第一章: 時給九百八十円の口止め料
白川 結衣「あの、氷室先生。このご遺体、うなじの生え際に注射痕があります。……心不全じゃなくて、毒殺ですよね?」
ホルマリンのツンと鼻を突く刺激臭と、ステンレスの排水溝を流れる冷水の音だけが響く深夜の地下霊安室で、洗いざらしの黒髪を無造作に一つへ束ねた白川結衣が、擦り切れた白衣の袖をゆっくりとまくり上げた。
一瞬の沈黙。
直後、背後で銀縁眼鏡を冷たく光らせた長身の男、法医学准教授の氷室恭一が音もなく踏み込み、黒い解剖用エプロンのポケットから抜き放った鋭利なメスを、結衣の細いうなじへとピタリと突きつけた。
氷室 恭一「……時給九百八十円の洗浄バイトが、余計な箇所を見るな。今ここで私のメスで頸動脈を裂かれて死ぬか、一生口を閉ざすか。二つに一つを選べ」
氷のように冷徹な刃の腹が、結衣の脈打つ皮膚へ食い込む。
白川 結衣「ひっ……す、すみません、私には奨学金と親の借金が千二百万円も残ってて、今死ぬわけには……っ」
サイズの合わないブカブカのゴム長靴をキュッと鳴らして肩をすくめた結衣の目の下には、連日の過労による青黒い隈が深く刻み込まれていた。
浅く乱れる呼吸。小刻みに震える唇。
だが、怯えた小動物のように視線を泳がせながらも、解剖台に横たわる青白い遺体の皮膚へと添えられた彼女の白く細い指先だけは、不気味なほどピタリと震えを止めていた。
死後硬直は顎と首の関節のみ。死後三時間以内。カリウム製剤の急速静注による急性心停止……うなじの針穴は十八ゲージの太さ。これなら、極細のナイロン糸と医療用コンシーラーで完全に痕跡を消せる。……カモがネギを背負ってきた。
結衣は唇の端で無意識に舌を湿らせ、声だけを震わせたまま上目遣いに氷室を振り返る。
白川 結衣「……でも先生、そのまま放置すれば、明朝の司法解剖で確実にバレますよ。私なら、ベテランの解剖医でも絶対に見抜けない無痕縫合と死斑メイクで、完璧な病死体に作り変えられますけど……どうします?」
氷室 恭一「なんだと……? 貴様、今何と言った」
氷室の眉間がピクリと跳ね、メスを握る革手袋の指先にぎゅうっと力がこもる。
結衣は首筋に刃が食い込む痛みなど存在しないかのように、遺体の冷え切ったうなじの皮膚を、まるで愛しい恋人の頬を撫でるかのような繊細でうっとりとした手つきで優しく擦った。
白川 結衣「一針十万円。この深さと角度なら三十針のマイクロ縫合が必要になるので、計三百万円の現金前払いでどうですか? ……絶対に誰にも見破られないよう、綺麗に閉じてあげますから。選んでくださいね、先生」
声のトーンが、すとんと温度を失う。
氷室の冷酷な三白眼が見開かれ、遺体の肌を這う結衣の異様に白く美しい指先に釘付けになった。
ドクン、と氷室の耳奥で彼自身の鼓動がうるさく跳ねる。
氷室 恭一「……ほう。面白い。君のその指先は、生きた人間よりも死体を愛しているな。実に美しい」
白川 結衣「褒めても一円も割引はしませんよ。で、三百万円、払えるんですか?」
氷室はふっと鼻で笑ってメスを下ろすと、返答の代わりに自らのオーダーメイドの黒スーツの胸元を掴み、ボタンを引きちぎらんばかりに乱暴に引き裂いた。
蛍光灯の白い光の下に晒されたのは、鍛え上げられた胸板に刻まれた異様な傷跡。
鎖骨から心臓の上にかけて、過去に何者かに深く抉られたような古い火傷のケロイドと、百足のように醜く引き攣れた手術の縫合跡が生々しく露わになる。
氷室 恭一「金ならいくらでもくれてやる。だがその前に、まず私のこの醜い古傷で、君のその傲慢な腕前を証明してみせたまえ」
第二章: 生きた皮膚への死化粧

内側から厳重に鍵がかけられた密室の霊安室で、ステンレスの解剖台に仰向けになった氷室の腹部の上へ、結衣が濡れたゴム長靴のまま無造作に馬乗りになる。
氷室の高級な革靴が解剖台の端でカツンと鳴り、彼の荒い鼻息が結衣の白衣の裾を揺らした。
白川 結衣「……言っておきますけど、私、生きた人間の温かい肌や汗の匂いは気持ち悪くて縫えません。少し冷やしますね」
結衣は感情のこもらない瞳で氷室を見下ろすと、床に置いてあった洗浄用のバケツを持ち上げ、氷の浮いた冷水を氷室の引き裂かれた胸元へ容赦なくぶちまけた。
さらに白衣のポケットから取り出した医療用冷却スプレーのノズルを向け、凍りつくような白煙を至近距離から鎖骨の古傷へと一気に吹き付ける。
氷室 恭一「ぐ、ぅっ……! つ、冷たい……っ、皮膚の感覚が、麻痺して……っ!」
氷室の背筋が弓なりに反り返り、冷水に濡れた黒髪がステンレスの台に張り付く。
白川 結衣「ええ、そうやって死体みたいに冷たくなってください。動くと縫い目が歪みますから。……それにしても、前の医者の縫い方、雑で本当に汚いですね。私が全部切り開いて、私の作品として綺麗に縫い直してあげます」
ゴム手袋をパチンと音を立てて外した結衣の、消毒薬と冷水でふやけた氷のように冷たい指先が、氷室の凍えきった鎖骨の傷跡へと触れた。
ビクッ、と氷室の胸筋が激しく痙攣する。
結衣はためらうことなく医療用ピンセットで硬くなったケロイドの端を強くつまみ上げると、麻酔も打たず、極細の湾曲針を古い瘢痕組織へと深々と突き立てた。
氷室 恭一「あ、ぐうぅっ……! ぁ、はぁっ……! ま、麻酔なしで、いきなり……っ!」
鋭い痛覚が神経を駆け巡り、氷室の口から獣のような熱い吐息が漏れる。
白川 結衣「生きた肉の練習台なので、一針五百円でいいですよ。……綺麗に閉じてあげますから、息を止めて、死体みたいに静かにしていてくださいね」
結衣が黒い極細のナイロン糸を容赦なく引き絞るたび、氷室の引き攣れていた皮膚が寸分の隙間もなくピタリと合わさり、針穴から鮮血の赤い玉がぷつり、ぷつりと滲み出た。
痛みと冷たさの狭間で、ドクン、ドクンと氷室の喉仏が激しく上下し、銀縁眼鏡の奥の三白眼が異様な熱を帯びてどろりと潤んだ。
氷室 恭一「はぁ、ぁ……っ、いい……素晴らしいよ、白川くん……っ! 君の氷のような指先が、私の肉を貫いている……っ! もっとだ、もっと強く引き絞ってくれ……私のこの醜い傷を、君だけの所有物にしてくれ……っ!」
氷室の革手袋をはめた手が解剖台の縁をギリギリと掴み、快楽に耐えるように奥歯が噛み締められる。
ああ、たまらない。昼間はあんなに偉そうにふんぞり返っているエリート准教授が、私の針と糸一本で、一切抵抗しない従順で綺麗な標本に変わっていく……っ。もっと縫いたい。この人の皮膚も、秘密も、銀行口座も、全部私の糸で縫い留めてやる。
結衣の背中をぞくりと甘い悪寒が駆け上がり、無意識に彼女の吐息も熱く湿り気を帯びた。
白川 結衣「……はい、先生。他の誰にも触れられないように、きつく、きつく縫い留めてあげますね……っ」
結衣が恍惚と息を吐きながら、三十針目の最後の糸をピンセットで結ぼうとした、まさにその時だった。
カシャッ! カシャシャッ! と静まり返った霊安室のステンレスロッカーの隙間から、暴力的なまでに乾いた電子シャッター音が連続して響き渡った。
結衣の指が止まる。
次の瞬間、遺体保管用ロッカーの扉が内側から乱暴に蹴り開けられ、金髪に近い茶髪に複数のシルバーピアスをじゃらじゃらと揺らした革ジャンの男、ゴシップ記者の黒崎蓮が、スマートフォンを構えたまま転がり出てきた。
黒崎 蓮「ひゃはっ、特大スクープ撮れたぜ先生! 大物政治家の息子の変死体隠蔽に、解剖台の上での異常なSMプレイ動画! ネットにばら撒かれたくなきゃ、今すぐ一千万出せよ!」
第三章: 解剖台の上の三つ巴

氷室 恭一「黒崎……っ! 貴様、どうやってここの電子ロックのセキュリティを突破した!」
解剖台から弾かれたように飛び起きた氷室が、血の滲む胸元のシャツを片手で押さえ、もう片方の手で銀色のメスを構えて黒崎を睨みつける。
黒崎はヨレヨレの革ジャンのポケットに突っ込んだ手で小銭をチャリンチャリンと下品に鳴らしながら、ハイエナのようにぎらついた充血した目で二人を交互に指差した。
黒崎 蓮「あんな旧式のカードキー、ピッキングなんて朝飯前っしょ! それよりそこのバイトちゃん、あんた完全に騙されてるぜ? その解剖台の上の政治家の息子をカリウムで毒殺した真犯人はな……氷室先生、あんた自身だよなァ?」
霊安室の空気が、絶対零度へと凍りつく。
換気扇の回る低い唸り声だけが、やけに大きく耳に障った。
黒崎 蓮「自分の次期教授選を邪魔された腹いせにそのボンボンを毒殺して、自分が管理するこの霊安室で病死に偽装しようとしてたのさ! どうするバイトちゃん? あんた、今や殺人犯の隠蔽を手伝った立派な共犯者だぜ!」
氷室 恭一「ち、違う、白川くん、これはやむを得ない事情が……っ!」
血の気を失って蒼白になった氷室が、結衣に裏切られる恐怖で唇を震わせ、メスを握り直す。
彼の額から、冷たい脂汗がすじとなって流れ落ちた。
だが、結衣は血のついたピンセットを白衣のポケットへ静かにしまうと、怯えたように肩をすくめ、ゴム長靴を引きずるおどおどした足取りで黒崎の目の前まで歩み寄った。
白川 結衣「……あの、黒崎さん。で、あなたがそのスマホの動画を消してくれる値段は、いくらですか?」
黒崎 蓮「ああん? 決まってんだろ、一千万……いや、今の殺人の証拠込みで二千万だ! ほら、よく見ろよこの決定的な動画をよぉ! あんたが先生の胸を縫ってるドアップもバッチリ映ってんだぜ!」
黒崎が黄色い歯を剥き出しにして勝ち誇り、再生中のスマートフォンの画面を結衣の顔面すれすれへと突き出した、その刹那。
結衣の白い右手が、白衣の袖口から閃光のようにしなった。
彼女が袖の中に隠し持っていた死体防腐処理用の極太の注射器が、無防備に晒された黒崎の首筋、拍動する頸動脈へと寸分の狂いもなく深々と突き刺さる。
黒崎 蓮「が、ぁっ……!? な、にを……っ、い、息が……でき、ねぇ……っ!」
結衣の細い親指が、ためらいなくピストンを最後まで押し切った。
致死量ギリギリの高濃度筋弛緩剤を一気に血管へと流し込まれた黒崎が、目玉を剥いてスマートフォンを取り落とし、ステンレスの冷たい床へとドサリと崩れ落ちる。
口の端から白い泡を吹き、手足を不規則にバタつかせて激しく痙攣する黒崎。
結衣は彼の引き攣る指先をゴム長靴の踵で無造作に踏みつけると、空になった注射器を金属トレイにカランと置き、一切の温度を持たないガラス玉のような瞳で氷室を振り返った。
白川 結衣「……氷室先生、お仕事が増えましたね。一人分の死化粧と、もう一人分の口封じ。二人分なら、私の特別報酬はいくらかかりますか?」
第四章: 共犯者たちの縫合契約
夜明け前の青白い闇が地下の換気窓に滲み始める頃、霊安室の床では、手足を医療用拘束ベルトで固く縛り上げられた黒崎が、浅い呼吸を繰り返しながら気絶していた。
結衣はしゃがみ込み、痙攣の収まった黒崎の親指を乱暴に掴んでスマートフォンの指紋認証ロックを解除すると、慣れた手つきで画面をスワイプし、クラウドのバックアップごと動画データを完全に消去した。
さらに彼女は立ち上がり、氷室のデスクのパソコンから抜き出してきた銀色のUSBメモリを、気絶している黒崎の革ジャンの内ポケットへと無造作にねじ込む。
白川 結衣「先生が半年前に検死報告書を書き換えて揉み消してあげたっていう、この人の過去の飲酒ひき逃げ事件の証拠データ、全部コピーしておきました。目が覚めても、この人はもう一生私たちに吠えられませんよ」
氷室 恭一「なっ……いつの間に私のパソコンの複雑なパスワードを……?」
胸元の傷を押さえたまま呆然と立ち尽くす氷室に、結衣は小首を傾げて微笑んだ。
白川 結衣「さっき先生が解剖台の上で、私の針で気持ちよさそうに喘いでいる間に、先生の視線の動きと指の癖でパスワードを読み取りました。このゴシップ記者は、自分が刑務所に行くか、私に毎月お小遣いを払うかの二択になりますね」
氷室の背筋が、恐怖と歓喜の入り混じった戦慄で粟立つ。
結衣はくるりと踵を返し、解剖台の上に横たわる政治家の息子の遺体へと向き直った。
すでに極細のナイロン糸で完璧に閉じられたうなじの注射痕の上へ、彼女自身がパレットで調合した死斑隠し用の医療用コンシーラーを、細い筆先で滑るように塗り重ねていく。
一刷毛ごとに、他殺の証拠であった針穴も縫い目も、まるで最初から何一つ存在しなかったかのように、遺体の青白い皮膚へと完全に溶け込んで消え去った。
氷室 恭一「……見事だ。神業だよ、白川くん。これなら、明朝私が執刀医として解剖しても、絶対に他殺とは見抜けない……っ」
芸術品でも見るかのように呆然と見惚れる氷室の顎を、結衣はコンシーラーの匂いが残る冷たい指先でぐいと持ち上げ、自分より頭一つ分背の高い男を上目遣いに覗き込んだ。
白川 結衣「氷室先生。今回の隠蔽代三百万と、先生の殺人を見逃す一生分の口止め料を合わせて……私の奨学金と親の借金、計千二百万円。今日中に全額、私の口座へ振り込んでくださいね」
氷室の喉がゴクリと鳴り、銀縁眼鏡の奥の瞳が、結衣の冷たい指先に触れられた快感でトロンと蕩ける。
氷室 恭一「ああ……払うとも。千二百万でも、一億でも……君が望むなら、私の地位も財産もすべて差し出そう」
白川 結衣「ふふ、ありがとうございます。……その代わり、これからも先生が作る汚い死体と、先生のその胸の傷は、私が全部一針ずつ綺麗に縫ってあげますからね。他の誰にも、絶対に見せちゃダメですよ?」
甘い毒のような囁きが耳朶を打ち、氷室はついに膝からガクリと床へ崩れ落ちた。
プライドの塊だったはずの法医学准教授が、結衣の汚れたゴム長靴のつま先に自らの額を擦りつけながら、彼女の白く冷たい指先を両手で押し戴き、恭しく唇を這わせる。
氷室 恭一「ああ、結衣……私の罪も、この命も、キャリアも……すべて君のその冷たい針で、一生縫い留めてくれ……っ」
♥足元で忠実な猟犬のように震える男の熱い吐息を感じながら、結衣の胸の奥で、かつてないほど甘美で暴力的な支配欲がドクドクと脈打っていた。[/Heart]
その時、静まり返った霊安室に、軽快な電子音が場違いなほど明るく響き渡った。
ピロリン♪『振込入金のお知らせ:12,000,000円』
氷室が震える手で操作したスマートフォンの送金完了画面と、自分の白衣のポケットで光った入金通知の画面を交互に見つめ、結衣の薄い唇が三日月のように深く、妖しく裂けた。
借金完済。そして、絶対に逃げられない金のなる木の完成。
結衣は血と薬品の匂いが染み付いた白衣のポケットから、まだ新しい銀色の湾曲針をもう一本取り出し、蛍光灯の光に透かしてうっとりと目を細めた。
白川 結衣「……まいどあり。じゃあ先生、夜が明ける前に、次の縫い直しを始めましょうか」