第一章: 死者の声帯が鳴る診察室
九条 環「ねえ、律くん。お姉さんの声帯って、すごく甘くて、柔らかい音がするのよ」
鼻腔を突き刺すホルマリンの刺激臭と、鉄錆びた血の匂いが混ざり合う旧解剖実習室。腰まで届く濡れ羽色の黒髪を揺らし、赤黒い返り血が飛び散ったビニールエプロン姿の九条環が、うっとりと唇の端を吊り上げる。
無造作に伸びた黒髪の下、慢性的な睡眠不足でどす黒い隈を宿した三白眼の青年――冬月律は、呼吸を詰まらせた。汚れが染みついた古いグレーのパーカーの胸元で、氷のように冷え切った指先が高感度マイクのグリップを白くなるほど握りしめる。
冬月 律「……何言ってんだよ、環さん。半年前に失踪した姉さんが、なんで、こんな場所にいるわけないだろ」
低く唸るような声とは裏腹に、律の奥歯はギリ、と乾いた音を立てて噛み締められていた。視線を逸らすまいと睨みつけるものの、喉の奥がひりついて唾液すら飲み込めない。
九条 環「いるわよ。ずっとここ、私の真ん中にね」
環の白魚のような指が、自身の首元に貼られた分厚いガーゼの端を摘まむ。ベリ、と皮膚から粘着テープが剥がれる生々しい音が室内に響いた。
純白のブラウスの襟元から露わになったのは、赤黒くミミズ腫れのように盛り上がり、黒いナイロン糸が幾重にも食い込んだ真新しい縫合痕。
冬月 律「なっ……なんだよ、その傷……!」
一歩、無意識に後ずさる。靴底がリノリウムの床を擦り、キュッと甲高い音を立てた。
九条 環「ほら、あなたのマイクを向けてごらんなさい。お姉さんが、律くんに挨拶したがっているわ」
拒絶しなければいけない。今すぐこの狂った女を突き飛ばして部屋を出るべきだ。なのに、音に取り憑かれた律の右手は、まるで 보이지 않는 糸に引かれるように震えながら指向性マイクを彼女の喉元へと向け、左手がヘッドホンのイヤーパッドを片耳へ強く押し当てていた。
環の白い喉仏が、ゆっくりと上下する。ゴクリ、と粘り気のある唾液を飲み込む湿った音が、マイクの極薄の振動板を揺らし、ケーブルを伝って律の鼓膜を直撃した。
冬月 沙耶「……律。会いたかったよ、律」
息が止まる。心臓が肋骨を内側から蹴り上げた。
鼓膜を貫く、完璧な倍音。
嘘だろ。毎晩、擦り切れるほど録音データで聴き続けた、姉さんの声帯の摩擦音と、1ヘルツも狂ってない……!
空気の抜け方、母音のわずかな揺らぎ、舌が上顎を弾く微細なクリック音に至るまで、すべてが冬月沙耶そのものだった。
冬月 律「ひっ……あ、姉さん……? なんで、環さんの喉から、姉さんの音が鳴るんだよ!?」
裏返った悲鳴が漏れる。膝から力が抜け、視界がぐらりと揺れた。
九条 環「静かにして、律くん。お姉さんの他のパーツも、今見せてあげるから」
環がステンレスの解剖台に歩み寄り、かけられた白いシーツの端を掴んで勢いよく引き剥がす。
バサリ、と布が舞う音。冷たい蛍光灯の光を浴びてそこに並んでいたのは、肉をすべて削ぎ落とされ、美しく漂白された一個の頭蓋骨と、緩やかな弓なりを描く一対の白い鎖骨だけだった。
第二章: 骨を舐める女と共犯の記録

冬月 律「貴様が、姉さんを殺して奪ったのか!!」
血管が浮き上がるほど咆哮し、律は脇のステンレストレイに置かれていた解剖用のメスをひっ掴むと、獣のように床を蹴って環へ飛びかかった。
銀色の刃が蛍光灯の光を弾く。だが、環は一歩も逃げない。それどころか、解剖台の上の白い鎖骨を、まるで生まれたての赤子でもあやすかのようにうっとりと胸に抱き上げた。
九条 環「殺すなんてとんでもない。私たちは愛し合って、ひとつに混ざり合ったのよ……んっ」
振り上げた律の腕が、空中で凍りつく。
環は赤い唇を半開きにし、濡れて光る舌先をゆっくりと伸ばすと、漂白された沙耶の鎖骨の窪みを、下から上へと艶めかしく舐め上げたのだ。
ザラリ、と。多孔質の乾いた骨の表面と、唾液をたっぷりと含んだ熱い舌が擦れ合う微細な摩擦音。それが律の握る高感度マイクに拾われ、ヘッドホンの中で何十倍にも増幅されて、彼の脳髄を直接撫で回した。
やめてくれ……! なんで、こんな異常な音で、俺の背筋がゾクゾクしてんだよ……!
鳥肌が腕から首筋へと駆け上がる。吐き気と背中合わせの、暴力的なまでの音響的快楽に、律の呼吸が浅く、速くなっていく。
冬月 律「やめろ……姉さんの骨を、その汚い舌で、舐めるなよ……っ!」
絞り出した声は、怒りよりも懇願に近い響きを帯びて震えていた。
九条 環「汚くないわ。これ、お姉さんからの遺言よ。聴いてごらんなさい」
環は鎖骨から唇を離し、糸を引く唾液を指先で拭うと、ビニールエプロンのポケットから血の染みついた古いICレコーダーを取り出した。カチリ、と再生ボタンが押される。
ザァァ……というホワイトノイズの奥から、荒い呼吸音と、ステンレスの医療器具が触れ合う高い金属音が響き渡った。
冬月 沙耶「……環、麻酔はしないで。もっと深く切って。私の声帯を、そのままあなたの喉に縫い付けて」
激痛に歯を食いしばりながらも、どこか恍惚とした姉の肉声。
冬月 律「え……? 姉さん、の、声……?」
冬月 沙耶「私が死んで、骨と声だけになれば、あの音フェチの律は、一生私以外の女を愛せなくなるでしょう? ねえ、私の声で、律の鼓膜を一生犯してあげるの」
グチュ、と肉が裂ける湿った音と、甘い吐息。プツン、とそこで録音データは途切れた。
律の指先から力が抜け、握りしめていたメスが滑り落ちる。カラン、カラン、とリノリウムの床で乾いた金属音が虚しく反響した。
ストーカーに殺されたんじゃなかったのかよ……。姉さんが、自分で……俺を縛るために、自分の喉を抉り出したのか……!?
胃の腑がせり上がるような悍ましさと、胸の奥を焼き焦がすような歪んだ歓喜が同時に押し寄せ、律は自分の唇を血が滲むほど強く噛み締めた。
九条 環「ねえ、律くん。お姉さんの声帯が、直接あなたに舐めてほしいって、私の奥で暴れてるのよ」
環が自らの首の赤黒い縫い目に赤い爪を立て、大きく開いた口から、挑発するように濡れた舌を突き出した。
第三章: 喉奥の聖餐

冬月 律「嘘だ、こんなの狂ってる! 姉さんが、そんなことするわけないだろ!!」
律は両手で頭を抱え、崩れるように冷たい床へと膝をついた。だが、片耳に引っかかったままのヘッドホンからは、マイクが拾い続ける環の荒い吐息と、喉奥の粘膜が鳴る音が、逃げ場のない爆音となって鼓膜へ流れ込んでくる。
コツ、コツ、と環の靴音が近づく。彼女は律の目の前にしゃがみ込み、小刻みに震える彼の無造作な黒髪を優しく梳きながら、あの甘美な倍音を響かせた。
冬月 沙耶「律、私の声が好きでしょう? ほら、怖がらないで。ここに、私たちがいるよ」
冬月 律「あ……っ、あああ……! 姉さん、姉さんの音だ……っ!」
瞳孔が限界まで開く。拒絶しようとしていた言葉は、喉の奥で熱い喘ぎへと変わっていた。
九条 環「ええ、そうよ。ほら、お姉さんの喉の奥、お姉さんの味がするでしょう?」
環は律の後頭部を両手で強く抱き寄せ、赤黒い手術痕が痛々しく走る自らの首筋に、律の乾いた唇を無理やり押し当てた。
鼻腔を満たす、消毒液と鉄錆びた血、そして女特有の甘い汗の匂い。
ドクン、ドクンと激しく脈打つ環の頸動脈。
その熱い皮膚のすぐ裏側で、移植された姉の声帯が微かに震え、粘膜同士が擦れ合う極上の摩擦音が、唇の皮膚を通じて律の頭蓋骨へと直接響き渡る。骨伝導で脳を揺さぶる、死者と生者の二重奏。
ああ、ダメだ。視界が明滅する。姉さんの生体音だ。世界中で、これだけが本物の音だ……!
冬月 律「静かにしろよ……っ。今、一番いい音が、鳴ってるんだから……!」
律の三白眼から熱い涙がボロボロと溢れ落ち、最後の理性の防壁が音を立てて崩れ去った。
彼は痙攣する右手で高感度マイクを環の喉元のすぐ横に強く押し当て、左手で彼女の腰まである黒髪を乱暴に鷲掴みにすると、赤黒く盛り上がった縫合痕を、自らの舌で下から上へと激しく舐め上げた。
九条 環「ひゃあ……っ♥ ああ、律くんの舌、熱い……っ! 縫い目が解けて、お姉さんが飛び出しちゃうわ……!」
ザラついたかさぶたと、硬いナイロン糸の感触。その隙間から滲み出る生温かい体液の塩気が、律の舌の上で広がる。
冬月 律「もっと鳴らせよ……! 姉さんの声帯で、俺の耳を、全部壊してくれよ……っ!」
憑りつかれたように呻き、律が盛り上がった傷口に歯を立てて、獣のように強く吸い上げた、その瞬間。
プツリ、と。皮膚を繋ぎ止めていた黒い縫合糸が弾け飛んだ。
熱い鮮血が律の唇と顎を真っ赤に濡らし、裂けた傷口からヒュウと空気が漏れる摩擦音とともに、今まで聴いたどんな録音よりも澄み切った、美しきソプラノの絶叫が診察室に響き渡った。
第四章: 永遠の録音ブース
冬月 律「……痛くないか、姉さん、環さん。今、最後の糸を結ぶからな」
ブラインドの隙間から、白々とした夜明けの青い光が埃の舞う室内に差し込んでいる。律は血に濡れた指先で医療用の持針器を驚くほど器用に操り、環の首元の裂けた皮膚へ、新しい彎曲針を突き通していく。
皮膚を貫くプツ、という微かな音すらも、胸ポケットに挿したマイクが確実に拾い上げていた。ステンレスの解剖台に腰掛けた環は、血の滲む首筋を無防備に晒したまま、うっとりと熱に浮かされたように目を細めている。
九条 環「ええ、全然痛くないわ。あなたの指先、とっても優しいもの」
冬月 沙耶「上手だよ、律。これでまた、いつでも私とお話しできるね」
一つの喉仏が上下するたび、交互に紡ぎ出される二人の女の声。その歪で完璧なハーモニーをヘッドホンで堪能しながら、律はピンと張った黒い糸をハサミで切り、血のついたピンセットをトレイに置いた。
彼の古びたジーンズの膝の上には、美しく漂白された沙耶の頭蓋骨が、まるで壊れ物の楽器のように両腕で大切に抱えられている。
冬月 律「ああ。もう、どこにも行かないよ。街の汚い雑音なんかひとつもないこの部屋で、ずっと、三人で暮らそう」
隈の消えない三白眼には、もはや迷いも恐怖もなく、底なしの暗い열愛だけが静かに揺らめいていた。
九条 環「ふふ、素敵。ねえ、私の鎖骨もいつかこんなふうに真っ白くなったら、お姉さんの隣に並べて、あなたの舌で舐めてくれるかしら?」
冬月 律「気が早いっての。まずは、その喉が完全に肉と馴染むまでの音を、1秒も残さず全部記録するのが先だろ」
律は傍らのレコーダーの録音ボタンを深く押し込み、暗がりの中で赤いピークランプが点灯したのを確かめる。
そして、膝の上の白い頭蓋骨の冷たい頬を、指の腹で愛おしそうに撫でながら、環の縫合されたばかりの生々しい喉元へ、自らの耳をピタリと重ね合わせた。
九条 環「……んっ」
消毒液の匂いが立ち昇る生温かい皮膚の奥で、ゴクリ、と。血と唾液が混ざり合った、甘美で重たい嚥下音が鳴り響く。
鼓膜を震わせるその至上のノイズに、律は恍惚と目を閉じ、血の乾いた唇でマイクの風防にそっと口づけた。
冬月 律「……最高だよ、姉さん。さあ、今日の最初の音を録ろうか」