第一章: 鼓膜の裏の咀嚼音
鳴神 詩織「ねえ佐久間さん、今すぐ警察を呼んで! 私の防音室の壁の中から、半年前に死んだはずのストーカーの『咀嚼音』が聞こえるの!」
黒髪ロングを振り乱し、目の下にどす黒いクマを刻み込んだ詩織が、汗ばんだ掌でスマートフォンを強く握りしめる。爪が画面のガラスに食い込み、白く変色していた。
佐久間 健太「落ち着きなよ、詩織ちゃん。疲れからくる幻聴だよ。その防音室は俺が設計した完全密室だ。虫一匹すら入れないよ」
スピーカーから漏れる佐久間の声は、ひどく平坦で温度がない。
鳴神 詩織「幻聴なんかじゃないわよ! 私、0.1デシベルのノイズも聞き分けるのよ!? ほら、バイノーラルマイクの感度を最大にするから聴いて……っ!」
黒いオーバーサイズのニットの袖口から、震える白い指が突き出される。呼吸が浅い。彼女は強迫的なまでの手つきでミキサーのフェーダーを一番上まで押し上げた。
チュパ、ジュルル……。
ヘッドホンの振動板を通した電子音ではない。頭蓋骨の内側、脳髄を包む膜の裏側から直接、生温かく粘着質な水音が反響した。
八代 零「……詩織さんの鼓膜、今日も美味しそうに震えてるね」
鳴神 詩織「ひっ……! 聴こえたでしょ!? 今、八代の声が……耳の軟骨を直接舐めしゃぶるみたいな音がしたでしょ!?」
喉の奥がひゅうと鳴り、唾液を飲み込むことすらできない。詩織は無意識に自らの両耳を掌で強く塞いだが、音は内側から響き続けていた。
佐久間 健太「……いや、何も聴こえないよ。詩織ちゃんの荒い息遣いだけだ」
嘘よ。ノイズを入れないで。私の鼓膜は、私だけのものよ……! なのに、なんで頭蓋骨の裏側がこんなに熱くて、背骨の芯がゾクゾクと粟立つの……!?
詩織は椅子の背もたれを蹴り倒し、素足で防音扉へと駆け寄った。冷たい金属のレバーを掴み、体重をかけてガチャガチャと必死にひねる。動かない。手首の骨が軋むほど力を込めても、ラッチはミリ単位の遊びすら見せなかった。
鳴神 詩織「あ、開かない……! なんで外側からロックされてるのよ!? 佐久間さん、助けて!」
首にかけていた高級ヘッドホンを乱暴にむしり取り、床へ叩きつける。それでも、肉を噛み潰すような湿った咀嚼音は止まらない。
その時、目の前に張り巡らされた黒い吸音スポンジが、ミシミシと繊維の裂ける音を立てた。壁が内側から、人間の頭部の形にボコッと大きく膨れ上がる。
第二章: 甘い罠と防音壁の胎動

鳴神 詩織「か、壁が……壁が呼吸してる……っ! 佐久間さん、早く鍵を開けてよ!」
後ずさりした詩織の踵が機材ラックにぶつかり、鈍い金属音が響く。壁に備え付けられたインターホンのモニターが、パッと青白く点灯した。
画面の向こうには、清潔なスーツを着こなした佐久間が立っている。彼は音響作業でできた自身の指先の硬いタコを親指で撫でながら、ふっと目元から優しさを消し去った。唇の端だけが、釣り針のように歪に吊り上がる。
佐久間 健太「開けるわけないだろ。お前を追い詰めるために、死んだストーカーの音声データを壁の振動スピーカーから流してるんだよ!」
鳴神 詩織「え……? なに、それ……あなたが仕掛けたの……!?」
思考が追いつかない。詩織は乾いた唇をわなわなと震わせ、モニターの中の男を凝視した。
佐久間 健太「最高の機材には、最高の『生音』が必要なんだよ。プライドの高い人気声優が恐怖で失禁しそうになりながら助けを乞う声……裏レートで何千万になるか! ほら、もっとリアルな悲鳴を聞かせろ!」
佐久間はマイクの入力レベルを示すメーターに視線を落とし、舌なめずりをする。完全な狂気。信頼していたエンジニアの仮面が剥がれ落ち、金と音に憑りつかれた醜悪なエゴが剥き出しになっていた。
鳴神 詩織「そんな……信じてたのに……っ! やめて、スイッチを切ってよぉ……!」
涙が視界を滲ませ、膝から力が抜けていく。
佐久間 健太「……あれ? おかしいな。俺、今スピーカーの電源を切ったぞ……?」
佐久間の指先がコンソールのスイッチを何度も弾く。だが、モニターに表示された音声波形は、人間の可聴域を超えた異常な赤いノイズで埋め尽くされていた。
直後、鼓膜が痛むほどの完全な無音が落ちる。
防音壁のパネルとパネルの継ぎ目、わずか五ミリの隙間。そこから、脂ぎった黒い髪の毛と、死蝋のように青白い指先がズルリと這い出してきた。
黒い太糸で無造作に縫い合わされた両目と、耳の下までパックリと裂けた口元。
ボキボキと逆方向に曲がった関節を鳴らしながら、ボロボロの黒いパーカーを纏った八代が、壁の隙間からアメーバのように肉体を絞り出す。腐敗臭と甘い体臭が混ざり合った異臭が鼻腔を突き、次の瞬間、彼の冷たい唇が詩織の無防備なうなじに直接這わされた。
八代 零「ひどいね、佐久間さん。僕の声を偽物扱いするなんて」
鳴神 詩織「ひっ、嘘、本物……!? やだ、近寄らないで……腰が、抜けて……っ」
逃げるための筋肉が完全に硬直し、詩織はその場にへたり込んだ。荒い呼吸のたび、胸元が大きく上下する。
八代 零「君の鼓膜の裏側、すごく温かいよ、詩織さん」
八代の裂けた口から、異様に長い舌がチロリと伸びた。そのざらついた舌先が、詩織の震える耳たぶから外耳道へと執拗に這い回る。ぬめり気を帯びた水音が脳内に直接反響すると同時に、防音扉の向こう側で、佐久間の喉が裂けんばかりの絶叫が響き渡った。
第三章: 鼓膜と頭蓋骨の交響曲

佐久間 健太「ぐあああっ! 頭が、頭蓋骨の中で何かが鳴ってる! 鼓膜が破れる、やめろぉっ!」
ベチャッ、と湿った破裂音。
防音扉に嵌め込まれた分厚い強化ガラスの向こう側で、佐久間の両耳と鼻孔からどす黒い鮮血が噴き出し、ガラス一面にべっとりと飛び散った。
鳴神 詩織「きゃあああっ! ち、血が……! 佐久間さんが……!」
詩織は床に手をつき、爪が剥がれるのも構わず後ろへと這いずった。
八代 零「詩織さんを傷つけるノイズは、全部消去しなきゃね。建物の配管ごと、あいつの脳髄を僕の声で共鳴させて潰しただけだよ」
ガラスの向こうで、佐久間の身体が糸の切れた人形のように白目を剥いて崩れ落ちる。ズルズルと血の軌跡を残して視界から消え、通路の赤い非常灯だけが規則正しく明滅を繰り返していた。
暗闇と鮮血のコントラストの中、冷たく湿った八代の両手が、ガタガタと震える詩織の頭を背後から優しく、しかし絶対に逃がさない万力のような力で抱え込んだ。
鳴神 詩織「いや、殺さないで……私の聖域に、入ってこないでよぉ……っ!」
首を振ろうとしても、頭蓋骨を固定されて一ミリも動かせない。
八代 零「殺すわけないだろ? ほら、聴こえる? 君の心臓の音……僕が同じリズムで鳴らしてあげる」
ドクン、ドクン。耳元で、詩織の跳ね上がる心音と完全にシンクロした、深く甘いバリトンボイスが響く。
空気の振動ではなく、頭蓋骨を直接タッピングされるような重低音。
鳴神 詩織「ひっ、あぁ……っ! なにこれ、頭の中が、直接撫でられてるみたい……っ♥」
だめ、拒絶しなきゃいけないのに……! 私の内臓の収縮音まで全部この人に把握されて、支配されてる……なのに、なんで下腹部の奥がこんなに熱く疼いて、気持ちいいの……っ!
恐怖で引きつっていたはずの詩織の唇から、熱い吐息が漏れ出す。無意識のうちに、彼女の指先は八代のボロボロのパーカーの袖をギュッと掴んでいた。
八代 零「ほら、嘘つかないで。君の心音も、震える喉仏も、僕の声をもっと欲しがってトロトロに溶けてるよ?」
鳴神 詩織「やだぁ……っ、耳の奥、そんなに深くまで指を入れないで……! 脳が、揺れるぅ……っ♥」
八代の青白い指先が、唾液で濡れた耳の穴へと深く侵入していく。鼓膜のすぐ手前を引っ掻かれ、三半規管を直接揺さぶる骨伝導の凄まじい振動。詩織は背中を弓なりに反らせ、甘い悲鳴を上げながら、視界がチカチカと激しく明滅する極彩色の絶頂へと突き落とされていった。
第四章: 永遠のバイノーラル録音
【新規音声アップロード完了:『極限の心音・骨伝導ララバイ』】
赤い録音ランプが静かに灯る、密閉された防音ブース。主を失ったはずの空間で、最高級のヴィンテージマイクだけが微かな電流音を立てて生きている。
引き剥がされた防音壁の黄色い断熱材と、八代の痩せぎすな肉体。その隙間に半ば融合するように埋め込まれた詩織が、焦点を失ったうつろな瞳で、熱っぽく頬を染めていた。
鳴神 詩織「んっ、はぁ……ねえ、零くん……もっと、私の頭蓋骨の中で鳴って……っ♥」
詩織は自らの耳を八代の胸元に押し付け、彼の肋骨の隙間から響く心音を貪るように聴き入っている。
八代 零「うん、ずっと一緒だよ、詩織さん。君の嚥下音も、涙が頬を伝う音も、全部僕だけのものだ」
鳴神 詩織「あぁ、すごい……零くんの声が、私の鼓膜を内側から食べてる……もう、外の音なんて何もいらないわ……♥」
垂れ落ちた涎が顎を伝うのも構わず、詩織は恍惚と微笑む。プロの声優としての矜持も、外界への未練も、すべては心地よい重低音の振動によってどろどろに融解していた。
八代 零「もう外の汚いノイズは何も聴こえないように、君の鼓膜、僕が内側からぜんぶ塞いであげるからね」
黒い糸で縫い合わされた目の下で、裂けた口元が妖しく弧を描く。八代は詩織の耳の穴へ深く唇を押し当て、己の呼気と声を直接流し込むように濃厚な口づけを交わした。
壁の断熱材の中で二つの肉体が隙間なく溶け合う粘着質な水音と、完全に一つに重なり合った心音だけが、高感度のバイノーラルマイクへと永遠に吸い込まれていく。
鳴神 詩織「んぁ、あぁっ……ずっと、私の防音室でいてね、零くん……っ♥」
その時。
詩織を抱きしめていた八代の首だけが、ミシリと乾いた音を立てて、真後ろへと百八十度ねじれた。
縫い合わされた両目が、血塗れのバイノーラルマイクを正確に捉える。彼はゆっくりと、マイクの集音部へ青白い唇を寄せた。
ザザッ――。
鼓膜を直接撫で回すような、生温かい吐息があなたの耳の奥へと吹き込まれる。
八代 零「――ねえ、今これをイヤホンで聴いてる君。君の部屋の壁の中、本当に誰もいないと思う?」
コン、コン。
すぐ後ろの壁から、誰かが内側から爪を立てる音が響いた。