第一章: 錆びたネオンと星空の少女
路地裏のトタン屋根を叩く、絶え間ない酸性雨。階層都市『アメノ』の最下層に響くのは、永遠の灰色ノイズ。
淀んだ水たまり。それを、リク「ちっ」 と舌打ちしながら踏み躙る。
酸性雨を弾く漆黒の合成皮革コート。無精髭の顎を撫で、リクは虚ろな三白眼で奥の闇を睨みつけた。首元に刻印された、データ転送用の古いポート痕。そこを伝い落ちる、氷のように冷たい雨滴。鼻腔を犯すのは、雨に溶けた錆と血の腐臭。
極彩色のネオンを反射する泥濘。その底に、白い塊が沈んでいた。
透き通るような肌。泥にまみれた銀糸の長髪。ゆったりとした白いワンピース。首筋から背中にかけて、無残に引きちぎられたセンサーケーブルの痕が赤黒く膿んでいる。
リク「おい。生きてるか」
しゃがみ込み、少女の頸動脈に指を沈めるリク。微かな拍動。
記憶データでも抜かれた後の廃棄物か?
職業的反射。リクは懐の端末を引き抜き、彼女の首のポートへ無造作にプラグを突き立てた。
直後、リクの脳髄を規格外のデータストリームが蹂躙する!
リク「なっ……!」
網膜を灼く、圧倒的な光。
この冷酷な都市では絶滅したはずの、満天の星。肺の奥まで侵食する、甘く温かい夕焼けの残滓。
他人の記憶を啜り、己の感情を殺し尽くした男。かつて自らの手で売り払い、抉り取ったはずの胸の空洞へ、暴力的とも言える極彩色が濁流となって流れ込む。
激しく明滅する視界。
ゆっくりと開かれる、少女の双眸。ガラス玉のような無機質な瞳が、リクの魂を射抜く。
シオン「……あたたかい」
錆びついた世界が、音を立ててひび割れる。
押し寄せる圧倒的な星空の記憶。凍りついていたリクの指先が、痙攣するように跳ねていた。
第二章: 泥濘の中の小さな光
油の腐臭と安煙草の紫煙。第九廃棄区のジャンク屋に淀む空気。
トウヤ「拾ったぁ? お前、イカれちまったのか?」
油まみれのツナギ。派手なスカジャンを羽織った赤髪の男、トウヤが眼球をひん剥く。
リク「ただの行き倒れだ。少し休ませたら捨てる」
泥水のようなブラックコーヒーを胃の腑へ流し込む。舌を刺す、麻痺した苦味。
作業台の隅。シオンが古いラジオの真空管を、瞬きすら忘れて見つめている。
彼女の異端性に気づいたのは、その日の夕刻。
スラムの傷ついた娼婦が路地裏で泣き叫んでいた時だ。シオンは無言で歩み寄り、彼女の泥まみれの額へ両手を押し当てた。
暴行と痛みの記憶。それを彼女は、まばゆい花畑の幻影へと強引に書き換え、娼婦の顔に気味の悪いほどの安らかな笑みをもたらしたのだ。
トウヤ「こいつ……記憶を喰って、吐き出してやがる」
夜。雨漏りの絶えない極小の部屋。
シオンがリクの隣へ這い寄り、おずおずとその指先へ縋り付いてきた。
シオン「リクの手、すごく、あたたかい……」
死体のように冷え切った彼女の指先。それが、リクの無骨な掌の熱を貪るように、生々しく絡みつく。
リク「記憶なんて、腹の足しにはならないさ」
吐き捨てようとした唇。それを、彼女の細い指が強引に塞ぐ。密着する肌。首元のポートの傷をなぞる、背筋が凍るほど冷たい感触。リクの胸の奥底で、とうに消えたはずの火種が熾る。自らの意思で売り払った、愛する人の記憶の穴。その底知れぬ空洞を、彼女の静かな体温が埋め尽くしていく。
窓の外。雨のカーテンの向こう側で、赤と青のパトランプが網の目のように蠢く。
都市を統括するシステム『ユートピア』の執行官たち。彼らが底辺のドブ浚いを始めていた。
かりそめの平穏が、死の足音を立てて崩れ去る。
第三章: 黒く染まる花と残酷な真実
冷徹な靴音が、コンクリートの通路を打つ。
幾何学ラインが走る漆黒の軍用特殊装甲。表情筋を削ぎ落としたかのような、彫像の顔。
ジン「対象の生体反応を確認。回収フェーズへ移行する」
機械的で、徹底的に無機質な音声。かつての弟分、ジンの姿がそこにあった。
リク「ジン……お前、システムの犬になり下がったか」
ジン「不合理な感情は、システムへの反逆とみなす。その生体部品を引き渡せ、リク」
無慈悲な真実の宣告。
シオンは人間ではない。富裕層の精神を安定させるため、都市の汚泥たる負の感情を全て飲み込む「浄化フィルター」。
逃亡によりメンテナンスを絶たれた彼女の肉体は、とうに限界点を超過していた。
「あ……ぁ……」
シオンの腕。その白い皮膚が、唐突にどす黒く沸騰し、ボロボロと崩れ落ちる。肉が腐り、焦げるような絶望的な悪臭。
シオン「リク……ごめんね。わたし、こわれちゃう、みたい」
自らの肉体が融解していくというのに、彼女は他者のために歪な笑みを浮かべる。
こいつをシステムに還せば、命は長らえるのか?
ただの肉の部品として、永遠に他人の痛みを喰い続ける無間地獄へ?
膝から崩れ落ちるリク。冷たい石畳に這いつくばり、歯が砕けるほど噛み締め、喉の奥から血の混じった嗚咽を漏らす。
視界の端。ジンの銃口が、シオンの額へ無機質に押し当てられた。
第四章: 灰色の雨を裂いて
閃光。次いで、鼓膜を粉砕する爆発音!
トウヤ「死にたくねぇなら這いつくばれぇぇぇ!!」
トウヤの放り投げた手製爆弾が、執行官たちの陣形を物理的に粉砕する。
焦げた肉の匂い。むせ返るような硝煙と血の鉄味。
リク「トウヤ!」
だが、無慈悲な一閃。レーザーの軌跡が、トウヤの胸部を正確に蒸発させる。
派手なスカジャンが、黒い血の海へと沈んでいく。
トウヤ「笑っとけリク……俺たちの人生なんて、ただの三流喜劇だろ……?」
口から夥しい血の泡を吹きこぼしながら、トウヤはシオンの銀髪へ血塗れの指を伸ばす。
トウヤ「あいつを、ただの部品のまま、終わらせるな……」
光を失う瞳。
ドクン、と。リクの中で、最後のストッパーが弾け飛んだ。
リク「うおおおおおおおおっ!!」
剥き出しの狂気。恐怖も、自己嫌悪も、すべてを己の怒りの業火へ叩き込む。
ジン「抵抗は無意味である。対象の完全排除を許可する」
降り注ぐ銃弾の雨。砕け散るネオンの海。
リクは崩壊の進むシオンを背中に縛り付け、瓦礫を蹴り上げる。
目指すは、分厚い雲に閉ざされた都市の最上層。システムの心臓。
シオン「だめ、リク、死んじゃう!」
リク「黙ってろ! 俺がお前に、本物の空を刻み込んでやる!」
灰色の雨を裂き、漆黒のコートが狂ったように宙を舞う。
血と硝煙の向こう側。分厚い防壁に守られたメインタワー最上層への扉が、不気味な駆動音とともにその顎を開いていた。
第五章: 光の奔流、そして君のいない世界で
都市最上層・生体演算室。メインタワーの頂に君臨する神の座。
金属の絶叫。ひしゃげ、砕け散る装甲。
ジン「理解不能だ! なぜ、たかがバグじみた感情のために命を捨てる!」
ジンの義眼が、エラーを吐き出しながら狂乱の明滅を繰り返す。
リク「お前が捨てたガラクタだろうが! 俺は、こいつの心を拾い上げたんだよ!」
満身創痍の拳。骨が砕ける音とともに、リクの右腕がジンの胸部装甲を貫通する。
爆ぜる火花。システムの中枢回路が断末魔のショートを起こす。
膝を折るジン。機能停止の瞬間、その冷徹な顔貌に、一瞬だけかつての泣き虫な弟分の面影が浮かび上がった。
警告。システム『ユートピア』、浄化フィルターとのリンクを強制切断します。
重圧な電子音。シオンを縛り付けていた見えない呪縛が、完全に消滅する。
だが、それは彼女の命のタイマーがゼロになったことを意味していた。
タワーの頂上。永遠に都市を覆っていた人工の鉛雲が、ゆっくりと引き裂かれていく。
何百年ぶりかに降り注ぐ、本物の朝日。
黄金色の光の柱が、冷たい都市を、そして崩れゆくシオンの肉体を暖かく包み込む。
シオン「あ、あ……きれい……」
彼女の皮膚を蝕んでいた黒い浸食。それが光の粒子へと還り、空へ向かって溶け出していく。
リク「待て、消えるな! シオン!」
必死に掻き抱こうとする両腕。だが、その手は残酷なほど虚しく宙を切る。
シオン「リク……わたしね。いま、あたたかい、の」
微笑み。システムではなく、初めて彼女自身の感情によって紡ぎ出された、奇跡の記憶。
まばゆい光の奔流の中、シオンの透き通る唇が、リクの額に優しく触れた。確かな、生きた体温の記憶。
圧倒的な、静寂。
腕の中には、もう誰もいない。
光の粒だけが、黄金の空へ高く舞い上がっていく。
膝をつき、天を仰ぐリク。喉の奥底から、獣が引き裂かれるような慟哭が迸った。
頬を伝うのは、冷たい酸性雨ではない。彼自身の、生々しく熱い涙。
永遠の雨は、もう降らない。
錆びたネオンの代わりに、黄金の太陽が下層都市の泥濘までをも照らし出している。
ゆっくりと立ち上がるリク。固く握りしめた掌に残るのは、彼女が遺したひと握りの希望の記憶。
漆黒のコートの裾を翻し、彼は新たな世界へ向けて、確かな一歩を踏み出した。