第一章: 37.8度の架空計上
九条 玲子(くじょう れいこ)「この三億円の横領、あなたの単独犯ですね、相馬くん」
深夜零時の特別監査室。カチリ、と硬質なボールペンのノック音が密室の空気を裂く。
黒髪をタイトなシニヨンに結い上げ、銀縁の細フレーム眼鏡をかけた九条玲子がデスクの向こうに立っている。チャコールグレーのパンツスーツに身を包み、ブラインドが完全に下ろされた部屋で、デスクライトの白い光だけが散乱する領収書の山を照らし出していた。
相馬 湊(そうま みなと)「ええ、俺がやりました。すいません、全部俺のミスです」
くたびれたワイシャツに緩めたネクタイ。相馬湊は徹夜続きの薄いクマが浮かぶ目元を下げ、自嘲気味に口角を上げた。
少し癖のある黒髪が揺れる。彼は手錠を待つ囚人のように、両手を揃えて前へ突き出した。
相馬 湊(そうま みなと)「警察に突き出してくださいよ。俺の人生なんて、最初から雑損処理でいいんですから」
九条 玲子(くじょう れいこ)「……却下します」
玲子の細い眉がピクリと跳ねる。
彼女は右手にはめた白い綿手袋の親指を、自らの白い歯で強く噛んだ。
ギリ、と繊維が軋む。そのまま首を振り、手袋を乱暴に引き抜いた。
相馬 湊(そうま みなと)「九条さん……?」
デスクを回り込み、革靴のヒールを鳴らして湊の正面へ迫る。
素手の冷たい指先が、湊の顎を乱暴に掴み上げた。
九条 玲子(くじょう れいこ)「嘘をおっしゃい。あなたが自分の欲望のために金を使う人間なら……」
左手に持った架空計上の領収書を、湊の無精髭がうっすらと浮く頬へ強く擦りつける。
カサリ。乾いた感熱紙が肌を削る音。
九条 玲子(くじょう れいこ)「この感熱紙に、こんなにも悲痛で甘い脂汗は滲まない……!」
相馬 湊(そうま みなと)「っ……近いですよ、九条さん」
湊の喉仏がゴクリと上下に跳ね、視線がわずかに泳ぐ。
玲子の銀縁眼鏡の奥で、黒い瞳孔が異様なほどに開いていた。彼女は湊の頬に押し当てた領収書を自らの鼻先へ寄せ、肺の奥まで深く息を吸い込む。
インクの乾き具合、紙の繊維の歪み……間違いないわ。
九条 玲子(くじょう れいこ)「この領収書、37.8度の微熱が記載漏れですよ」
空いた右手が、湊のワイシャツの袖口へ滑り込む。
白く細い指先。彼の手首の動脈を、爪が食い込むほど直接押さえつけた。
ドクン、ドクンと跳ねる熱い脈拍が、彼女の指先から脳髄へと駆け上がる。
九条 玲子(くじょう れいこ)「心拍数、毎分百二十八……。私欲で横領する人間の脈ではありません」
相馬 湊(そうま みなと)「ただのカフェイン中毒っすよ。コーヒー飲みすぎただけです」
湊はわざとらしく肩をすくめ、乾いた唇を舌先で湿らせた。
九条 玲子(くじょう れいこ)「いいえ、これは誰かを庇って自滅しようとする人間の、自己犠牲の摩擦熱です……っ」
玲子の吐息が熱を帯び、湊の首筋に吹きかかる。
手首を握りしめたまま、彼の胸元へ自らの身体を密着させた。スーツ越しに伝わる彼女の乱れた心音。
九条 玲子(くじょう れいこ)「言いなさい、相馬くん。あなたは誰の罪を償却しようとしているのですか……?」
直後。監査室の重いドアが、ノックもなしに乱暴に開け放たれた。
黒須 恒一(くろす こういち)「そこまでだ。夜遅くまでご苦労だな、九条監査官」
オールバックに撫でつけた髪を光らせ、高価なオーダースーツを纏った財務部長の黒須恒一が足を踏み入れてくる。
手首で金無垢の高級腕時計がギラリと光る。その分厚い手には、警察への通報記録のコピーが握られていた。
黒須 恒一(くろす こういち)「相馬くん、君の単独犯行として社内処理が完了したよ。さあ、警備員が下で待っている」
第二章: 二重帳簿の脈拍

黒須は粘りつくような笑みを浮かべ、デスクの上に一束の書類を放り投げた。
目は一切笑っていない。爬虫類のような冷たい視線が湊を射抜く。
黒須 恒一(くろす こういち)「相馬が違法カジノの借金のために三億円を横領した。口座の送金履歴も全て揃っている」
相馬 湊(そうま みなと)「……はい。部長の言う通りです。すいませんでした」
湊は抵抗しない。玲子の手から自らの手首をゆっくりと引き抜いた。
指先が離れる瞬間、彼のまつ毛が微かに震える。床に落ちた領収書を一瞥もせず、入り口の黒須へ向かって歩き出した。
黒須 恒一(くろす こういち)「君、自分の市場価値を分かっているのかね? クズが会社の金を食い潰しおって」
黒須の太い指が湊の肩を掴もうとした、その刹那。
カツン、と鋭い靴音が部屋に響く。
九条 玲子(くじょう れいこ)「却下します!」
玲子が湊のワイシャツの胸元を背後から掴み、力任せに自分の側へと引き戻した。
パチン。プラスチックのボタンが一つ弾け飛び、リノリウムの床に乾いた音を立てて転がる。
黒須 恒一(くろす こういち)「なっ……何をするか、九条くん! 証拠は完璧だぞ!」
九条 玲子(くじょう れいこ)「この男の筆圧には、ギャンブル狂特有の浅ましい震えが1ミリもありません!」
玲子はデスクの上の偽造された送金伝票を指先で弾いた。
九条 玲子(くじょう れいこ)「黒須部長、あなたが提出したこの伝票……インクの定着が浅すぎる。作成されたのは今日ですね?」
黒須 恒一(くろす こういち)「ば、馬鹿なことを言うな! 私は財務部長だぞ!」
九条 玲子(くじょう れいこ)「ええ。そしてこの三億円の本当の流用先は、違法カジノなどではない」
玲子は湊の開いた胸元に視線を落とし、彼の鎖骨の下で脈打つ血管を凝視した。
すべて繋がったわ。この男が隠していた二重帳簿のコード番号……。
九条 玲子(くじょう れいこ)「三億円は、十年前に私の父……元会長が行った粉飾決算の『口止め料の補填』として使われた。違いますか?」
黒須の顔から、スッと血の気が引いた。顎の筋肉が硬直する。
黒須 恒一(くろす こういち)「き、貴様……なぜそれを……!」
九条 玲子(くじょう れいこ)「あなたが父の過去の不正をネタに会社を脅迫し、資金を引き出していた。そして監査が入った途端、相馬くんに全ての罪をなすりつけたのですね!」
玲子は振り返り、湊の緩んだネクタイを両手で強く握りしめた。
眼鏡の奥の瞳が潤み、視界がわずかに歪む。
九条 玲子(くじょう れいこ)「相馬くん! あなたは私の父の不祥事を隠すために……私の特別監査官としてのキャリアを守るために、泥を被ろうとしたのですね!?」
玲子の白い指先が、湊の胸元で小刻みに震える。浅く速い呼吸が、二人の間の空気を揺らした。
九条 玲子(くじょう れいこ)「答えなさい! なぜそこまでして私を守るのですか!」
湊はうつむいたまま、ゆっくりと肩を揺らした。
クク、と喉の奥から漏れる低い笑い声。
徹夜続きのクマが浮かぶ顔を上げた時、いつもの気弱な笑みは跡形もなく消え去っていた。
相馬 湊(そうま みなと)「守る? 勘違いしないでくださいよ、九条さん」
一切の感情が消え失せた、氷のように低く冷たい声が密室に落ちる。
湊の瞳の奥に宿る、底知れない黒い狂気。
相馬 湊(そうま みなと)「俺はあなたを、地獄へ引きずり下ろすためにここにいるんだ」
第三章: 共犯者たちの決算報告

窓の外で、突如として激しい雷雨がガラスを叩き始めた。
部屋の隅で稼働しっぱなしのシュレッダーが、ジジジ、と不気味なモーター音を響かせている。
九条 玲子(くじょう れいこ)「私を……地獄へ……?」
湊は自分の胸元を掴む玲子の手首を、骨が軋むほどの強い力で握り返した。
相馬 湊(そうま みなと)「十年前、あなたの父親が起こした粉飾決算。その身代わりにされて首を吊った下請け社長の名前、覚えてますか?」
九条 玲子(くじょう れいこ)「まさか……相馬製作所の……っ」
玲子の息が詰まる。
相馬 湊(そうま みなと)「そう、俺の親父ですよ。俺はあなたの一族を憎み、あなたを破滅させるためにこの会社に潜り込んだ」
湊は一歩踏み出し、玲子をデスクの縁へと追い詰めた。逃げ場はない。
彼の荒い吐息が、玲子の眼鏡のレンズを白く曇らせる。
相馬 湊(そうま みなと)「なのに……なんだよ、あなたは! 夜な夜な監査室に閉じこもって、他人の嘘の領収書を抱いて泣くような、そんな孤独な狂人だったなんて……!」
九条 玲子(くじょう れいこ)「相馬、くん……」
相馬 湊(そうま みなと)「俺の復讐は全部狂ったんだ! こんな薄汚い豚にあなたが脅されて汚されるくらいなら……!」
湊は黒須を一瞥もせず、玲子の肩を抱き寄せた。下唇を強く噛み締め、滲んだ血の味が彼の言葉を熱く濁らせる。
相馬 湊(そうま みなと)「俺が全ての罪を被って消えてやる! あなたの中に、一生消えない『三億円の負債』として傷跡を残してやりたかったんだよ!」
窓の外で閃光が走り、轟く雷鳴が部屋の空気をビリビリと震わせる。
玲子の脳内で、数字と論理で組み立てられた計算回路が音を立ててショートした。
瞳から大粒の涙が零れ落ち、湊のワイシャツに熱い染みを作る。
黒須 恒一(くろす こういち)「は、ははっ! 動機はどうあれ、相馬が罪を認めたぞ! 九条くん、父親の罪を暴かれたくなければ、こいつを警察に――」
九条 玲子(くじょう れいこ)「お黙りなさい、害虫」
涙を流したまま、絶対零度の声で黒須の言葉を遮った。
彼女はスーツの内ポケットから小型のボイスレコーダーと一冊の黒い手帳を取り出し、デスクに叩きつける。ダン、と重い音が響いた。
九条 玲子(くじょう れいこ)「黒須部長。あなたが脅迫で得た三億円を、ケイマン諸島の個人口座へ私的流用した裏帳簿です。今の自白も全て録音しました」
黒須 恒一(くろす こういち)「なっ……!? なぜその手帳がそこに……金庫に入れておいたはずだ!」
相馬 湊(そうま みなと)「あなたの金庫の暗証番号、愛人の誕生日じゃないですか。帳簿のすり替えなんて、俺の特技ですよ」
湊が冷ややかな声で言い放つ。黒須は顔面を蒼白にし、ガクガクと膝を震わせて床へ崩れ落ちた。
黒須 恒一(くろす こういち)「ま、待ってくれ九条くん! これを公表すれば、君の父親の罪も世間にバレるんだぞ!?」
九条 玲子(くじょう れいこ)「構いません。私の目の前から、あなたのその不快な脂汗の匂いを今すぐ消しなさい」
玲子が内線電話のボタンを押し、待機していた警備員に黒須の拘束を命じる。
見苦しく命乞いを叫ぶ黒須が引きずり出されていく。バタンと扉が閉まり、監査室には再び重い静寂が落ちた。
相馬 湊(そうま みなと)「……よかったんですか、九条さん。これであなたの父親の罪も表に出る。特別監査官としてのあなたも、もう終わりだ」
玲子は何も答えない。ただ無言でドアの前へと歩み寄った。
カチャリ。内側から冷たい金属の鍵が閉まる音。
振り返った玲子の顔には、すべての枷から解き放たれた恍惚の笑みが浮かんでいた。
第四章: 償却不能の愛
夜明け前の蒼い光が、ブラインドの隙間から細い刃のように差し込んでいる。
完全にロックされた密室。玲子は自らの銀縁眼鏡を外し、デスクの上に置いた。
九条 玲子(くじょう れいこ)「父の不正も、黒須の罪も、すべて私が公表します。私はもう、特別監査官ではありません」
一歩ずつ湊へ歩み寄る。足元に落ちていた白い領収書を、革靴のヒールで容赦なく踏みつけた。
湊の喉が小さく鳴り、視線がそのヒールに釘付けになる。
玲子は湊の緩んだネクタイの先端を掴み、ぐっと自分の方へと引き寄せた。
九条 玲子(くじょう れいこ)「相馬くん。あなたが私に背負わせようとした三億円の負債……」
背伸びをし、湊の汗ばんだ首筋に自らの唇を直接押し当てる。
♥熱い肌と肌が触れ合い、二人の脈拍が一つに重なる。[/Heart]
九条 玲子(くじょう れいこ)「いいえ、あなたのその破滅的な人生そのものを、私の個人資産として永久に差し押さえます」
相馬 湊(そうま みなと)「九条、さん……」
九条 玲子(くじょう れいこ)「もうどこへも逃がしません。あなたの嘘も、微熱も、脈拍も……一円残らず、私だけが監査してあげます」
玲子の白い指が、湊のワイシャツの残ったボタンを次々と外していく。
湊はふっと観念したように熱い息を吐き出し、彼女の細い腰を両腕で乱暴なほど強く抱き寄せた。
相馬 湊(そうま みなと)「……かなわないな。全部お見通しってわけですか」
湊の唇が、玲子の耳たぶを甘く食む。
九条 玲子(くじょう れいこ)「っ……当たり前です。あなたの脈は、最初から私にだけ嘘をついていた……」
全身を駆け巡る熱に玲子の背中が小さく跳ね、甘い吐息が漏れる。
湊は片手で玲子のシニヨンを留めていたピンを抜き取り、艶やかな黒髪を肩口へと解き放った。
そのまま、彼女の背中に回したもう片方の手で、ポケットから一枚の白紙の領収書を取り出す。
あなたを法と数字の呪縛から引きずり下ろし、俺だけの共犯者にする。
この監査室での自白も、流した汗も、跳ね上がる脈拍すらも。すべては潔癖な彼女に『自分の毒』を植え付け、道連れにするために湊が仕組んだ完璧な誘導尋問。
湊の指先で裏返された領収書には、最初から、寸分の狂いもなく模倣された『九条玲子』の承認サインが万年筆で記されていた。
玲子の瞳に溺れる湊の口元が、彼女の死角で、ぞっとするほど深く歪む。
相馬 湊(そうま みなと)「監査完了ですね、玲子さん。……さあ、俺たちの最初の不正を始めましょうか」
散乱する紙片の海の上へ、二人の重なり合ったシルエットがゆっくりと沈み込んでいった。