第1章:泥濘に咲く毒の花

猛烈な豪雨が、川崎の錆びついた廃工場街を容赦なく叩き、視界のすべてを漆黒に塗り潰していく。
かつて火を噴いていたクレーンの巨体は、今や巨大な恐竜の骨のように無残にうごめくだけ。
トタン屋根を激しく叩く雨粒が、まるで断末魔の叫びのような、耳障りな金属音を周囲に響かせていた。
氷室司は、泥水と油膜にまみれたトレンチコート of 襟を深く立て、路地裏の湿ったコンクリートの影に身を潜める。
無精髭を生やした乾いた口元から、安タバコの煙が不格好に吐き出され、冷たい雨に混じって白く、そして弱々しく立ち上った。
首元に深く刻まれた、あの凄惨な夜の記憶。
引き裂かれたような醜い手術痕が、凍てつく冷気を吸い込むたび、ナイフを突き立てられた時のようにずきずきと激しく疼く。
光を失った冷酷な三白眼が、ただ無言で、闇のさらに奥を見据えていた。
その瞬間、濁流のような雨音を鋭く引き裂いて、何かが近づく気配を察知する。
水たまりを激しく蹴立てて走る、焦燥に駆られた不安定な足音。
街灯の、かすんで歪んだオレンジ色の光の中に飛び出してきたのは、純白の実験用白衣を身にまとった女だった。
艶やかな黒髪のロングヘアは雨を吸って皮膚にねっとりと張り付き、知的で細いシルバーフレームの眼鏡が、走る激しい振動で今にも落ちそうなほどにずれている。
彼女の指先は、胸元に必死で抱え込んだアタッシュケースの取っ手を、指関節が白くなるほどに強く締め付け、異様なほど激しく震えていた。
[A:敷島 玲奈:恐怖]「はぁ、はぁ……っ、誰か……誰かいないの……っ!」[/A]
背後から迫る、エンジン音を殺した黒いセダン。
容赦なく放たれたヘッドライトの凶暴な白い光が、彼女の華奢な全身の輪郭を、生贄を定めるように白々と照らし出す。
氷室は何も言わず、猫背の体躯を鋼のばねのように一気にしならせ、路地裏から飛び出した。
飛び散る泥水をいとわず、獲物を捕らえる獣のように女の細い手首を強引に掴み取る。
[A:敷島 玲奈:驚き][Shout]「きゃっ……!? だ、誰……っ、放して!」[/Shout][/A]
[A:氷室 司:冷静]「静かにしろ。死にたくなければな」[/A]
腹の底から響くような、地を這う低いボソボソとした声が、女の濡れた耳元を叩く。
氷室は彼女を資材置き場に放置された錆びた鉄板の狭い隙間へと乱暴に引きずり込み、その華奢な体を自身の体躯で壁に押し付け、動きを封じた。
至近距離で交差する、氷室の冷たい呼気と、怯える女の熱い吐息。
追手の男たちが濡れた革靴の音を響かせ、サプレッサーを装着した不気味な黒い拳銃の銃口を向けながら、周囲をねめ回す。
[A:氷室 司:冷静]「……足音は三人分。やり過ごすぞ、息を殺せ」[/A]
[A:敷島 玲奈:恐怖][Whisper]「あいつら……創世製薬の息がかかった『回収屋』です。見つかれば、私はその場で消される……」[/Whisper][/A]
敷島玲奈の、普段は完璧に武装されているであろう冷徹な敬語。
その裏から、剥き出しの生々しい死への怯えが漏れ伝わる。
震える指先が、氷室のコートの硬い胸元を、すがるようにきつく握りしめていた。
男たちの足音が闇の彼方へと遠ざかるのを見計らい、氷室は彼女の背中を押し、近くの暗い地下道へと促した。
滴り落ちる地下水の冷たい音が響き渡る暗渠の中、玲奈は抱えていたケースを震える手で開き、液晶画面の青白い光を点灯させた。
そこに浮かび上がったのは、何人もの命を機械的に切り捨てた、無残な数値の羅列。
[A:敷島 玲奈:冷静]「見てください。これが『パンドラ』の真実です。臨床試験の段階で、数十名もの健康な小児患者が、重篤な心不全を起こして命を落としている。そのすべてが、紙切れ一枚で闇に隠蔽されたデータです」[/A]
[Impact]「パンドラ」[/Impact]
その禍々しい名前が鼓膜を震わせした瞬間、氷室の脳裏を、かつてすべてを失った焦熱の記憶が濁流となって駆け抜けた。
[Flash]真っ白な、無機質な病室[/Flash]
幾重もの細い管につながれた、呼吸するのもやっとだった幼い少女の姿。
そして、突如として脈を止める、心電図モニターの平坦な、あの耳障りな機械音。
首筋の古い傷跡が、まるで今、真っ赤に熱されたコテを押し当てられたかのように、焼けるような痛みを放つ。
[A:氷室 司:怒り]「……あの時のガキどもと同じだ。治験と称して、ただの毒薬を子供の血管に流し込みやがった。あの野郎、また同じ手を使ってやがる」[/A]
[A:敷島 玲奈:悲しみ]「あの薬は、子供たちをただの実験台にして殺しているの! 私の……私が信じて開発した成分が、あの子たちの心臓を、内側から止めていくのよ……!」[/A]
玲奈の大きな瞳から、あふれ出た大粒の涙が、冷たいコンクリートの床へと音もなく零れ落ちる。
氷室は冷徹な眼差しで青白いデータを見つめ、ポケットの中で、拳を爪が皮膚を突き破り血が滲むほどに強く、強く握りしめる。
[A:氷室 司:冷静]「救えなかった命のカルテは、たとえ地獄まで持っていっても、永遠に閉じることはできねえ。……この最悪なゲームを、裏で動かしているのはどこのどいつだ」[/A]
[A:敷島 玲奈:絶望]「この新薬の隠蔽を裏で操り、厚生労働省への認可を力ずくで強制している主犯……それは……」[/A]
玲奈は、血の気の失せた乾いた唇を小さく震わせ、その恐るべき名前を絞り出すように告げた。
[A:敷島 玲奈:絶望]「あなたのすべてを奪った恩師であり、私のボス……宗像隆三よ」[/A]
氷室の三白眼の奥底で、一度は冷え切って灰になっていたはずの復讐の炎が、地獄の業火のように再び猛烈に燃え上がった。
第2章:冷たい部屋、微熱の共犯

窓を打ち付ける激しい雨の音が、コンクリート剥き出しの、埃っぽいアジトに低く響いている。
天井から吊るされた安物の蛍光灯が不規則にチカチカと点滅し、灰色の床に寒々しい二人の影を落としていた。
氷室は錆びついてガタつくパイプ椅子に深く腰掛け、電子基板をピンセットで乱暴に分解しながら、肺の奥まで吸い込んだ煙草の紫煙をゆっくりと吐き出す。
煤けた木製のテーブルの上では、玲奈が命がけで持ち出した「パンドラ」のデータ解析が、静かに、しかし着実に進められていた。
彼女は白い白衣の袖を雑にまくり上げ、血の気の失せた細い指先で、壊れかけのキーボードを激しく叩き続ける。
だが、その細い肩は、寒さのせいだけではなく、小さく震え続けていた。
[A:敷島 玲奈:悲しみ]「計算が合わないんです。どれだけ変数を変えてやり直しても、この化学式は、幼い患者の未発達な細胞組織を容赦なく破壊するという結果しか導き出さない。私が、私のこの手が、あの子供たちの未来を……笑顔を奪ったんだわ……」[/A]
カタカタというキーボードの音が、唐突に途切れる。
彼女の伏せられた横顔を、液晶モニターの冷たい、無機質な青い光が残酷に照らし出していた。
氷室はタバコの火を錆びた空き缶の灰皿に押し付け、無言で彼女の背後へと、足音を殺して歩み寄る。
引いて、自らのトレンチコートの襟をゆっくりと引き下げ、首元を走るあの醜く引き裂かれた裂傷を、玲奈の細い首筋のすぐ隣へと晒した。
[Sensual]
[A:氷室 司:冷静]「これを見ろ」[/A]
玲奈がハッと息を呑み、シルバーフレームの眼鏡の奥にある濡れた瞳を大きく見開いた。
氷室は、凍えるように冷え切った彼女の手の上に、電子工作のハンダこてで熱を持った、自身の無骨で傷だらけの大きな手を、拒絶を許さぬ強さで重ね合わせる。
密着した皮膚を通して、互いの境界線が溶けて曖昧になるほどの、熱く、そして必死に生きようとする規則正しい鼓動が伝わってきた。
[A:氷室 司:冷静][Whisper]「お前だけの罪じゃない。俺は六年前、宗像の臨床データの改ざんを告発しようとして、この首をナイフで掻き切られた。医師としての社会的地位も、俺を信じてくれた患者の未来も、何より……守るはずだった最愛の婚約者も、全部あいつに奪われた」[/Whisper][/A]
氷室の荒く、熱を帯びた息遣いが、玲奈の露出した白い耳筋を優しく、しかし確実にくすぐる。
彼女の細い体が雷に打たれたように一瞬硬直したが、やがて、その怯えの震えは、身体の芯を焦がす別の熱狂へと変化していった。
[A:敷島 玲奈:愛情][Whisper]「……私は、死んでも引き下がりません。この指先が覚えているデータこそが、私の汚された良心の、最後のすべてだから」[/Whisper][/A]
二人の濡れた視線が、極限の至近距離で交錯する。
冷徹な復讐を誓う元研究員と、泥水をすすって生き延びた闇の調査員。
お互いの胸に刻まれた「決して癒えない深い傷」が、ジリジリと音を立てて重なり合い、歪でありながらも、決して引き剥がせない鉄の共犯関係が、その冷たい闇の中で確かに結ばれた。
[/Sensual]
二人は一睡もせず、朝の光が届かない地下室で執念の作業を続け、厚生労働省の幹部と創世製薬の間で交わされた不正融資の証拠、そして組織的殺人を裏付ける音声ファイルを一つの暗号化データへと統合した。
明日のオンライン記者会見。そこで、この地獄の果実を、世界に向けて一斉に暴露する。
完璧な破滅のシナリオが、ついに完成の時を迎えた。
[A:敷島 玲奈:冷静]「暗号化プログラムの最終二重ロック、構築完了しました。これで、彼らはもう光の当たる世界へは逃げられません」[/A]
[A:氷室 司:冷静]「よくやった。これでようやく、あの老害の薄汚い喉元に、錆びついたメスを深く突き立てられる」[/A]
氷室が、世界を引っくり返す実行キーに指先をかけた、まさにその瞬間。
[Glitch]バチバチッ……![/Glitch]
アジトの蛍光灯が激しい火花を散らし、すべての電源が、何者かの手によって唐突に遮断された。
完全な、静寂に満ちた暗闇が、二人を暴力的に包み込む。
音のない世界。
そして、その暗闇を冷酷に切り裂くように、細く鋭い、血のような赤い光線が室内に走り抜けた。
[Pulse]赤外線レーザーサイトの精密な照準[/Pulse]が、氷室の胸元、そして玲奈の眉間へと、寸分の狂いもなく冷酷に固定される。
第3章:光を消された夜に

[A:氷室 司:驚き]「伏せろ!」[/A]
氷室は、玲奈の細い腰を抱え込むようにして、埃まみれの床へと力任せに押し倒した。
その直後、鉄製の重厚なドアが耳を劈く爆音とともに吹き飛び、暗闇を暴力的なタクティカルライトの強烈な閃光が埋め尽くす。
雪崩を打って突入してきたのは、防弾ベストで身を固めた武装集団。
だが、その先頭で、勝ち誇った笑みを浮かべる男の顔を見た瞬間、氷室の思考は一瞬にして凍りついた。
[A:氷室 司:怒り]「……お前、なぜそこにいる。虐げられた弱者を救う『真実追及連盟』の代表が、何の真似だ」[/A]
かつて氷室に資金を援助し、共に巨悪を討つと誓った男の顔は、醜い欲望と嘲笑に歪んでいた。
そして、その男の後ろから、整然とした暗闇を割るようにして、ゆっくりと一人の老人が姿を現す。
完璧な仕立てが施されたサヴィル・ロウの三つ揃いスーツ。
一本の乱れもなく整えられた、美しく、冷たい白髪。
どこまでも柔和で、包容力に満ちた笑みを湛えているが、その双眸は獲物をいたぶる爬虫類のように冷たく、微塵も笑っていない。
[A:宗像 隆三:冷静]「久しぶりだね、司。相変わらず、排水溝の奥で生き延びる薄汚いドブネズミのような暮らしをしているようだ。少しは懲りるということを覚えたらどうだね?」[/A]
[A:氷室 司:怒り][Shout]「宗像……隆三……っ! よくも、よくも俺の前にぬけぬけと現れやがったな!」[/Shout][/A]
這い上がろうとする氷室の背中に、護衛の重いコンバットブーツが容赦なく叩き込まれた。
床に力任せに組み伏せられ、冷たいコンクリートのザラついた感触が頬の皮膚を削り、泥水が口の中に流れ込む。
宗像は悠然とした足取りで歩み寄り、高級な革靴の先で、氷室の泥にまみれた頬を小突いた。
[A:宗像 隆三:冷静]「司、君はまだ本質を学ばないのか。正義というものはね、社会を円滑に維持するための『大局的な利益』に合致した時だけ、その存在を許される、都合の良いラベルなのだよ」[/A]
[A:氷室 司:怒り]「大局だと……? 持たざる子供たちの命を天秤にかけ、すり潰して得る利益の、どこが大局だ!」[/A]
[A:宗像 隆三:冷静]「少数の、社会への貢献度の低い弱者の犠牲によって、数千万人の医療財政が救われ、我が国の製薬産業が世界を牽引する。これが私の導き出した真の正義であり、絶対の理だ。君たちの振りかざす稚拙な正義は、社会という巨大な精密機械を破壊する、ただの厄介な不純物にすぎんよ」[/A]
宗像のわずかな手招きにより、解析途中のデータが入ったハードディスクが冷酷に取り外され、没収されていく。
玲奈は、左右から大柄な男たちに乱暴に両脇を抱えられ、床をずるずると引きずり出されていった。
[A:敷島 玲奈:恐怖][Shout]「離して! 私のデータよ! 司さん! 司さん、助けて!」[/Shout][/A]
[A:氷室 司:絶望][Shout]「玲奈ーーっ! 待て! そいつに触るな!」[/Shout][/A]
激昂する氷室の腹部に、重い金属製の警棒がめり込む。
肺からすべての酸素が無理やり絞り出され、視界が[Blur]白く激しく明滅し、ぼやけていく[/Blur]。
かつて同志と信じた連盟の代表は、宗像から手渡された分厚いアタッシュケースを開き、詰め込まれた札束の重みを確かめながら、下卑た笑みを浮かべていた。
金と権力。その絶対的な暴力の前には、十年の絆など一瞬で霧散するただの幻にすぎない。
[A:宗像 隆三:冷静]「連れて行きなさい。その女は研究所の奥深くに戻し、薬物を用いて再教育を。……司、君はここで、己の無力さと愚かさにまみれて、一人寂しく野垂れ死ぬといい」[/A]
氷室は冷たい泥水の中に打ち捨てられ、静寂だけが部屋を支配した。
指先一つ、まぶた一枚動かすこともできない絶望感。
[Tremble]何も守れなかった己の弱さへの、骨をきしませるほどの激しい憤怒[/Tremble]が、熱い涙となって泥にまみれた頬を伝い落ちる。
だが、その時。
激しい殴打と乱闘の渦中、引き剥がされる寸前に玲奈が叫びながら、彼のコートの小さな内ポケットに、何かを必死にねじ込んできたあの感触が、確かに右胸の奥に残っていた。
震える右手を泥にまみれさせながら、這うようにしてポケットを探る。
そこにあったのは、彼女の汗と涙に塗れた、一本の極小のマイクロSDカードだった。
[Think]バックアップ……お前は。玲奈、お前は最後の瞬間まで、俺を信じて諦めなかったんだな。[/Think]
氷室は肺腑に残った泥水を激しく吐き出し、血反吐を散らしながら、ふらつきつつも壁を背にして立ち上がった。
<h3>第4章:血塗られた祭壇</h3>

超高層ホテル「グランド・ロイヤル川崎」の最上階、地上二百メートル。
巨大なクリスタルシャンデリアの眩い光が、政財界の重鎮たちの重厚なグラスに注がれた、血のように赤いヴィンテージワインを黄金色に妖しく輝かせている。
「創世製薬・新薬認可前夜祭」の極秘特別レセプション。
仕立ての良いタキシードと、絢爛なドレスに身を包んだ者たちの欲望の交じる笑い声が、優雅に奏でられるモーツァルトの旋律に溶け合っていた。
そのきらびやかな世界の真裏、無機質な電気系統の管理室に、氷室は潜んでいた。
血と泥に汚れたトレンチコートを脱ぎ捨て、警備室から力ずくで奪い取った制服を身に纏っている。
脇腹の深い裂傷が動くたびに肉を引き裂くような激痛を訴えるが、脳内を暴走するアドレナリンがその感覚を麻痺させていた。
かつて命を救った闇社会の伝説的なハッカーに暗号通信を繋ぎ、ホテルの基幹メインサーバーへ、あのマイクロSDのバックアップデータを完全に流し込ませる。
[A:氷室 司:狂気]「これで、すべての仕掛けは終わった。……今行くぞ、玲奈。必ず引きずり出してやる」[/A]
最上階の奥深く、重厚なスイートルームの扉を、肩の痛みを無視して力任せに蹴り開ける。
部屋の奥では、汚れなき研究者の白衣を乱暴に剥ぎ取られ、悪趣味なシルクのイブニングドレスを着せられた玲奈が、椅子に太いロープで縛り付けられていた。
彼女の美しい黒髪は無残に乱れ、トレードマークの眼鏡は床に転がり、レンズが粉々に砕けて散らばっている。
[A:敷島 玲奈:驚き][Blur]「司さん……!? どうして、生きて……」[/Blur][/A]
[A:氷室 司:冷静]「約束したはずだ。救えなかった命のカルテは、地獄の底まで持っていってでも追いかける、ってな」[/A]
氷室は腰から抜いた軍用ナイフで彼女を縛るロープを一瞬で切り裂き、その驚くほど細く、震える肩を力強く抱き寄せた。
しかし、脱出を図ろうとしたまさにその瞬間、壁の隠し扉から次々と銃を構えたプロの護衛たちが姿を現す。
退路を断たれた、地獄のような乱闘。
氷室は、かつて救急救命医として培った解剖学の知識を動員し、「人間の肉体を瞬時に活動停止させるポイント」を、容赦なく、冷酷無比に突き破っていく。
だが、執拗な追撃と、肉体を削る銃弾の嵐をかいくぐるうちに、二人は最上階レセプションホールの巨大なメインステージの裏口へと追い詰められてしまった。
自動ロックの扉が開き、目も眩むような無数のスポットライトが照らす、きらびやかなステージへと二人の体が転がり出る。
そこでは、壇上のマイクを前に、自信に満ちたスピーチを行っていた宗像隆三が悠然と立っていた。
数百人の紳士淑女たちが、突如ステージに現れた、全身血まみれの異様な男女の姿に息を呑み、会場は一瞬にして水を打ったような静寂に支配される。
宗像は、一瞬だけ不快そうに眉をひそめたが、すぐに全てを支配する冷酷な微笑を取り戻した。
仕立ての良い上着の内側から、小型の美しい拳銃を取り出し、その銃口を、玲奈の細いこめかみへと冷酷に突きつける。
[A:宗像 隆三:冷静]「そこまでだ、司。大衆という愚者の前で、何の茶番を始める気かね。下らない道化の劇は、私の台本にはないのだよ」[/A]
[A:氷室 司:怒り]「お前の汚い台本は、ここで幕引きだ、宗像。この手元にあるタブレットのキー一つで、お前たちが金と暴力で隠蔽してきたすべての治験殺人のデータが、世界中のすべてのプレスリリースとSNSへ同時に配信される」[/A]
氷室は、ホールの全音響システムと大型スクリーンを完全にハッキングしたタブレットを、血に濡れた手で高く掲げた。
人差し指が、エンターキーの上で、凍りついたように静止している。
[A:宗像 隆三:冷静]「選ぶといい、司。そのボタンを押せば、コンマ一秒後、この女の優秀な脳漿がその美しいステージを赤く染めることになる。目の前のたった一つの愛おしい命を救うか、それとも、顔も名前も知らない『大衆』とやらの空虚な正義を貫くか。君にその引き金が引けるかね?」[/A]
[Pulse]極限まで張り詰めた、針を落としても響くほどの沈黙。[/Pulse]
ホールの観客たちは、誰もが自らの呼吸すら忘れ、ステージ上の狂気的な光景を凝視していた。
玲奈の大きな瞳から、一筋の熱い涙が頬を伝って流れ落ちる。
しかし、彼女の切れ長の瞳の奥底には、死への恐怖を完全に超越した、冷徹なまでの決意の光が宿っていた。
[A:敷島 玲奈:愛情][Shout]「司さん、お願い、私を撃たせて! データを流して! 私たちの不確かな命なんかより、あの奪われた子供たちの、未来の灯火を……!」[/Shout][/A]
[A:氷室 司:狂気]「救えなかった命のカルテは……今、ここで完全に閉じる!」[/A]
氷室の、血に染まった指先が、画面を強く、叩き潰すように押し込んだ。
<h3>第5章:沈黙の夜明け</h3>
[Flash]一瞬のまばゆい閃光[/Flash]がホールの照明を強制シャットダウンさせ、次の瞬間、ステージ背後の巨大な100インチのスクリーンに、おぞましい真実が映し出された。
それは、創世製薬が支払った数億円に上る官僚への秘密買収リスト、新薬の副作用で無残に肺と心臓を破壊された小児患者たちのレントゲン写真、そして──宗像隆三自身が「子供など、次の治験用のサンプルを連れてくればいい。必要なコストだ」と吐き捨てる、あまりにも冷酷な音声。静寂は、一瞬にして怒号と悲鳴が渦巻く、混沌の地獄絵図へと変貌していく。
[A:宗像 隆三:怒り][Shout]「バカな……! 止めろ! システムを遮断しろ! その男を殺せ!」[/Shout][/A]
激昂した宗像の指先が動く。引き金が引かれる。
鼓膜を震わせる、激しい一発の銃声。
玲奈の華奢な体が、弾丸の衝撃で大きく後ろにのけぞり、宙を舞う。
肩を撃ち抜かれ、真っ赤な鮮血を散らしながら崩れ落ちる彼女の体を、氷室はなりふり構わずその両腕で抱き止めた。
温かい血が、彼女の白いドレスをみるみるうちに紅蓮に染め上げ、氷室の顔面へと容赦なく跳ねかかる。
[A:氷室 司:怒り][Shout]「宗像ァァァァァッ!!」[/Shout][/A]
氷室は、傷ついた玲奈の体を自身の背中で庇い、ステージに転がっていたマイクを鷲掴みにした。
そして、狂乱と怒号が激しく渦巻く会場全体に向けて、喉が裂けんばかりの咆哮を放つ。
[A:氷室 司:怒り][Shout]「これが、お前たちが数字の裏に黙殺し続けた、本物の命の重さだ! よく見ろ! お前たちのドレスを汚した、この生々しい血の色を! これが、お前たちが喰らい尽くした子供たちの命の灯火だ!」[/Shout][/A]
その魂の絶叫に応じるように、ホールのすべての巨大な防音扉が次々と叩き破られ、警視庁特捜部の捜査員たちが銃を構えて雪崩れ込んできた。
事前に氷室がすべてのデータを送り届け、外回りを包囲させていた、数少ない「まだ魂を売っていない」本物の刑事たちだ。
一斉に銃口を突きつけられ、冷たい手錠をはめられて床にねじ伏せられる宗像。
彼は連行され、氷室の真横を通り過ぎるその最期の瞬間まで、不敵な、狂気的な笑みを崩さなかった。
[A:宗像 隆三:冷静][Whisper]「世界は何も変わらんよ、司。今回は私の負けだが、人間という愚かな大衆は、明日になればまた新しい奇跡の薬を求め、その裏の新しい生贄に目を瞑るのだからな」[/Whisper][/A]
[A:氷室 司:冷静]「地獄の最下層で待ってろ、先生。あんたのカルテの死亡診断書は、俺が直接書いてやる」[/A]
宗像の醜い背中が消え去り、ホールの喧騒とサイレンの音が、遠い世界の出来事のように遠ざかっていく。
氷室は、腕の中で急速に体温を失い、意識を混濁させていく玲奈の青白い顔を、血に濡れた震える両手でそっと包み込んだ。
[A:氷室 司:悲しみ][Blur]「玲奈、しっかりしろ! 目を開けろ! まだ、お前のカルテは終わっちゃいない、閉じさせやしない……!」[/Blur][/A]
[A:敷島 玲奈:喜び][Whisper]「……私、ちゃんと……あなたの隣で……真実を……暴け、ました、ね……」[/Whisper][/A]
彼女の細い、冷え切った指先が、氷室の首元に深く刻まれたあの醜い傷跡に、いたわるように優しく触れ──そして、そのまま重力に従って、静かに、力なく床へと滑り落ちた。
──数年後。
長く降り続いた重い雨がようやく上がり、雲の隙間から、どこまでも透き通った秋の夕暮れの光が差し込んでいる。
重厚な刑務所の、高いコンクリートの壁の前に、氷室司は一人静かに立っていた。
不法侵入、そして国家レベルの違法ハッキング罪。
数年間の厳しい服役期間を終え、彼はようやく、肺いっぱいに娑婆の冷たい空気を吸い込む。
あの泥にまみれたトレンチコートは、もう着ていない。
すっきりとしたシンプルな私服に身を包み、鋭かった無精髭も、今は綺麗に剃り落とされていた。
アスファルトを踏みしめ、歩き出した彼の前に、長く伸びる一つの影が静かに落ちる。
そこには、風に艶やかな黒髪を優しく揺らし、あの頃と変わらない、少しはにかんだようなシルバーフレームの眼鏡をかけた女性が立っていた。
右肩から先は、あの夜の銃撃による後遺症のために、白いサポーターで少し不自由そうに固定されている。
だが、現在の彼女の表情には、かつて闇に怯えていた震えも、完璧さを追い求めるがゆえの脆さも、微塵も残っていなかった。
[A:敷島 玲奈:喜び]「お帰りなさい、司さん。長かったですね」[/A]
[A:氷室 司:喜び]「……ああ。ずいぶんと待たせたな、玲奈」[/A]
彼女の穏やかな導きによって訪れたのは、下町の片隅にひっそりと佇む、小さな古い木造の診療所だった。
色褪せた待合室の奥からは、子供たちの、何の曇りもない健やかで無邪気な笑い声が心地よく響いてくる。
窓辺の棚には、かつて二人が夢見たように、美しく丁寧に手入れされた熱帯魚の水槽が置かれ、静かな泡の音を立てながら、きらきらと光を反射していた。
[A:敷島 玲奈:冷静]「右腕は、もう昔のようにはうまく動きませんが、薬学の細かい分析や、子供たちのカルテを整理して管理する仕事なら、私の左手だけでもいくらでもできますから」[/A]
[A:氷室 司:冷静]「……そうだな。俺のこの鈍った手も、もう一度、あいつらの命を聴くための聴診器の持ち方を、思い出すとするか」[/A]
失われた、あの血塗られた時間は二度と戻らない。
あの嵐の夜、泥濘の地獄で流された多くの命の血が、消えることも決してない。
だが、二人が泥水をすすり、命を削って勝ち取った、あまりにも小さく、しかし何よりも美しい希望の種は、確かにこの温かい場所で、深く、強く根づき始めていた。
沈みゆく美しい夕暮れの茜色の光が、長く、どこまでも伸びる二人の影を、祝福するように優しく包み込んでいく。
その新しく歩み出す光の先には、あの子たちの未来を守る、正しい、どこまでも優しい明日への風が、静かに吹き抜けていた。