第一章: 暗闇の千眼
鼻腔の奥を焼き焦がすのは、粘膜を逆撫でする濃厚なホルマリンと腐敗した血液の鉄錆臭。
冷え切ったステンレスの手術台に背を押し付けられ、分厚い革の拘束具が手首と足首の皮を擦り剥く。
黒のハイネックの襟元は脂汗でびっしょりと湿り、痩せ細った胸郭が痙攣混じりに激しく上下を繰り返した。
鳴海 朔「やめてくれ……頼むから、誰も……誰も僕を見るな……!」
引き攣った唇の端から唾液が垂れ落ち、視線恐怖の棘が脳髄を苛む。
乱れた黒髪の隙間から見上げた剥き出しのコンクリート天井が、地鳴りのような軋みと共に裂開した。
ネチャ、ネチャと粘つく湿った肉擦れの不快な音が、頭蓋骨の芯に直接響き渡る。
亀裂からずるりと垂れ下がってきたのは、血と脂に塗れた白衣を纏う異形の肉塊。
その皮膚の全面には、神経の束を蠢かせた無数の生きた人間の眼球が隙間なく埋め込まれていた。
百を超える充血した瞳孔が一斉に焦点を結び、朔の剥き出しの喉仏から爪先までを舐め回すように凝視する。
見られている。網膜が、皮膚が、魂の芯まで暴かれていく。
心臓の激しい鼓動が肋骨の内側を激しく乱打し、呼吸が浅く引き攣れる。
怪異の腕から生えた幾重もの瞳がねっとりと瞬き、執刀用の冷たいメスを朔の剥き出しの右目へと振り下ろした。
鳴海 朔「うわああああっ!」
鼓膜を突き破る悲鳴の最中、分厚い鉄扉が甲高い金属音を立てて蹴り開かれる。
逆光の中に浮かび上がる、清楚な白のブラウスと手入れの行き届いた黒髪ストレートロング。
織部 瑠璃「朔くん、大丈夫よ。そこまでですわ」
第二章: 愛の網膜剥離

瑠璃に引かれた手は氷のように冷たく、血の巡りを感じさせないほど滑らかだった。
駆け込んだ院長室の重厚な扉を閉ざすと、薄暗い部屋の奥へと青白い月光が差し込む。
荒い息を吐き出す朔の膝がガクガクと震え、冷たい床に崩れ落ちそうになった。
鳴海 朔「瑠璃、ここは一体何なんだ……僕をどうする気だ……?」
乾いた唇から零れ出た問いかけは、部屋を包む圧倒的な異様さにかき消される。
壁一面、天井から床の隙間に至るまでを埋め尽くしていたのは、膨大な数の写真。
幼少期の無防備な横顔から今日この瞬間に至るまで、朔の日常を克明に切り取った数万枚の盗撮記録だった。
眠る顔、怯える瞳、食事の一口までもが標本のように記録されている。
瑠璃は陶器のような白い指先で朔の濡れた頬をなぞり、黒瞳を妖しく細めた。
織部 瑠璃「瞬きなんて無駄よ。一秒も余さず、朔くんのすべてを網膜に焼き付けたいの」
鳴海 朔「全部……君が仕組んだのか……? 幼い頃からずっと……!」
織部 瑠璃「ええ。ここは眼球を蒐集していた私の祖父の医院。怪異を呼び寄せたのも私。あなたを誰にも渡さないための、二人だけの檻よ」
瑠璃の足元の影が不自然に盛り上がり、先ほどの怪異が彼女の背中にぴったりと重なった。
第三章: 瞳孔の融合

引きずり込まれた地下室は、天地左右のすべてが巨大な鏡面で埋め尽くされていた。
逃げ場のない完全な閉鎖空間に、無数の朔の怯える姿が乱反射して無限に増殖する。
怪異の肉塊が瑠璃の背中へ溶け込むように潜り込み、彼女の白い首筋や両腕の皮膚が裂け、新しい眼球が次々と開花していった。
グチャリと肉が裂け、百の瞳が瑠璃の肉体から朔を見つめる。
織部 瑠璃「これで死ぬまで、どこを向いても私だけがあなたを見つめてあげられるわ!」
瑠璃が朔の体を押し倒し、冷たい指先が震える朔の顔を固定する。
鏡の乱反射と瑠璃の全身に咲いた無数の瞳から放たれる視線の嵐。
他人の視線が恐ろしい。けれど――これほどまでに自分だけを渇望する視線があっただろうか。
恐怖の奥底から湧き上がる名状しがたい昂揚感。
鳴海 朔「見るな……いや、僕だけを、僕の魂だけを見てくれ……瑠璃……!」
瑠璃の手が銀の縫合針と黒い糸を掲げ、朔の両の瞼へと近づく。
織部 瑠璃「二度と目を閉じないでね、朔くん」
冷たい針先が、朔の薄い瞼の皮膚を容赦なく貫いた。
第四章: 閉ざされぬ永遠
最深部の暗室、ホルマリンが満たされた巨大なガラスケースの中。
瞼を上下に固く縫い留められた朔の瞳は、もう二度と閉じることを許されない。
流れる血の涙が頬を伝い、目の前に座る瑠璃の姿を鮮明に映し続ける。
外の世界の無関心な視線も、悪意に満ちた雑音も、分厚いガラスの向こうには届かない。
瑠璃の白い肌にびっしりと宿る無数の瞳が、朔の瞳孔を至近距離で焼き尽くすように見つめている。
朔の乾いた唇が、恍惚の歪んだ弧を描いた。
鳴海 朔「ああ……世界で、僕たちだけだ……」
織部 瑠璃「ええ、朔くん。永遠に、瞬き一つ許さず愛してあげる」
暗闇の中、カチリと重い錠前が外側から掛けられた。
無音のガラスケースの中で、二人の湿った呼気だけが絡み合い、永遠の闇に溶けていった。