0と1の走馬灯

0と1の走馬灯

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人間の魂の重さは21グラムだと言われる。

だが、死者がクラウドに残していくデータの重さは0グラム。

それなのに、どうしてこんなにも――指先が震えるほど重いのだろう。

第一章 21グラムの亡霊

「うわ、きっつ。これ、防毒マスク二重にした方がいいっすよ」

アシスタントのレンが、玄関先で顔をしかめた。

ドアを開けた瞬間、鼻腔を突き刺したのは、湿った古紙と腐った蜜柑、そして孤独という名のカビ臭さだ。

ここは都内某所の築40年のアパート。

先週、この部屋の住人である72歳の女性、坂本ハナエが亡くなった。

死因は心不全。

発見されたのは死後二週間が経過してからだった。

いわゆる、孤独死だ。

俺、相沢ケンジの仕事は『デジタル遺品整理』。

遺族からの依頼で、故人のスマホやPCのパスワードを解除し、必要なデータを抜き出し、見られたくない履歴をこの世から抹消する。

現代における、納棺師のようなものだ。

「ケンジさん、またこのパターンですか。ゴミ屋敷に埋もれたスマホ探し。割に合わないっすね」

レンが足元のコンビニ弁当の空き容器を蹴飛ばす。

俺は無言で、部屋の奥へと進んだ。

かつて大手新聞社の社会部記者だった俺にとって、現場の空気は吸うものではなく、読むものだ。

「……生活感がないな」

「はあ? ゴミだらけじゃないっすか」

「違う。思い出の品がないんだ。写真は一枚もない。あるのは、このゴミと、大量の未開封の封筒だけ」

俺は、万年床の枕元に転がっていた、ひび割れた画面のスマートフォンを拾い上げた。

充電ケーブルが繋がったまま、主の帰りを待つかのように微かな熱を帯びている。

今回の依頼主は、不動産管理会社だ。

身寄りがないため、部屋の契約解除のためにデータ整理を頼まれた。

だが、俺の『記者としての嗅覚』が疼く。

この部屋には、違和感がある。

ゴミの山の中に、不自然な空白があるのだ。

まるで、誰かが意図的に『坂本ハナエ』という人間の輪郭を消そうとしたかのように。

「レン、PCを持ってこい。解析を始める」

俺はスマホをケーブルに繋ぎ、解析ツールを走らせた。

俺には特技がある。

一度見たテキストデータを写真のように記憶できる『映像記憶』だ。

記者時代はこれで数々のスクープをものにしたが、同時にこれのせいで、捏造記事の濡れ衣を着せられ、業界を追放された。

画面にプログレスバーが走る。

ロック解除まで、あと30秒。

この小さな板の中に、この老婆の人生のすべてが詰まっている。

「解除成功。……なんだこれ」

レンが画面を覗き込み、絶句した。

ゴミ屋敷の主のスマホ。

そこには、予想を裏切るアプリが整然と並んでいた。

ネットバンキング。

暗号資産ウォレット。

そして、高度なセキュリティがかけられた『日記』アプリ。

「預金残高……3000万!? おいおい、この婆さん、なんでこんなボロアパートに?」

レンの声が裏返る。

だが、俺が注目したのはそこではない。

メールの送信履歴だ。

宛先はたった一つ。

[email protected]

そのアドレスを見た瞬間、俺の心臓が早鐘を打った。

東郷啓介。

現職の厚生労働大臣であり、次期総理候補と目される男。

そして、俺に捏造記事の罪を被せ、社会的に抹殺した張本人だ。

第二章 ゴミ屋敷の聖女

「おい、レン。この部屋のゴミ、よく見ろ」

俺は散乱する封筒の一つを拾い上げた。

督促状ではない。

それは、とあるNPO法人からの礼状だった。

『あおぞら子供食堂様、今月も多額のご寄付、ありがとうございます』

「子供食堂……?」

レンが目を丸くする。

俺は次々と封筒を開封した。

すべて、児童養護施設や、貧困家庭支援団体からの感謝状だ。

「この人、自分はコンビニ弁当で食いつないで、金は全部寄付してたのか……?」

スマホの入出金履歴を追う。

毎月25日、年金の振込日。

その翌日には、ほぼ同額が複数の団体に送金されている。

そして、謎の3000万円の出処。

それは、毎月『東郷事務所』という名義から振り込まれる、口止め料のような定額送金だった。

「ケンジさん、これ、ヤバいネタじゃないっすか? 大臣の隠し口座?」

「それだけじゃない」

俺は震える指で、『日記』アプリを開いた。

パスワードは、東郷啓介の誕生日だった。

画面に表示されたのは、日記というより、懺悔録だった。

『10月3日。啓介がテレビに出ている。立派になった。私のような母親がいたことは、あの子のキャリアの汚点になる。だから私は、死んだことになっていなければならない』

『12月24日。クリスマスのケーキを買った。一人で食べた。あの子は今頃、高級ホテルでパーティーだろうか。昔、あの子が万引きをして警察に捕まった時、一緒に頭を下げたことを思い出す。あの時の泣き顔が、今も愛しい』

文字の羅列が、映像となって脳内に焼き付く。

東郷啓介は、「貧困からの叩き上げ」を売りにしている政治家だ。

「幼い頃に両親を亡くし、苦学して政治家になった」というのが彼の公式プロフィールだ。

だが、真実は違う。

母親は生きていた。

息子の出世のために、自ら「捨てられる」ことを選び、社会の底辺で息を潜めていたのだ。

そして、東郷はその母親を、金で飼い殺しにしていた。

「ひどすぎる……」

レンがスマホを置いて、拳を握りしめている。

現代の姥捨山。

いや、もっとタチが悪い。

デジタルという見えない鎖で、母親をこのゴミ屋敷に繋ぎ止めていたのだ。

俺の手元には今、東郷啓介を破滅させる決定的な証拠がある。

これを週刊誌に持ち込めば、俺の汚名は晴らせる。

記者として返り咲ける。

あいつを、地獄の底へ突き落とせる。

復讐のチャンスだ。

5年間、泥水をすするような思いで待ち望んでいた瞬間が、今ここにある。

「ケンジさん、これ売りましょうよ! スクープっすよ!」

レンが興奮して叫ぶ。

だが、俺の目は、日記の最後のエントリーに釘付けになっていた。

死亡推定時刻の、わずか数時間前に書かれたものだ。

第三章 復讐のトリガー

『胸が苦しい。もう長くないかもしれない。

もし、誰かがこれを見つけてくれたなら、お願いがあります。

このスマホのデータを、すべて消してください。

あの子は、弱い子なんです。

虚勢を張って、嘘で固めて、そうしないと立っていられない弱い子なんです。

私が生きていると知れたら、あの子が積み上げてきたすべてが崩れてしまう。

私は、あの子の母親でいられて幸せでした。

遠くから見ているだけで、十分でした。

だから、どうか、私の存在ごと、消してください。

啓介へ。

お母さんは、あなたのことが大好きでした。

ご飯、ちゃんと食べてね。』

画面が滲んで見えない。

俺は奥歯を噛み締めた。

「……ふざけるな」

声が震える。

「こんな……こんな理不尽があるかよ!」

被害者であるはずの母親が、加害者である息子を最期まで守ろうとしている。

自分の尊厳を捨ててまで。

俺がこのデータを公表すれば、正義はなされる。

悪徳政治家は失脚し、社会は喝采を送るだろう。

だが、それは同時に、坂本ハナエという一人の女性の「最期の願い」を踏みにじることになる。

彼女の愛を、俺の復讐の道具にしていいのか?

「ケンジさん? どうするんすか? バックアップ、とりますよね?」

レンがPCのキーボードに手を伸ばす。

俺はその手を、強く掴んだ。

「……やめろ」

「え?」

「バックアップは取らない」

「はあ!? 何言ってんすか! これがあれば、あんたをハメた奴らに復讐できるんですよ!? 数千万、いや億で売れるネタじゃないっすか!」

「ああ、そうだな。これで俺の人生は取り戻せる」

俺はスマホを握りしめた。

冷たい機械のはずなのに、そこには確かな温もりがあった。

あの日、捏造記事の責任を問われ、会社を去る俺の背中に投げつけられた罵声。

失った家族、恋人、誇り。

それらすべてを取り戻す鍵が、この指先にある。

だが。

俺の脳裏に、この部屋の光景が浮かんだ。

腐った蜜柑。

山積みのゴミ。

その中で、たった一人、スマホの画面に息子の姿を探し続けた母親。

彼女は、世界中が敵に回っても、息子を守り抜こうとした。

その覚悟を、俺のエゴで「ゴミ」にしていいはずがない。

「俺は……」

記者の魂が叫ぶ。

『真実を暴け』と。

だが、人の心が囁く。

『愛を守れ』と。

俺は、スマホの画面をスワイプした。

設定画面。

初期化。

「ケンジさん、マジっすか……」

「レン、よく聞け。俺たちの仕事はなんだ?」

「え……デジタル遺品整理、ですけど」

「違う。俺たちは、死者の『想い』を整理するんだ。残されたものが、前を向けるように」

東郷啓介は、一生この事実を知ることはないだろう。

母親が最期まで自分を愛していたことも、自分がどれほど愚かなことをしたかも。

彼はこれからも、偽りの正義を掲げて生きていく。

それは許しがたいことだ。

だが、もしここで俺がデータを公表すれば、坂本ハナエは「息子を破滅させた母親」として歴史に名を残すことになる。

彼女の「子供食堂への寄付」という善意さえも、「汚職政治家のマネーロンダリング」として色眼鏡で見られるだろう。

彼女の純粋な愛を守る方法は、一つしかない。

最終章 削除キー

指先が、ガラスの表面で止まる。

『すべてのデータを消去しますか? この操作は取り消せません』

警告メッセージが無機質に点滅する。

俺は息を深く吸い込んだ。

部屋の澱んだ空気が、少しだけ澄んで感じられた。

「さよなら、東郷啓介」

俺は、復讐相手への別れを告げた。

そして、心の中で呟く。

「おやすみなさい、ハナエさん」

タップした。

画面が一瞬暗転し、そしてメーカーのロゴが表示される。

プログレスバーが伸びていく。

俺の復讐が、俺のスクープが、そしてハナエさんの孤独な30年が、0と1の海へと還っていく。

「あーあ、もったいない。本当にもったいない」

レンが大げさにため息をつき、頭を抱えた。

「いいんだ。これで」

俺はスマホを布団の上にそっと置いた。

まるで、遺体を安置するように。

「帰るぞ、レン。腹減ったな」

「……っすね。何食います?」

「子供食堂、行ってみるか。今日は一般開放日だろ」

「は? 何キャラ変してんすか」

アパートを出ると、東京の空はどんよりと曇っていた。

だが、俺の足取りは、ここ数年で一番軽かった。

ポケットの中で、自分のスマホが震えた。

ニュース速報だ。

『東郷厚生労働大臣、支持率急上昇。子育て支援策を強化へ』

皮肉なもんだ。

だが、その支援策の裏には、一人の老婆の、名もなき愛が隠されている。

それを知っているのは、世界で俺たち二人だけだ。

俺は空を見上げ、深く息を吐いた。

21グラムの魂は、空へ還った。

手元に残ったのは、空っぽになったスマホと、少しだけの誇り。

「悪くない」

雑踏の中に、俺たちは消えていった。

誰も知らない、真実を抱えて。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 相沢ケンジ (42): 元新聞記者のデジタル遺品整理人。一度見た文章を忘れない「映像記憶」の持ち主。過去に政治家のスキャンダルを追って逆に罠に嵌められ、職と家族を失った。シニカルだが、根底には真実を追求するジャーナリズム精神と情熱が残っている。
  • 坂本ハナエ (72): 孤独死した老女。ゴミ屋敷の住人として近所から疎まれていたが、実際は大臣の実母であり、匿名で子供食堂を支え続けた「聖女」。息子のキャリアを守るために自ら社会的な死を選んでいた。
  • レン (20代): ケンジのアシスタント。現代っ子で効率主義。感情論よりも金銭的価値を優先するが、ケンジの生き様に少しずつ影響を受けていく。物語の視点における「一般的な現代の若者」を象徴する。
  • 東郷啓介 (45): 厚生労働大臣。貧困からの叩き上げとして人気だが、実は実母を見捨てて生きている。物語の「見えない悪」として存在し、直接登場はしないが、物語の核となる。

【考察】

  • 「デジタル遺品」という現代の闇: 物理的な肉体は21グラムの魂として消えるが、デジタルデータは半永久的に残る。本作は「死後のプライバシー」と「残された真実」のどちらが重いかを問いかける。
  • ゴミ屋敷と子供食堂の対比: 社会から見捨てられた場所(ゴミ屋敷)から、社会を支える善意(寄付)が生まれていたという逆説。見た目や肩書きだけで人間を判断する現代社会へのアンチテーゼである。
  • 「削除」という救済: 通常、物語のクライマックスは「真実の暴露」であるが、本作では「真実の隠蔽(削除)」こそが故人への最大の供養であり、愛の証明であるという結末を採用している。これにより、主人公は社会的な復讐よりも、個人的な倫理と人間性を選択したことになる。
  • 映像記憶の皮肉: 「忘れることができない」主人公が、他人の記憶を「消す」仕事をすることの皮肉。彼が最後にデータを消去する行為は、彼自身が過去の呪縛から解放されるための儀式とも解釈できる。
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