第一章: 奈落の底の血戦
吹き荒れる暴風が、錆びた鉄と腐肉の混ざり合う悍(おぞ)ましい臭気を巻き上げる。
巨獣の肋骨が幾重にも天を突き刺す奈落深度五千メートル。
張り詰めた大気を引き裂き、白銀の装甲が甲高い破砕音とともに砕け散る。
透き通る白銀の編み髪が泥と混ざり合い、鮮血に塗れて首筋へへばりついた。
イリス・エルフィード「不浄なるものよ……退きなさい……っ!」
黄金色の双眸を険しく吊り上げ、イリスは刃こぼれした細剣を震える両手で握り直す。
だが、剥き出しになった純白の脇腹を冷たい汗がつたい、浅い呼吸に合わせて胸元が激しく上下する。
その眼前隙間なく立ち塞がるのは、右半身を禍々しい漆黒の鱗に変異させた巨躯。
骸喰らいのガルム「グハハハ! 骨まで噛み砕いて塵にしてやるよ! 喰らい、生き残る奴だけが正しいのだよ、小嬢ちゃん!」
ガルムの振り上げる巨大な黒鉄の戦斧が、空気を爆砕しながら頭上から薙ぎ払われる。
逃げ場はない。死の切っ先が眉間に迫る刹那、煤けた黒髪を乱した影が横合いから泥を蹴って割り込んだ。
鼓膜を劈(つんざ)く硬質な金属同士の激突音が洞窟の隅々まで反響する。
擦り切れた革鎧の隙間から、幾重もの死線を物語る赤黒い古傷を露わにし、レオンは血走った三白眼を獰猛に歪めた。
レオン・ヴァルディス「……チッ、邪魔くせえ。鍵を独占して高跳びする気満々の面だぜ」
奥歯をギリリと噛み締め、レオンは力任せに戦斧を押し返す。
イリス・エルフィード「なっ……貴方のような野蛮人に救われるなど、屈辱です……っ!」
レオン・ヴァルディス「救っちゃいねえよ! 死にたくなきゃ俺の背中に爪立ててへばりついてろ! 底が見えねえなら、奈落の果てまで落ちるだけだ!」
レオンは叫びざま、右腕に幾重にも巻き付けた呪縛の黒布を引きちぎった。
吹き荒れる血潮が粘り気のある漆黒の霧へと変貌し、折れかけた刀身へと貪欲に絡みつく。
骸喰らいのガルム「目障りな羽虫がァッ! 纏めてミンチになれェ!」
レオン・ヴァルディス「死ぬ気で光を灯せ、偽りの聖女様!」
イリスの喉から掠れた悲鳴に近い呼気が漏れ、黄金の光粒子が両手の平から狂い咲く。
《全天聖障壁》
展開された六角形の光の盾とガルムの戦斧が真正面から衝突し、大地へ蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
破壊の衝撃波に耐えきれず、足元を支えていた数千トンの巨石が轟音を立てて崩壊を始めた。
二人の身体は、光の届かない漆黒の深淵へと吸い込まれていく。
落下する闇の只中、互いの生を繋ぎ止めるように絡み合う指先。
その真下では、無数の牙を生やした脈打つ巨大な石の顎(あぎと)が大きく口を開けて待ち構えていた。
第二章: 剥き出しの誓約

零下の冷気が素肌を苛烈に突き刺す深度七千メートル、紫色の水晶群が妖しい燐光を放つ湿った窪地。
薄い酸素に喘ぎながら、二人は震えを抑え込むように互いの体温を求め、身体を密着させていた。
トクン、トクンと暴走する心音が、重なる胸腔を通じて生々しく互いの骨を震わせる。
イリス・エルフィード「……離れなさい。無礼者……これ以上は、許しません……」
レオン・ヴァルディス「動くな。体温が逃げれば、三分で二人まとめて凍りつくぞ」
レオンの煤けた荒い指先が、イリスの剥き出しの太ももに刻まれた聖痕の縁を無遠慮になぞる。
びくりと、引き締まった腰のくびれが、冷気と熱気の間で痙攣するように跳ねた。
吐息が耳元を掠めるたび、イリスの白銀のまつ毛が小刻みに震え、瞳が潤んでいく。
レオン・ヴァルディス「教団の連中は、お前を神の器だの何だのと祭り上げて、道具としてしか見てねえな。その綺麗な体に消えない檻を嵌めて満足してやがったんだ」
イリス・エルフィード「貴方に……私の何が分かるというのです……! 祈ることしか許されなかった私の痛みが……!」
レオン・ヴァルディス「分かるさ。俺も世界に自分の爪痕を刻みたくて、泥を啜ってここまで落ちてきた救いようのねえクズだからな」
イリスの喉が小さく鳴り、拒絶の言葉が熱い吐息の中に溶けて消える。
イリス・エルフィード「……貴方も、独りなのですね。ずっと、この暗闇の中で」
触れ合う皮膚から伝わる熱が境界線を融解させ、張り詰めた孤独を暴いていく。
♥歪な温もりが肌の奥深くまで浸透し、凍えた魂をじくじくと焼き焦がした。[/Heart]
ドォンッ!
天井に群生する紫色の結晶が激しい衝撃波で共鳴し、鋭利な粉塵となって頭上から降り注ぐ。
頭上の裂け目を引き裂き、血と泥に塗れた巨体が地響きとともに降り立った。
骸喰らいのガルム「見つけたぞォ! 聖女の肉もクズの臓腑も、骨の髄まで貪り尽くしてやる!」
洞窟の壁面に刻まれた古代文字が青白く発光し、異物の侵入を感知した防衛機構が赤熱の光線を狂乱の如く乱射し始める。
第三章: 原初の陽光と魂の咆哮

世界の最底辺に位置する、歪んだ時空の墓場『原初の祭壇』。
無数に浮遊する星屑のような光粒が乱舞する中、全身を漆黒の鱗と棘で覆い尽くしたガルムが凶悪な咆哮を放つ。
レオンの佩刀は半ばから無残に砕け散り、口端から吐き出された鮮血が祭壇の石畳を赤く染めた。
骸喰らいのガルム「貴様らの矮小な冒険も希望も、全てはこの闇を満たす極上の餌だァッ!」
山をも砕く巨腕が横殴りに薙ぎ払われ、古代の石柱が爆音とともに粉々に破砕される。
血反吐を吐きながら膝をつくレオンの前に、引き裂かれた白銀の甲冑を自ら脱ぎ捨てたイリスが割り込んだ。
黄金の瞳からは恐怖も迷いも完全に消え去り、凛とした光が宿っている。
イリス・エルフィード「我が光は、神のためならず! この闇の果てを、彼と共に照らし出すためにあります!」
イリスはレオンの握る折れた刀身を、躊躇うことなく素手で強く握りしめた。
白磁の手のひらから滴り落ちる聖なる血が、刃に宿る深淵の呪気と混ざり合い、黒銀の螺旋を描いて天へと昇り詰める。
《原初創生・天絶閃》
レオン・ヴァルディス「俺たちの刻んできた足跡は――誰一人として喰わせはしねえッ!」
二人の祈りと呪詛がひとつに束ねられ、神話すら断ち切る絶対の刃となる。
黒銀の閃光が一瞬にして超空間を両断した。
ガルムの巨躯が中心から縦一文字に裂け、断末魔の絶叫とともに黒い灰となって霧散していく。
静寂が訪れた祭壇の中心が地鳴りとともに割れ、教団が数千年にわたり隠蔽し続けた『真の太陽の種』が黄金の脈動を放った。
限界を迎え、崩れ落ちるレオンの背を、血に濡れたイリスの柔らかな両腕が優しく、強く抱き止める。
イリス・エルフィード「……見なさい、レオン。私たちの光です」
祭壇から天へと伸びる光の階段の先には、教団の神話にも記されていない本物の蒼穹が、どこまでも果てしなく、どこまでも青く広がっていた。