第一章: 硝子眼球の逢瀬
キリ、キリ、キリ……
間宮 栞「律くん、ここだよ」
防腐液の鼻を刺す甘ったるい芳香が、気管の粘膜をじわじわと焼き焦がす。陳列室の天井高くに嵌め込まれたステンドグラス。煤けた鉛の枠を透過する青白い月光が、黒のタートルネックと色褪せたデニムに包まれた霧島 律の痩躯を、死体のように青く染め上げていた。
霧島 律「栞……? そこに、いるのか」
脂汗で額に張りつく黒髪の隙間から、血走った三白眼が異様な光を放つ。握りしめた超指向性コンデンサーマイクのアルミニウム製グリップが、律の激しい手汗でぬめる。かすかな震えがマイクカプセルを擦り、乾いたノイズを拾い上げてヘッドフォンの中でパチリと弾けた。
間宮 栞「ずっと、待ってたんだよ」
退廃的な深紅のベルベットチェア。そこに腰掛けていたのは、かつて律がその声に狂おしいほど溺れた女、間宮 栞だった。陶器の如く透き通る青白い皮膚。肩を越えて豊かに広がる濡れ羽色の黒髪。薄汚れたアイボリーのシルクワンピースから覗く細い鎖骨が、月光を鋭利に弾いて無機質な輝きを帯びている。
霧島 律「栞! あぁ、よかった……探したんだ、ずっと、ずっと……!」
見つけた。僕の栞。あのサンプリング音源と一寸の狂いもない、周波数五千ヘルツの甘美な倍音。
高価な録音マイクを冷たい板張りの床へ無造作に投げ捨て、律は膝をついて這い寄る。彼女の足首に手を伸ばし、祈るように縋りついた。焦点を結ばない栞の濁った瞳が、軋むような鈍い角度で律を見下ろす。
霧島 律「帰ろう、僕たちの防音室へ。また君の声だけをマイクで拾わせてくれ。君の吐息のノイズだけを、僕の鼓膜に……」
氷。
律の震える指先が栞の頬を撫で上げた瞬間、指腹の熱が暴力的に奪い去られた。人肌の温もりではない。冷蔵された大理石の表面を撫でているかのような、救いようのない絶対零度。
霧島 律「え……? 栞、君、なんでこんなに……冷たいんだ」
間宮 栞「私ね、ずっと綺麗にしてるよ」
銀の鈴を転がすような美声。だが、揺らぎがない。抑揚という名の人間的なノイズが極限まで削ぎ落とされた、不気味なほど平坦な音声データ。律は混乱に苛まれ、彼女の細い胸元へ耳を押し当てた。
キリ、キリリ、カチャ……カチ……
鼓動がない。肺胞を膨らませる空気の流入音もない。薄い胸腔の奥深くから響くのは、油脂の切れた精密機械が軋むような、乾ききった歯車の歯擦音だけ。
霧島 律「あ、あ、ああ……っ、なんだこれ、なんの音だ……!?」
間宮 栞「次は律くんの番だよ」
栞の紅い唇が人工的に裂けるように開き、乾燥した義歯と合成樹脂の舌が擦れ合う微細な金属摩擦音が、死に絶えた陳列室の空気を震わせた。
第二章: 防腐師の美学

九条 綜介「呼吸などという粗野な運動は、肉体の尊厳を損なう汚濁に過ぎませんよ」
巨大なガラス瓶に沈められた臓器と蒼白い標本が立ち並ぶ、薄暗い地下処置室。踵を返して逃走を図った律の背広の襟首を、冷え切った針のような声が縫い留める。
霧島 律「誰だお前! 栞に……僕の栞の身体に何を入れた!」
九条 綜介「おや、無粋な訪問者にしては耳が良い。私はこの館の管理人に過ぎません。九条 綜介と名乗っておきましょう」
埃の積もったヴィンテージツイードのスリーピース。銀髪を隙なく撫でつけたオールバックの奥で、無機質な銀縁眼鏡が燐光を放つ。九条の手元では、繊細な彫刻が施された解剖用メスが、外科医特有の優美な手つきで弄ばれていた。
九条 綜介「彼女は自らこの処置を懇願したのですよ。時間という名の腐敗から逃れ、永遠の静止美を手に入れるために。胸を割り、腐敗を呼ぶ内臓のすべてを掻き出し、防腐樹脂と特注のゼンマイ駆動式人工声帯で満たされた完璧な空洞……。これこそが、我が工房が生んだ至高の芸術品です」
霧島 律「嘘だ……狂ってる! 栞、嘘だと言え! 君がそんな化け物になるはずがない!」
間宮 栞「律くん。私、もう汗も流さないし、排泄もしない。老いることも、死ぬこともないの」
アイボリーのドレープを微かに揺らし、栞の口角が吊り上がる。その頸動脈の走るべき位置には、外科用ステンレスワイヤーで精緻に編み上げられた生々しい縫合創が、百足のように這っていた。
九条 綜介「君も本質は私と同種のはずだ、霧島 律くん。君は生きた彼女の体臭や生理現象を嫌悪し、密閉された無響室でマイク越しに濾過された純粋な音声データのみを偏愛していた。違うかね?」
核心。
律の気管が痙攣を起こす。図星だった。肉の温もりへの生理的嫌悪。経年劣化への怯え。ノイズのない波形だけを偏執病的に蒐集していた己の醜悪なフェティシズムを、眼前の中年男は完全に解剖していた。
霧島 律「ちが、う……僕はただ、最も純度の高い彼女の響きを……」
九条 綜介「ええ。その純度を永遠に保つ方法を、今すぐ施して差し上げましょう」
冷え切った革手袋が、律の後頭部を鷲掴みにする。首筋に鋭利な痛覚が走った。九条の指の間に隠されていた大型注射針が、律の頸動脈へ容赦なく深々と沈み込む。
急激に視界の輪郭が溶け出す。平衡感覚を喪失した両膝が、冷酷な敷石の上へ激突した。
間宮 栞「おやすみなさい、律くん。もうすぐ、同じになれるから」
感覚の麻痺していく律の瞼を、間宮 栞の冷え切った指先が、慈しむように優しく押し下げた。
第三章: 永遠の合唱

天窓のステンドグラスから降り注ぐ、乾いた血の色をした真紅の月光。大理石の祭壇のような大広間には、冷たいスチール製の解剖台が二基、並列に鎮座していた。
霧島 律「あ、あぁ……が……っ」
全身の骨格筋が硬直している。皮革と真鍮の強固な拘束具によって台へ縫い止められ、眼球を動かすことすら敵わない。過敏になった聴覚だけが、九条の革靴の乾いた足音を室内に反響させていた。
九条 綜介「実に素晴らしい甲状軟骨の発達だ。君の絶望に満ちた喉の共鳴を、永久に針飛びしないレコード盤へと固定化してあげよう」
九条の無慈悲な指先が律の喉仏を乱暴にまさぐり、ホルマリンと硬化樹脂の混ざり合った細長いシリンジが、その白い喉首へ垂直にあてがわれる。
霧島 律「やめろ。僕の声帯を潰すな。僕の音が、振動が、無に帰してしまう……!」
ブツン。
筋肉の繊維を強引に引き裂き、高濃度の防腐剤が声帯周辺の組織へ直接流し込まれる。気管の奥底で炎が爆ぜるような激痛。泡立った赤黒い血と刺激臭を放つ薬液が、律の口角からとめどなく溢れ、顎を伝って耳朶を濡らす。
九条 綜介「素晴らしい……! 細胞のひとつひとつが硬化し、君の叫びが静寂の彫刻へと昇華していく!」
網膜を焼き焦がす激痛のなか、律の眼球は隣の解剖台へと引き寄せられる。
硝子の球体を嵌め込まれた間宮 栞の瞳が、じっと律を見つめ返していた。呼吸のない、死後硬直のような完全なる美の結晶。
霧島 律「あ……あ、あぁ……ッ!」
完璧だ。腐敗もしない、老いもしない。世界で最も美しい、永遠のノイズ。
激痛の極限で、律の脳髄に奇怪な快楽の火花が散る。恐怖を凌駕する倒錯した陶酔が、麻痺した神経系を甘やかに犯していく。
間宮 栞「律くんの声は、誰にも渡さない」
ガタンッ!
拘束されていたはずの栞の華奢な四肢が、不快なギアの軋み音を撒き散らしながら跳ね上がった。
九条 綜介「な……馬鹿な、防腐処理の施された標本がなぜ動く!? 美が、私の完璧な標本が損なわれるではないか!」
間宮 栞「私の律くんに、触らないで」
純白のドレスの裾を翻し、栞の硬化した指先が九条の手首へ食い込む。骨の砕ける鈍い音が響き、奪い取られたメスの刃が、赤黒い月の光を吸って冷酷な孤を描いた。
ドシュッ!
九条 綜介「ガ、あ、ギョ、ォォッ……!?」
九条の喉笛が深々と裂かれ、動脈圧で噴き上がった熱い赤飛沫が、天井のステンドグラスを汚す。
返り血で白肌を濡らした栞は、痙攣する九条の肉塊を視界に収めることすらせず、律の耳元へしな垂れかかった。
間宮 栞「これで、誰にも邪魔されないね」
死んだ肉の冷たい唇が、律の血に染まった頸動脈の創口へ、吸い付くように圧しつけられた。
第四章: 鳴り止まぬ静寂
間宮 栞「もう痛くないよ、律くん。すぐに、ひとつにしてあげる」
処刑場と化した大広間。九条 綜介の骸から流れ出た暗紅色の血潮が、床の溝に沿って巨大な幾何学模様を描き出していく。
栞の強張った指先が、律を縛る革ベルトの金具を一本ずつ冷徹に外していく。しかし、全身の毛細血管に防腐樹脂を行き渡らせた律の肉体は、すでに冷たい鉛の塊と化していた。指の関節ひとつ動かせない。
霧島 律「声が出ない。声帯が完全に固まった。けれど、聞こえる。栞の胸の奥で回る、真鍮のギアが擦れ合う純粋な旋律が。」
間宮 栞「二人だけの、永遠のレコードを作ろう」
栞は自らのドレスの胸元を、両手の力任せに引き裂いた。白い布地が裂け、細い肋骨の上に走る太い外科用ワイヤーが露出する。彼女はその結び目を躊躇いなく引き千切り、左右の皮膚を自ら押し開いて、ぽっかりと口を開けた胸腔の暗黒を晒し出した。
肺も心臓も存在しない、硬化樹脂でコーティングされた滑らかな空洞。その肋骨の檻の最奥から、栞は鈍色に光る細長い蓄音機の針を抜き取った。
間宮 栞「私の中で、ずっと鳴っていて」
血塗られたメスの切っ先が、律のタートルネックの布地を裂き、青白く硬化し始めた胸板の皮膚へと突き刺さる。
ツ、ツツゥ……。
もはや神経は激痛を伝達しない。ただ、肉が裂ける振動だけが骨を伝わって律の頭蓋を揺らす。栞は律の胸に自らと同じだけの亀裂を刻み込むと、むき出しになった自らの肋骨を、律の裂かれた胸骨へと容赦なく噛み合わせるように抱きすくめてきた。
霧島 律「……ッ、……」
骨と骨が直接擦れ合う、硬質で官能的な軋み音。栞の空洞に仕込まれた真鍮の針が律の胸骨を擦過し、二人の身体全体をスピーカーとして、狂気じみた金属の共鳴音が大広間に響き渡る。
間宮 栞「ねえ、律くん。今の私、世界で誰よりも綺麗でしょ?」
霧島 律「ああ、完璧だ。腐らない。裏切らない。二度と失われない。僕たちの永遠のノイズ。」
互いの胸腔を噛み合わせたまま、二つの肉塊は床に置かれた巨大なガラスケースの中へと滑落した。
飛散した血と防腐剤が混ざり合う冷たいガラスの底で、栞の冷え切った唇が、二度と動かない律の唇を密閉するように塞いだ。
録音待機中……音声入力を感知できません
銀色の月光だけが、静止した展示室を冷酷に射抜く。死の静寂に沈んだ大広間の片隅で、律が手放した録音機材の赤いインジケーターだけが、永遠に発声されることのない二人の沈黙を冷徹にサンプリングしながら、規則的な明滅を繰り返していた。
完全な、静止美のなかで。