刃全体にまとわせたまま、神棺の核心部へと突き立てられている。
クロウ_ヴァルハイト「俺は生贄を殺しに来たんじゃねえ。お前の呪血で、この邪神の封印そのものをぶっ壊しに来たんだよ!」
バリバリと、空間そのものがへし折れるような轟音が、神棺の間を震撼させる。
黄金の神棺が中央から無惨に割れ、内側から溢れ出たのは、光すら喰い尽くす虚無の闇。
世界を滅ぼす邪神「アビス・ディヴァウラー」が、千年の鎖を解き放ち、今ここに完全覚醒を果たす。
暗黒の中から伸びた、無数の赤黒い触手。それが、クロウの胸元を背後から一息に貫いた。
クロウ・ヴァルハイト「ガ、ハァッ……。これで……やっと、お前らの元へ……いける……」
彼の琥珀色の瞳から、急速に光が失われていく。
老いた「死神」の身体が石畳に崩れ落ち、彼が流した血は瞬く間に這い寄る闇に吸い込まれた。
太陽の光など初めから存在しないこの深淵で、さらに深い、完全な漆黒が空間を埋め尽くしていく。
リィザ・シルバート「あ、あ、嫌……! 来ないで……!」
リィザは、目の前を覆い尽くす暗黒に、かつて部下全員を失った遠征の記憶を強制的に接続させられていた。
呼吸が浅くなり、心臓が爆発しそうなほど早鐘を打つ。
全身の筋肉が硬直。
指先一つ、動かすことすら叶わない。
しかし、そんな彼女の視界に、満身創痍の身体でなお前を睨みつける、黒髪の少年の姿が映り込む。
私は、ここでまた逃げるのか? 己の誇りを捨て、ただ一人貪り生きるのか? 否、二度と!
リィザ・シルバート「私はもう、誰も見捨てない! この命が尽きるとも!」
《聖光結界》
リィザがボロボロの聖盾を天高く掲げると、白銀の光が極彩色の爆発となって、周囲の闇を焼き払う。
そのまばゆい光背に背を押されるようにして、アルトの濁った瞳に、かつて失ったはずの光が、かすかに宿った。
彼の脳内で、死んだはずの妹ミーナの声が、呪いを通じて激しく、狂おしく叫び続ける。
アルト・ルイン「お兄ちゃん、助けて……どうして助けてくれないの……」
耳を塞ぎたくなるような亡霊の泣き声。
しかし、アルトは首筋の呪いの紋様を、自らの爪で肉ごと掻きむしり、激痛とともにその幻聴を叩き潰した。
アルト・ルイン「死んだ奴が戻るわけねえだろ! 終わった過去に、縋り付いてんじゃねえ!」
極限突破:アビスのエーテル操作、100%解放
アルトを拘束していた包帯が、黒いエーテルの衝撃波によってすべて消し飛んだ。
漆黒の魔力が暴風となって彼の右腕に収束し、肉と骨を再構成していく。
それは瞬く間に、あらゆる因果を断ち切る、巨大な漆黒の魔剣へと姿を変えた。
リィザ・シルバート「アルト・ルイン、我が剣は、貴殿の盾となるためにある!」
アルト・ルイン「行くぞ、リィザ・シルバート! あのクソ野郎の息の根を止める!」
リィザが展開した聖光の障壁に護られながら、アルトは大地を踏み締めて虚空へと跳んだ。
邪神が放つ無数の暗黒触手を、リィザの盾と神速の剣技がことごとく弾き飛ばし、道を切り拓く。
真っ直ぐに突き進むアルトの視線の先。
邪神の巨体の中心で、血脈のようにドクドクと拍動する、巨大な「核」が剥き出しになった。
アルト・ルイン「お前の命の値段、ここで叩き出してやるよ!」
《深淵・骸咲の魔剣》
アルトの巨大な漆黒の魔剣が、邪神の核へと、狂おしいまでの力で深々と突き刺さる。
その瞬間、白銀の聖光と漆黒の魔力が極限で交わり、世界を真っ白に染め上げる大爆発を引き起こした。
第四章: 奈落に咲く光

リィザ・シルバート「アルト・ルイン……? 嘘、でしょう……?」
崩落した大穴の縁から、柔らかな朝陽の光が差し込んでいた。
白銀のロングヘアを朝風に揺らしながら、リィザは膝から崩れ落ちる。
彼女の前に立ち尽くす、黒髪の少年。
アルトは、生気のない濁った灰色の瞳で、リィザの顔をまるで初めて見るかのように見つめていた。
邪神「アビス・ディヴァウラー」は核を破壊されて完全に霧散し、奈落の呪いも綺麗に浄化されている。
けれど、その代償は、彼のすべてを奪い去っていった。
クロウの身体はすでに冷たく静まり返り、二度と目を開けることはない。
そして、アルトの右腕は、肘から先が真っ黒な硬質の結晶へと変わり果て、ピクリとも動かなかった。
アルト・ルイン「……あんた、誰だっけ。俺、なんでここに立ってんだ?」
光ににじむ視界の向こうで、アルトは力なく呟いた。
妹のミーナがいたこと、自分がなぜここまで泥水をすする思いで戦ってきたのか。
その記憶の全てが、彼の脳内から跡形もなく、綺麗に消え去っていた。
リィザ・シルバート「あ、う……あ、ぁ……」
リィザのサファイアブルーの瞳から、大粒の涙が零れ落ち、乾いた砂に染み込んでいく。
彼女はボロボロのフルプレートアーマーの軋みも厭わず、衝動のままにアルトを強く抱きしめた。
リィザ・シルバート「私が……私が貴方の盾になります! 貴方が全てを忘れても、私が貴方の居場所になる!」
冷たい金属の感触を通り越し、彼女の狂おしいほどの体温がアルトの肌へと伝わっていく。
アルトは当惑したように視線を彷徨わせたが、唯一動く左手を伸ばし、彼女の震える指先を握り締めた。
手を繋ぐこと。
他者の体温を感じる、ただ一つの、彼に残された確かな感覚。
握り締めた手のひらから伝わる熱が、何もかも失った彼の胸を、不思議と温かく満たしていく。
アルト・ルイン「……よくわかんねえけど、あったかいな。だから、もう泣くなよ」
アルトの虚無の瞳の奥に、ほんの少しだけ生きた人間の温もりが灯り、その口元が微かに微笑みを模した。
リィザは涙を拭い、彼の左手をしっかりと握り直すと、光あふれる地上への一歩を踏み出す。
ドクン、と静寂のなかで、静かな心音が響いた。
アルトの右腕。二度と動くはずのない、あの真っ黒な結晶の腕。
その漆黒 of 結晶の奥深くで、黄金の光が、静かに優しく拍動を始めていた。
失われた記憶の代わりに、奈落の骸の底で芽吹いた、真実の兆し。
それは、終わりのない、新たな真実の冒険への幕開けだった。