第一章: 垂直一万尺の命綱
咆哮をあげる暴風が、鼓膜を容赦なく叩き割りにくる。足元を見下ろせば、底知れぬ闇がただただ口を開けて広がっていた。落下すれば、終わりだ。一万メートルの虚空を骨肉の塊となって擦り潰されるだけの、無慈悲な終焉。
レオ・アルディン「おいシェラ、手を離すなよ! 下を見るな、落ちたら虚空の底まで一万メートルだ!」
煤けた金髪を嵐に激しく乱し、レオは琥珀色の双眸をぎらつかせた。指先の感覚はとっくに凍てついて麻痺しているくせに、口元だけは飢えた野獣のように釣り上がっている。恐怖を塗り潰すための、歪な笑みだ。
シェラ・フォス「誰に口利いてんのバカレオ! ほどけそうなのはアンタのロープの結び目でしょうが!」
銀灰色の三つ編みを風に引き裂かれそうになりながら、シェラは碧眼を吊り上げて怒鳴り返した。背中に背負った身の丈ほどもある魔導大槌が、猛烈な突風に煽られて激しく揺れる。その重みが、彼女の細い手首に容赦のない負荷としてのしかかっていた。
ジリ、ジリと岩肌を削る金属音。
二人の命をかろうじて繋ぎ止めているハーネスの軋みへ、耳障りなノイズが割り込む。胸元の通信魔導具から、ひび割れた嗄れ声が響いた。
ガル・グレイヴ「……無線越しでもクソガキどもの怒鳴り合いが響くぜ。今すぐアンカーを打て。数分で天井の重力嵐が来るぞ」
かつてこの絶壁に挑み、全てを失って地上に蹲った老兵の警告。だが、若者の耳には届かない。
レオ・アルディン「退くわけねえだろガルのおっさん! ほら見ろよ、頭上の岩盤に亀裂が走ってやがる!」
皮膚が裂け、血肉の滲む指先を垂直の岩肌の割れ目に力任せにねじ込む。激痛など知るものか。爪が剥がれる鈍い感触を無視して、レオは爪先をわずかな突起に掛けた。全身の筋肉が断線寸前の悲鳴を上げている。だが、瞳の奥に宿る熱量だけは、吹き荒れる吹雪すら蒸発させんばかりに煮え滾っていた。
ガル・グレイヴ「坊主、命を捨てる気か! 三十年前の俺みたいになりてえのか!」
レオ・アルディン「足がすくむってことはよ、ここが世界の最前線って証拠だ!」
狂気に染まった少年の怒鳴り声に、シェラは奥歯をギリと噛み締める。恐怖で震えそうになる膝を、己の意志で力任せに壁へ叩きつけた。痛みが理性を引き戻す。
シェラ・フォス「……言っても無駄よおっさん。このバカの脳味噌には登る以外の機能がないの!」
シェラ・フォス「合わせなさいレオ! 一気に亀裂の芯まで駆け上がるわよ!」
呼応して蹴り出す足。その刹那、頭上の岩盤が異様な唸りを上げ、夜空を裂くような紫の放電が奔流となって天蓋の裂け目から噴き出した。
暴虐な重力のうねりが、天地を乱雑に掻き回す。岩壁に打ち込まれていた鉄の楔が、耐え兼ねて甲高い悲鳴を上げた。
破砕の衝撃。
シェラ・フォス「アンカーが……砕けたっ!?」
第二章: 重力嵐の告白

視界が上下逆さまにひっくり返る錯覚。宙に放り出されかけた身体を、シェラは反射的に捻った。背中の魔導大槌を力任せに引き抜き、両手で柄を握り直す。
シェラ・フォス「喰らいつきなさいよこの鉛槌ッ!」
ドゴォォォンッ!
全体重を乗せ、巨大な鉄塊を岩の裂け目へと渾身の力で叩き込む。火花が散り、衝撃がシェラの華奢な腕の骨を軋ませた。二人の命綱がピンと張り詰め、空中でレオの身体がブランコのように揺れる。
レオ・アルディン「あはは! 最高だな、重力が天に向かって引っ張ってやがるぜ!」
足元の虚空へ落ちるはずの風が、猛烈な勢いで頭上の裂け目へと吸い上げられていく。逆流する気流の中で、レオは恐怖を笑い飛ばすように喉を鳴らした。
シェラ・フォス「笑ってんじゃないわよ冒険バカ! 腕の筋肉が千切れそうなのよ!」
裂けたシェラの掌から赤い雫が散り、逆流する嵐に乗って天井へ向かって飛沫を上げて消えていく。手の皮がずるりと剥け、鉄の柄が自分の血で滑る。それでも指の力を緩めることなど、死んでもできなかった。
ガル・グレイヴ「……聞こえるか二人とも。三十年前、俺の隊が全滅したのはその嵐だ」
通信機から漏れる老人の声には、もはや怒りすら残っていなかった。乾ききった灰のような、底無しの絶望だけが横たわっている。
ガル・グレイヴ「そこから先は世界の外側なんかじゃねえ。神が決めた世界の行き止まりなんだよ」
息を切らし、血を滴らせながら、シェラは頭上を睨みつけた。紫電の嵐に照らされたその表情は、鬼気迫るものだった。
シェラ・フォス「行き止まり? 吠えないでよ過去の亡霊が!」
強がりを叫ぶシェラの瞳から、一筋の涙が風にさらわれて宙へ舞う。下を見れば、ロープの端で必死に岩肌へ爪を立てようとしているレオがいる。この無鉄砲な男を、こんな冷たい虚空で死なせるわけにはいかない。
シェラ・フォス「アンタが落ちる時は、私がアンタの首根っこをへし折ってからよ!」
レオ・アルディン「シェラ……!」
トクン、と胸が跳ねる。
互いの視線が、荒れ狂う嵐の真ん中で真っ向から衝突した。言葉にすればあまりにも陳腐で、口にすることすら恥ずかしい想い。だからこそ、シェラは剥き出しの怒号に変えて叫ぶ。
シェラ・フォス「アンタの夢を叶えるために、私は命綱を握ってんのよ! 跳びなさい、レオ!」
その刹那、岩壁にめり込んでいた大槌の根元から、不吉極まりない音が響いた。
ピキィン、と金属が断裂する甲高い悲鳴。
レオ・アルディン「槌の柄が保たねえ……二人とも落ちるぞッ!」
第三章: 天を砕く一撃

支えを失った瞬間、二人の身体は一万メートルの闇ではなく、荒れ狂う逆流の重力嵐に呑まれて頭上へと猛烈に吹き飛ばされた。自由落下ならぬ、天への墜落。
レオ・アルディン「シェラ、手を取れ! 空中で体を反転させる!」
レオは空中で身をよじり、流されるシェラの手首をがっしりと掴み取った。骨と骨が軋むほどの握力。
シェラ・フォス「握ったわ! 何をする気!?」
レオ・アルディン「槌の信管を全開にしろ! 俺の背中を足場に跳べ!」
嵐の中に舞い上がった浮遊巨岩の破片をレオは見逃さなかった。空中で宙返りを決め、ブーツの底に仕込まれたクライミングスパイクを巨岩の表面へと深々と蹴り込む。
ググッと沈み込むレオの両膝。彼は己の肉体そのものを、発射台の頑丈な土台へと変えた。背中を預けろ、と無言の咆哮が全身から放たれる。
シェラは一切の迷いを捨てた。裂けた両手で大槌の機関部を掴み、リミッターを限界まで押し込む。
シェラ・フォス「魔導過負荷、臨界点突破ッ!」
大槌の噴射口から、青白いプラズマの劫火が轟音とともに噴出する。その熱波がレオの背中を焦がそうと、少年は歯を食いしばって足場を支え切った。二人の呼吸が、鼓動が、一つの狂気へと完全にシンクロする。
レオ・アルディン「世界の限界がここだって言うなら――!」
シェラ・フォス「私たちが新しい世界を穿つだけよォッ!!」
レオの背を蹴り、シェラが天蓋へ向けて弾丸のように射出される。
《全推進爆砕撃》
推進剤を全て吐き出した大槌の頭部が、世界の天井を塞いでいた白銀の結晶障壁へと真っ向から激突した。
世界を揺るがす破砕音。
視界の全てを塗り潰す、圧倒的な白光。
刹那、すべての音が掻き消える。衝撃波が嵐を吹き飛ばし、硬質な天蓋が粉々に砕け散る破片となって、無限の光の中に溶けていった。
第四章: 青き虚空の果て
耳鳴りだけが、遠くでかすかに響いていた。荒れ狂っていた風の音が、嘘のように消え失せている。
静寂が、ゆっくりと世界を満たしていく。
ガル・グレイヴ「……おい、生きてるか……? 何が、見えた……?」
通信機から、息も絶え絶えな老兵の震え声が途切れ途切れに届く。息苦しさに胸を押さえながら、シェラはゆっくりと瞼を持ち上げた。
シェラ・フォス「青いわ……レオ。壁なんか、どこにもない……」
信じられない光景に、喉が引き攣る。
シェラ・フォス「空が……どこまでも続いてる……!」
その手から、役目を終えてひび割れた大槌が音もなく滑り落ちていく。落ちてはいかない。重力から解き放たれ、無音の虚空へとゆっくりと漂っていく鉄塊。
レオは隣で、息を呑んで立ち尽くしていた。
レオ・アルディン「おい見ろよシェラ、ガルのおっさん……すげえぞ」
少年の琥珀色の瞳に映り込んでいたのは、暗黒の帳の中に青く輝き、緩やかな弧を描く巨大な球体だった。そしてその背後に広がる、息を呑むほど濃密な無数の星々。
壁などなかった。天井など初めから存在しなかったのだ。
レオ・アルディン「俺たちの世界は穴蔵じゃねえ! 塔の外壁を登ってたんだ!」
通信機の向こうで、ガルの息が完全に止まる気配がした。三十年間、世界の行き止まりだと信じ込み、己の人生を呪い続けてきた男の魂が、根底から粉砕された瞬間だった。
ガル・グレイヴ「……何だと……? 俺たちがいたのは……星の外殻柱だと……?」
荒い息を吐きながら、レオは血まみれの手をシェラへと伸ばした。シェラもまた、震える指先を重ね合わせる。二人の指が固く絡み合い、冷え切った皮膚を通じて、互いの脈打つ確かな熱が流れ込んできた。
♥ドクン、と重なり合う心音。[/Heart]
レオ・アルディン「シェラ、次はあの光の球まで行くぞ!」
呆れたように息を吐き出しながら、シェラの頬に滲むのは隠しようもない紅潮と、眩しい笑顔だった。
シェラ・フォス「……ふふ、バカ言わないで。次は宇宙服が必要じゃない!」
頭上を覆うものは何もない。あるのはただ、吸い込まれそうなほどに深く、無限に広がる青と星屑の海。二人はしっかりと手を繋ぎ直すと、まだ誰も見たことのない世界の真ん中で、腹の底からの笑い声を響かせた。