■ 第1章:焼却炉に落ちた銀星 ■
深夜の第7廃棄区画。空気をねっとりと満たすのは、酸化した鉄の錆びた匂いと、肺の奥にこびりつく生ゴミの腐臭だ。
煤と油にまみれた作業着の袖で額の汗を拭い、レオは忌々しげに舌打ちをする。くすんだ灰色の髪が鬱陶しく目元にかかる。光を失った三白眼が、巨大な焼却炉の火を睨みつけていた。首元に刻印されたバーコードの刺青が、灼熱の照り返しを受けてぬらりと赤く脈打つ。
レオ「俺たちは所詮、使い捨てのゴミ。ゴミがゴミを燃やす……笑えねえ冗談だ」
独りごちたレオは、自身よりも大きな黒い廃棄袋を無造作に持ち上げる。
火の粉が舞い散る火口へ放り投げようとした。
その時。
袋の底が、生々しい肉の音を立てて裂けた。
ゴスッ。
重たい音がコンクリートの床を叩く。
転がり出たのは、ガラクタではない。
ボロボロに引き裂かれた真っ白なドレス。血と泥に塗れてなお発光するような、透き通る銀髪。華奢な手首には、皮膚に食い込むほどきつく締められた手錠の痕が、痛々しく赤く腫れ上がっている。
トクン……トクン。
微かな胸の上下。
生きている。少女の血に汚れた小さな手が、鈍く光る金属製の円柱――電子錠のマスターキーを、死に物狂いで握りしめていた。
シオン「……こわさ、ないで……」
虚ろな青い瞳が、レオを捉える。
関わるな。理性がけたたましく警鐘を鳴らす。この街で、見捨てられた弱者に手を差し伸べることは、己の寿命をドブに捨てることと同義だ。
踵を返そうとした。
その鼓膜を、引き裂くような爆音が貫く。
パァァァンッ!!
レオの頬を掠めた銃弾が、背後の蒸気パイプを吹き飛ばした。
熱湯の飛沫と火花が噴出する。
硬質な軍靴の音が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
漆黒の軍服。冷たく切り揃えられた金髪のショートボブ。赤く縁取られた唇が、氷のように冷ややかな弧を描いている。
マリア「秩序を乱すゴミは、焼却炉がお似合いです。一匹残らず、灰になさい」
治安維持部隊隊長、マリア。
サディスティックな嗜虐心を微塵も隠そうとしない鋭い眼差しが、這いつくばる虫けらを見るようにレオと少女を見下ろしていた。
十数名の装甲兵が、一斉にアサルトライフルの銃口を向ける。
レオ「……クソッ!」
理性を蹴り飛ばし、身体が反射的に動いた。
油に塗れた腕でシオンの細い身体を掻き抱き、床のグレーチングを全力で蹴り破る。
閃光。
無数の鉛玉が雨のように降り注ぐ。
二人は轟音を立てて流れる真っ暗な地下水路へと、真っ逆さまにダイブした。
冷酷な銃弾が空気を切り裂き、汚水に次々と水柱を上げる。
氷のように冷たい濁流に呑み込まれながら、レオは少女の微かな体温だけを頼りに、暗闇の底へと必死に泳いだ。
逃げ延びた先。廃棄された浄水施設。
ずぶ濡れのレオが荒い息を吐きながら少女をコンクリートの床に寝かせると、彼女は哀愁を帯びた青い瞳で、そっと己の正体を口にした。
シオン「ごめんね……。私は、人間じゃないの。この街のシステムを動かすための、『生きた部品』だよ」
■ 第2章:真実の泥濘と甘い紫煙 ■
ぽつり。ぽつり。
錆びた天井から、冷たい地下水が滴り落ちる。
カビとヘドロの匂いが充満する廃墟の中で、シオンは震える唇を動かした。
シオン「上層の綺麗な光はね、下層の命を吸い上げて燃やしてるの。私はその管理システムを完成させるための、生体キー……。いずれ自我を消されて、永遠に機械の一部になる運命なの」
透き通るような声が、冷たい地下室の壁に反射する。
中央管理塔でデザインされた試験管ベビー。彼女の血筋も、命の重さも、すべては狂った都市を回すための歯車に過ぎない。
レオは奥歯が砕けるほど強く噛み締めた。
幼い頃に親に売られ、過酷な労働で肺を真っ黒に染め上げてきた己の過去。それが目の前の少女と重なる。何も変えられないと諦観を気取っていたはずの胸の奥底で、ドス黒い炎が酸素を得て爆発した。
レオ「……ふざけんな。テメエの命は、テメエのモンだ」
乱暴な口調とは裏腹に、レオはシオンの冷え切った細い肩に、自分の汚れた上着を無造作に被せた。
不器用で情に厚い捨て犬の性が、彼女を見捨てることを決して許さない。
頼れるあては一つしかなかった。第3商業区の裏社会を牛耳る男。かつて共に体制に抗い、今は裏社会の顔役としてレオを拾い、育て上げた男だ。
ネオンサインが泥水に反射する裏路地の奥。
隠れ家の重い鉄扉を開けると、芳醇な密造酒と葉巻の紫煙が鼻腔を突いた。
ガルド「よォ、レオ。薄汚ねえネズミが、随分と厄介な獲物を拾ってきたじゃねえか」
高級な仕立てのスーツをだらしなく着崩し、右目に革の眼帯をした男、ガルド。
無精髭を撫でながら、彼は常に咥えている葉巻の煙を、ゆっくりと天井へ吹き吐いた。
大人の余裕。そして、血生臭い路地裏で生き抜いてきた凄みが、その巨躯から立ち上っている。
レオ「頼む、ガルド。こいつを街の外へ逃がす手筈を整えてくれ。金なら後でいくらでも払う」
ガルド「……まあ、座れ。まずは冷えた腹を温めな」
テーブルに置かれたのは、湯気を立てる合成肉のスープと、ひび割れたマグカップ。
シオンは恐る恐るスープを口に運ぶ。凍えていた青白い頬に、微かな赤みが差した。
その様子を見届け、レオが取引の材料になるジャンクパーツを取りに行こうと背を向けた。
その刹那。
チャキッ。
凍りつくような金属音が、狭い部屋に響く。
レオが振り返った。
ガルドの手に握られた大口径リボルバーの冷たい銃口が。
スープを飲むシオンの銀髪の真後ろに、ピタリと突きつけられていた。
レオ「ガルド……ッ! テメエ!」
■ 第3章:裏切りの鉛玉と最悪の真実 ■
ガルド「この街じゃあ、正義より今日のパンの方が重いのさ。お前もそれは、嫌ってほど学んだはずだぜ」
ガルドの左目が、蛇のように細められる。
飄々とした態度の裏に隠された、徹底した現実主義。圧倒的な体制の力への絶対的な恐怖が、かつての恩人を、ただの権力の犬へと変貌させていた。
レオ「あんたが……あんたが俺に、抗うことを教えたんだろうが!」
ガルド「無駄な理想で死ぬのは、犬だけで十分だ」
言葉が終わるか終わらないかのうちに。
隠れ家の分厚い扉が、仕掛けられた爆薬で派手に吹き飛ばされた。
土煙が舞う中から、硬質な足音が響く。
漆黒の軍服を纏ったマリアが、数十名の装甲兵を引き連れ、優雅な足取りで踏み入ってきた。
マリア「素晴らしい働きです、ガルド。路地裏の泥水で育ったドブネズミには、お似合いの末路ですね」
シオン「……いや……こないで……」
真っ赤なリップを歪め、マリアはシオンの震える手にあるマスターキーを冷酷に見下ろす。
マリア「その生体キーは、彼女の心臓と完全にリンクしています。システムを破壊したいなら、その娘の心臓を物理的に潰すしかない。……ですが、我々はその心臓を生きたまま抉り出し、永遠のシステムとして都市の基盤に組み込む」


シオンヲ殺スシカナイ?
マリアの嘲笑が、レオの脳髄をかき回す。
システムを終わらせるには、シオンを殺すしかない。
だが体制は、彼女を生かしたまま永遠の苦痛を与えようとしている。
レオ「ふざけんなァァッ!!」
レオが懐のレンチに手をかけた。
直後。火薬の破裂音が、鼓膜を打ち据える。
ズドンッ!
ガルドのリボルバーから放たれた鉛玉が、レオの腹部を情け容赦なく貫いた。
焼け付くような激痛。胃液と血の鉄臭い味が、一気に喉を駆け上がる。
レオは血溜まりの中に、無様に崩れ落ちた。
視界が、赤く、黒く、明滅する。
床に突っ伏したレオの耳に、シオンの引き裂かれるような悲鳴が届いた。
マリアがシオンの銀髪を無造作に鷲掴みにし、床を乱暴に引きずっていく。
マリア「大人しくしなさい、部品。貴女に意志など必要ありません」
遠ざかる足音。床にこすれるドレスの布擦れ。
このまま終わるのか。
また、奪われるだけなのか。
俺たちは所詮、使い捨てのゴミだ。
ドクン。
違う。
ドクンッ!!
腹の傷から止めどなく溢れる血を両手で押さえ、レオは獣のように低く呻いた。
奥歯を噛み割り、口の端からドス黒い血反吐を垂らしながら。
油と泥と血に塗れた歯車が、狂ったように噛み合い、激しく回り始める。
レオ「……返せ。……そいつは、俺の……希望だッ!」
■ 第4章:血塗られた歯車たちの鎮魂歌 ■
レオ「ガァァァァァッ!!」
咆哮。
レオは死に物狂いで地を蹴った。
装甲兵のライフルが火を噴くより早く、懐から引き抜いた重厚なレンチを高く振り被る。
腹部の傷口から鮮血を撒き散らす。眼球は真っ赤に血走り、常軌を逸した殺意だけがその肉体を動かしていた。
ガルド「チィッ!」
ガルドがリボルバーの撃鉄を起こす。
だが、レオの執念がコンマ一秒、男を上回った。
ゴシャァッ!!
振り下ろされたレンチの重い鉄塊が、ガルドの胸郭を深く叩き割る。
肋骨が粉々に砕ける、生々しい音。
ガルドの口から大量の血が噴き出し、咥えていた葉巻が床の泥水へ虚しく転がり落ちた。
ガルド「……悪く、ねえ……一撃、だ……」
育ての親の顔に浮かんだのは、苦痛だったのか。それとも、すべてを終える安堵の笑みだったのか。
巨体が崩れ落ちるのを跨ぎ越し、レオは止まらない。そのままマリアへと突進する。
マリア「狂犬が……ッ! 撃ちなさい! 撃ち殺しなさい!」
美しい顔を醜く歪め、マリアが腰の軍刀を引き抜く。
鋭い刃がレオの肩口を深く切り裂いた。
だが、レオは痛みを完全に無視する。そのままマリアの腕を力任せに掴み、渾身の頭突きを顔面に叩き込んだ。
メキッ。鼻骨の折れる鈍い音。
悲鳴を上げ、顔面を血に染めたマリアは、装甲兵を盾にして無様に後退する。
マリア「……撤退! 覚えていなさい、このクズが!」
残存部隊が煙幕弾を放ち、足早に闇の中へ逃げ去っていく。
後には、むせ返るような濃密な血の匂いと、完全な静寂だけが残された。
血の海の中心。
膝をつき、肩で荒い息を吐くレオの前に、シオンが静かに歩み寄る。
ボロボロの白いドレスは赤黒く染まり、透き通る銀髪も血に濡れて、頬に重く張り付いていた。
彼女の細く冷たい指先が、レオの血まみれの頬をそっと包み込む。
ひどく冷たいはずなのに、火傷しそうなほど熱く感じた。
青い瞳には、一切の迷いがない。
シオン「ありがとう、レオ。……私のために、怒ってくれて」
シオンはマスターキーを握るレオの汚れた手を取る。
そして、己の左胸。心臓の位置へと、ゆっくりと誘導した。
柔らかな膨らみ越しに、トクン、トクンという命の脈動が、レオの掌に直に伝わってくる。
シオン「私の命で、誰かの明日が来るなら。……私を殺して。この狂った街を、終わらせて」
微かに微笑む彼女の胸の奥で、確かな命が鳴っている。
これを壊せば、街のシステムは崩壊するだろう。
上層の連中もろとも、この狂った箱庭は終わる。
彼女が永遠の部品として生きたまま搾取されることもなくなるのだ。
だが。それは。
レオの手が、激しく震えた。
初めて見つけた、守るべきもの。
理不尽な泥水の中で、唯一触れた透き通るような希望。
それを、自らの手で、完全に潰さなければならない。
レオ「ああああああああああああああああああっ!!」
喉が裂けるほどの叫び声を上げる。
レオは瞳を強く閉じ、引き金を引いた。
パァァァァァァンッ!!
炸裂した銃声が地下室の壁に木霊し、やがて消える。
同時に、シオンの身体から糸が切れたように力が抜け、マスターキーが砕け散った。
その瞬間。
ドォォォォォン……ッ!
地鳴りのような重低音と共に、都市の天蓋を覆っていた眩い光が、一つ、また一つと落ちていく。
配電システムが完全に沈黙した。
上層から下層まで、圧倒的な暗闇が街全体を飲み込む。
偽りの光が消え、真の静寂が訪れた。
暗闇の中。
レオはぬくもりを急速に失っていくシオンの小さな身体を、ただ強く、強く抱きしめていた。
血に濡れた獣のように。
自由と引き換えにすべてを失った男の悲痛な嗚咽だけが、終わった世界に、どこまでも虚しく響き渡っていた。