第一章: 終わりの始まり
アスファルトが熱を吐き出す匂い。鼻腔を焼く、湿ったチョークの粉。
夕立が上がり、茜色と群青が混ざり合う放課後の教室。
窓枠に切り取られた空を、伏せがちな黒い瞳がじっと見つめている。
星野灯真は、絵の具のシミがこびりついた白シャツの袖を乱暴に捲り上げた。着崩したズボンのポケットに両手を突っ込み、真っ白なままのカンバスから顔を背ける。
月島 栞「灯真くん、まだ残ってたんだね」
鼓膜をくすぐる、鈴の音のような声。
振り返れば、透き通るような青白い肌に栗色の髪を揺らす月島栞。
その細い腕にはスケッチブック。彼女の口元は綺麗な弧を描いているのに、どこかひび割れたガラスのようだ。
開け放たれた後ろのドアから、不機嫌な舌打ち。
海堂 蒼「ちっ、こんなとこに居やがったか。探したぜ」
毛先を金に染めかけた、短く刈り込んだ髪。
海堂蒼の鋭く反抗的な三白眼が、教室の空気を射抜く。開いた襟元で、銀のドッグタグが鈍く光る。
星野 灯真「蒼……どうして、ここに」
上下する灯真の喉仏。
疎遠になっていた三人が、同じ空間に揃う。あの、息苦しい夏の日以来。
軋むような沈黙を破ったのは、黒板の異音。
メキッ、メキメキッ……!
深い緑色の黒板に走る、ありえない亀裂。
漆黒の裂け目から、圧倒的な光が吹き出す。
光の粒、いや、無数の星屑が教室の床を覆い尽くし、重力そのものが反転。
月島 栞「きゃっ!」
海堂 蒼「おい、なんだこれ!」
宙に浮く体。
床のタイルがひっぺがされ、漆黒の宇宙空間が牙を剥く。
必死に手を伸ばす灯真。栞の細い指先をかすめた瞬間、強烈な引力が三人を虚空へと引きずり込んだ。
鼓膜を叩くのは、重厚な蒸気機関の駆動音。
硬い石畳に打ち付けられ、むせ返るような鉄の匂いの中で灯真は目を開く。
錆びたレールが果てしない星空へと吸い込まれていく。見上げる彼らを待ち受けていたのは、「銀河鉄道」のホーム。
第二章: 記憶の幻燈
重厚な黒鉄の車体が、星の海を切り裂いて進む。
擦り切れた座席のモケット。古い油の匂い。
向かいの席に座る栞の姿は、いつの間にか現実の制服から、ふわりとした白いサマードレスに変わっている。頭には麦わら帽子。窓の外に広がる銀河に、彼女の視線は釘付けだ。
月島 栞「見て、すごいよ! 星が降ってきそう!」
栞は窓ガラスに顔を押し付け、爪が白くなるほどサッシを握りしめている。
海堂 蒼「……訳が分からねぇ。だが、悪くはねぇな」
蒼は窓枠に肘をつき、どこから取り出したのか、瓶のサイダーをあおる。
口の中に広がる甘い炭酸の刺激。灯真もまた、渡されたサイダーの冷たさに指先を震わせた。
車窓を流れていくのは、見知らぬ誰かの記憶。
夕暮れのグラウンド。自転車の二人乗り。花火大会の残像。
それらは光の幻燈となって車内を照らし、灯真たちの輪郭を淡く染め上げる。
海堂 蒼「おい灯真、お前また絵ぇ描いてたのか。諦めたんじゃなかったのかよ」
星野 灯真「どうせ、僕には何もない。ただの暇つぶしだ」
視線を伏せる灯真。
蒼の眉間が一瞬だけ跳ねる。何かを言いかけるが、奥歯を強く噛み締め、ギリッと音を立てた。
軋む車輪の音。二人の間を通り抜ける冷たい風。
不意に、灯真の心臓が早鐘を打った。
ドクン、ドクン……
窓に反射する光のせいではない。
栞の透き通るような青白い腕が、文字通り「透明」に透けている。
パラパラと、彼女の指先から微かな星屑がこぼれ落ちる。
星野 灯真「栞……お前、その腕」
灯真の問いに、栞はゆっくりと振り返った。
麦わら帽子の下で、彼女はひどく穏やかに微笑んだ。その口角から、微かな絶望が滴り落ちるように。
月島 栞「大丈夫。……でもね、この旅が終われば、私は本当に消えてしまうかもしれない」
鈴の音のような声が、冷たい毒を孕んで車内に響き渡る。
車窓の星光が、彼女の儚い輪郭を無残に切り裂いていた。
第三章: 未練の駅
次ハ、未練ノ駅。未練ノ駅。
耳をつんざくブレーキ音。列車は寂れたプラットホームに滑り込んだ。
ホームに降り立った瞬間、鼻腔を突いたのは星の匂いではない。
冷たく無機質な、病院の消毒液の匂い。
灯真の額に冷たい汗が滲む。
海堂 蒼「なんだよここは……俺の、グローブ?」
プラットホームのベンチ。そこには、泥まみれで破れた野球のグローブが転がっている。
蒼がかつて肘を壊し、マウンドを去った日の記憶の残骸。
そしてその奥には、真っ白なカンバスが無数に引き裂かれたゴミ捨て場。
極めつけは、ホームの端にぽつんと置かれた一つのベッド。
心電図の無機質な電子音。点滴の管。
月島 栞「ここは、私たちの心が作り出した場所なんだよ」
栞が白いドレスの裾を強く握りしめる。
指の関節が白く浮き立ち、小刻みに震えている。
月島 栞「もっと生きたいっていう私の身勝手な願いと……現実から逃げたい二人の気持ちが、この『終わらない夏休み』を作ったの」
永遠の虚構。
このまま列車に乗り続ければ、栞は透けた身体のまま、痛みもなく永遠の青春を生きられる。
しかし、それは現実の彼女の人生を、未完のままゴミ箱に捨てることを意味する。
浅くなる灯真の呼吸。
生かしておくべきか。それとも、残酷な終着駅へと彼女を帰すべきか。
海堂 蒼「だったら、このままここに居りゃいいじゃねえか! 現実に戻ったって、どうせ全部終わっちまうんだよ!」
蒼の怒声が、静寂の駅に叩きつけられる。
彼の三白眼には、隠しきれない水滴が光っていた。
第四章: 魂の燃焼
「ふざけるな!」
灯真の右拳が、蒼の頬を力任せに殴り飛ばした。
ゴツン、という鈍い音。口の中に広がる血の鉄の味が、灯真の舌を焼く。
星野 灯真「そんなの、栞から本当の人生を奪うことだ! 逃げるなよ、蒼!」
海堂 蒼「お前こそ現実見てみろ! 戻れば栞は死ぬんだぞ!」
胸ぐらを掴み合い、硬い石畳の上を転がる二人。
頬が擦り切れ、絵の具のシミがついた白シャツが赤く染まる。
息が上がり、明滅する視界。
互いの不器用な想いが、剥き出しの拳となってぶつかり合う。
「やめて……もう、やめて!」
悲痛な叫び。
栞が両手で顔を覆い、しゃがみ込んでいる。
月島 栞「周りのみんなが笑ってくれるなら、私は消えてもいいって思ってた……でも、違う」
顔を上げた彼女の瞳。
儚げな瞳の奥に、狂気にも似た強い炎が宿っている。
月島 栞「私は、最後まで生きたい。自分の足で、現実という終着駅に降りたいの!」
その言葉が、二人の胸を深く抉る。
ゆっくりと立ち上がる灯真。蒼に手を差し伸べた。
蒼は血の混じった唾を吐き捨て、その手を力強く握り返す。
ゴォォォォォォッ!!!
決断に呼応するように、未練の駅がガラガラと崩れ始める。
駆け出す三人。
機関室へと飛び込み、燃え盛る火室の扉を開け放つ。
未練も、後悔も、偽りの永遠も。
すべてを石炭と共に放り込み、彼らは自らの魂の炎で、機関車を前へと進める。
第五章: 終わらない夏の終わりに
現実世界への境界。
視界のすべてが、圧倒的な光の奔流に呑み込まれていく。
列車の外殻がひび割れ、剥がれ落ち、星の砂となって宇宙へ溶ける。
灯真は、隣に立つ栞の手を力強く握りしめた。
彼女の指先は氷のように冷たいのに、繋いだ掌の奥底からは、魂が燃え尽きるような熱が伝わってくる。
青白い肌が、光に透けて輪郭を失っていく。
灯真の黒い瞳から、こらえきれない水滴が堰を切って溢れ出した。
星野 灯真「栞……行くな……!」
月島 栞「ありがとう、灯真くん。蒼くん」
光の粒子に分解されながら、栞はこれまでで一番美しい笑顔を見せた。
彼女の顔が近づき、灯真の耳元で微かな吐息が揺れる。
「私の分も、夢を描いて」
——次の瞬間、強烈な朝日に目を射られた。
耳に届く、蝉時雨と喧騒。
開け放たれた窓から入る、生ぬるい風の感触。
灯真と蒼は、放課後の教室の床に倒れ伏していた。
夏休みは、終わった。
◇◇◇
その日の夕方。
病室のベッドで、栞は静かに息を引き取った。
消毒液の匂いが漂う無機質な部屋。彼女の遺したスケッチブックだけが置かれている。
震える手でページをめくる灯真。
そこには、銀河鉄道の窓辺で笑い合う、三人の姿が鮮やかな色彩で描かれていた。
蒼は何も言わず、窓の外の入道雲をじっと見つめている。
その横顔に刻まれた、もう逃げ出さないという静かな決意。
灯真はスケッチブックを胸に抱き寄せ、ゆっくりと立ち上がる。
絵の具で汚れた白シャツの袖を、再び捲り上げた。
キャンバスに向かう彼の瞳は、もう何も恐れていない。
終わらない夏の終わり。
果てしない星空の記憶を絵筆に込め、彼は力強く、新しい線を引く。
輝くような群青色を、真っ白な世界へと叩きつけた。