第一章: 血塗られた解剖台の口づけ
ジジ、ジジジ……と、不快な高周波ノイズを撒き散らす古びた蛍光灯。地下二階の無菌解剖室には、刺すようなホルマリンの刺激臭と、空気を重く湿らせる錆びた鉄の臭気が充満していた。
落ちくぼんだ三白眼の周りに濃いクマを刻み込んだ樋口蓮は、ボサボサの黒髪を垂らし、いくら洗っても血汚れの落ちないヨレヨレの白衣の袖を雑に捲り上げている。
冷え切ったステンレス製解剖台の上に横たわるのは、透けるように白く、薄氷を思わせる肌を持つ少女の遺体だ。
漆黒のロングヘアが濡れた昆布のように台へ広がり、その細い四肢や首筋には、不格好で痛々しい黒い縫い目が幾重にも走っている。
蓮は熱に浮かされたように冷たくなりきった指先を伸ばし、彼女の首元にある無数の継ぎ目を愛おしそうになぞった。
樋口 蓮「美しい……どうして生きている人間は、こうも汚らしく蠢くのだろうか」
蓮は銀色のピンセットと太い縫合針を手に取り、寸分狂わぬ精度で皮膚の裂け目を丁寧に縫い合わせていく。
生きている人間の汗ばんだ肌や生温かい体温など、想像するだけで虫酸が走る。
一切の運動を止め、腐敗への途上にある肉体の沈黙だけが、蓮の摩耗しきった精神を深く満たしていた。
その時だ。鼻をつくわずかな腐敗臭とともに、解剖台の上の肉体が跳ねた。
ビクンと痙攣した死体。
ガラス玉のように光を宿さぬ赤い瞳が、突如としてカッと見開かれる。
桐島 綾乃「見―つけた」
死体が動いた。
氷のように冷たい細い手が急速に伸ばされ、蓮の首元を容赦なく締め上げる。
気管が押し潰され、酸素の供給が強引に断たれた。
視界の端が明滅し、激しい耳鳴りが脳内を駆け巡る。
普通の人間であれば恐怖に叫び出す局面だ。
しかし、蓮の喉から漏れ出たのは、狂喜に歪む絶頂の呼気だった。
首を締め上げる指先の、凍りつくような冷たさ。
ゴシック調の黒いレースドレスの隙間から漂う、甘く重い屍肉と防腐剤の混ざり合った匂い。
蓮の全身の血が、狂ったような速度で逆流を始め、心臓が爆発しそうなほど脈打つ。
十八歳の夏に知った、あの冷たい肉体の記憶が、一瞬で全細胞を塗りつぶしていった。
桐島 綾乃「ねえ、蓮さん……私を腐る前に、あなたのその手で永遠の標本にして?」
綾乃はゆっくりと身を起こすと、蓮の首を強引に抱き寄せ、その唇を強烈に塞いだ。
柔らかく温かい肉の感触ではない。
死後硬直を起こしかけた、冷たく硬い、まるで石膏のような唇。
噛み千切るような激しい口づけとともに、生臭い鉄の味が口腔全体へと広がる。
蓮は己の切れかけた唇から流れる鮮血を舐めとりながら、狂乱の渦へと突き落とされていった。
首筋の静脈が破裂せんばかりに脈打ち、自分の中で理性を繋ぎ止めていた最後のタガが完全に弾け飛ぶ。
樋口 蓮「ああ……ああ、滑らかだ。君の死は、なんて素晴らしい……!」
桐島 綾乃「ふふ、最高の顔。私を愛してくれるなら、この街ごと私と一緒に死んで?」
綾乃はくすくすと可憐に、そしてどこか壊れたように笑いながら、己の胸元に走る縫合用の黒い糸を、長くとぎすまされた爪で一気に引き裂いた。
ドロリとした黒い血が解剖台からドバドバとあふれ出し、無菌室の空気を一瞬で激しい死の異臭で塗り替えていく。
第二章: 腐敗の告発と裏切りの真実

叩きつけるような激しい雨音が、廃病院の地下薬品庫に途切れることなく響いていた。
棚に所狭ましと並べられたホルマリンの瓶が、格子窓から差し込む青白い街灯の光を反射して不気味に揺れている。
蓮は血の滲む汚れきった白衣のまま、握りしめた解剖刀の刃先を震わせていた。
膝の上には、黒いレースドレスを大きく崩した綾乃がなすがままに横たわっている。
樋口 蓮「腐らせはしない……爪の一本、皮膚の一片に至るまで、僕が完璧に縫合してみせる」
高濃度の防腐液を満たした極太のシリンジを、綾乃の首の後ろにある太い接合部へ迷いなく刺し込む。
透明な液体がぐちゅりと流し込まれるたび、綾乃は甘い悶え声をあげ、蓮の首筋に冷ややかな吐息を吹きかけた。
自傷解体と修復の愛撫。
生きている生身の人間とは決して味わえない、死の深淵でのまぐわい。
蓮の冷え切った指先が、彼女の四肢に走る黒い縫い目をなぞるたび、激しい官能が背筋を激しく揺さぶる。
桐島 綾乃「あは……いいわ、蓮さん。もっと深く刻んで……私をあなたの色で満たして……」
その背徳に満ちた静寂は、薬品庫の重い鉄扉が爆音とともに破壊されたことで無惨に打ち砕かれた。
充満する腐臭を押し返すように、湿った靴音が冷たいコンクリートに響く。
オールバックの白髪交じりの髪に、顔の右半分を覆う不気味な火傷痕。
黒いトレンチコートを豪快に翻し、義眼を妖しく発光させた男——黒木宗一郎がそこに立ち塞がっていた。
黒木 宗一郎「そこまでだ、狂人。死体に添い寝する趣味は感心せんな」
樋口 蓮「邪魔をするな……! 僕たちの無菌室を汚すな……!」
解剖刀を低く構える蓮に対し、黒木はコートの内側から大型の拳銃を引き抜き、躊躇なく照準を合わせた。
その鋭く冷徹な視線は、蓮の腕の中で妖しく微笑む少女へと向けられている。
黒木 宗一郎「目を覚ませ、おめでたい解剖助手。そいつはただの可哀想な被害者の幽鬼じゃない。周囲の生きている人間の生命力を吸い上げ、肉体を腐敗させる呪いを撒き散らす『苗床』だ」
黒木の吐き捨てた言葉が、室内に冷たく響く。
黒木 宗一郎「お前がその女を修復し、防腐剤を打つたびに、地上では何十人もの人間が原因不明の腐敗病で皮膚を溶かして死んでいる。お前のその偏執的な愛が、この街を地獄に変えているんだよ」
蓮の手からシリンジが力なく滑り落ち、硬いコンクリートの床でパリンと甲高い音を立てて砕け散った。
腕の中の少女を見下ろす。
綾乃のガラス玉のような赤い瞳が、心底楽し気に細められた。
桐島 綾乃「クスクス……気づかなかった? あなたが私を愛撫するたびに、誰かが死んでいたのよ。最高の共犯者さん」
自分の偏愛が、世界を確実に侵食していた。
絶望が脳を焼き切る前に、黒木の無機質な声が追撃する。
黒木 宗一郎「怪異に狂わされた哀れな男だ。死体と一緒に燃え尽きろ」
迷いなく引き金が絞られる。
銃口から放たれた眩い火花が、暗闇を一瞬で切り裂いた。
第三章: 屍肉の箱庭で踊る絶頂

銃声が鼓膜を破る!
乾いた衝撃音とともに、蓮の背中に激痛が突き抜けた。
肺が押し潰され、口から大量の鮮血が吐き出される。
床に激しく倒れ伏し、赤い液体が割れたシリンジの防腐液と混ざり合っていく。
黒木は冷ややかな眼差しで弾倉を改め、薬品庫の棚に置かれたガソリン缶へ視線を向けた。
黒木 宗一郎「これで終わりだ」
だが、血の海の中で、蓮の口元は歪な弧を描いていた。
絶望など、最初からどこにも存在しなかった。
己の手が世界を腐敗させていたという事実。
綾乃の邪悪で美しき呪い。
それこそが、自分が生涯をかけて追い求めていた完璧な「死」の姿ではないか。
樋口 蓮「そうだ……! 僕が、僕たちが世界を殺している……!」
膝を折っていた蓮は、背中の激痛を置き去りにして地を這い、黒木の足元へ狂的に肉薄した。
隠し持っていた鋭利な解剖用メスを、全身の体重を乗せて黒木の足首へ深々と突き立てる。
黒木 宗一郎「ぬうっ……! この狂執が……!」
激痛に顔を歪めた黒木がわずかに怯んだ隙に、蓮はガソリン缶を思い切り蹴り倒した。
床一面に広がった燃料に、崩れ落ちたランプの火が瞬時に引火する。
一瞬にして、青い炎が部屋全体を包み込んだ。
黒木が毒突きながら退路へ向かって脱出していく背中を完全に無視し、蓮はゴウゴウと燃え盛る炎の渦の中心へ向かった。
そこには、燃え盛る火を背景に、両腕を広げて優艶に待つ綾乃の姿がある。
背中の創口から血を撒き散らしながら、蓮は綾乃の冷たい肉体を強く、強く抱きしめた。
炎の熱と、彼女の氷のような体温が混ざり合い、お互いの皮膚が溶け合うような錯覚を覚える。
蓮はポケットから取り出した特濃の防腐剤を、綾乃の胸の隙間、その死した心臓へ直接深く突き刺した。
同時に、綾乃の死後硬直を起こした手が、鋭い刃物のように蓮の胸腔を力任せに突き破る。
胸骨が砕ける甲高い音が室内に響き、彼女の細い指先が、蓮の動脈を力強く掴み取った。
桐島 綾乃「あはっ! あはははは! 温かい……蓮さんの心臓、すごく温かい……!」
樋口 蓮「ああ……君の冷たさが、僕の中に流れ込んでくる……最高の……完成だ……!」
ふたりの血と防腐液が混ざり合い、青い炎の中で激しく蒸発していく。
激痛は至高の快楽へと変わり、重なり合った二つの肉体は、炎の熱によって境界線を完全に失っていく。
皮膜が溶け、骨が絡み合い、二人は永遠の標本へと昇華されていった。
数日後、鎮火した廃病院の地下跡地。
崩れ落ちた瓦礫と灰の中から退魔師たちが発見したのは、黒く焼け焦げた一塊の巨大な骨組だ。
二人の骨は、メスと防腐剤の針によって寸分狂わず縫い合わされ、決して解けぬよう固く融合していた。
それは誰の目から見ても、息を呑むほどに美しく、残酷な「愛」の標本であった。