時を喰らう恋
第一章 砂の舞う古書店
神保町の裏路地、時の流れから取り残されたかのような古書店『刻詠堂(こくえいどう)』が、蓮の仕事場であり、彼の聖域だった。古い紙とインクが混じり合った独特の匂いが、彼の呼吸を穏やかにする。ここでは、誰もが持つ『運命の砂時計』の存在を忘れられた。人々が自身の感情の質量を、胸元で淡く光る砂時計の砂の量で確認し合うこの世界で、蓮は自らの心を固く閉ざして生きてきた。
彼の特異体質――誰かを深く愛すると、その相手と過ごす物理的な時間が短縮される――は、呪い以外の何物でもなかった。愛が深まれば深まるほど、出会いから別れまでの季節は猛烈な速度で過ぎ去り、やがて強制的に終わりを迎える。だから蓮は、誰にも心を寄せず、古書の中に広がる不変の物語だけを愛していた。
その静寂が破られたのは、春の柔らかな光が埃をきらめかせる、ある日の午後だった。
「こんにちは」
鈴を転がすような声とともに、扉が開いた。そこに立っていたのは、陽だまりをそのまま纏ったような女性だった。彼女の名は澪。ラベンダーの香りをふわりと漂わせ、好奇心に満ちた瞳で店内を見回している。彼女の胸元で揺れる砂時計は、驚くほど砂が少なく、まるで生まれたての赤子のように軽やかだった。
「何か、お探しですか」
蓮の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「ええと…古い詩集を。誰の、というわけではないんですけど、なんだか呼ばれた気がして」
澪は屈託なく笑った。その笑顔が、蓮の築いてきた壁に小さなひびを入れる。彼は気づいていた。自分の砂時計の砂が、ほんのわずかに落下速度を早めたことに。胸の奥が、ずくりと痛んだ。それは恐怖の兆候だった。
彼女は一冊の古びた詩集を手に取った。その背表紙をなぞる彼女の白い指先から、目が離せない。
「この本、いただきます」
彼女が本を差し出した時、二人の指先が触れた。ほんの一瞬。しかし、蓮の砂時計は明確に反応し、サラサラと音を立てんばかりに砂を落とした。同時に、蓮は見てしまった。澪の砂時計の中で、底に溜まるはずの砂が一粒、ふわりと宙に舞い上がったのを。
それは、あり得ない現象だった。愛の質量が対象の物理法則を歪める、その法則の最も危険な現れだった。
「ありがとうございます」
澪は微笑み、店を出ていった。扉のベルがちりん、と寂しげに鳴る。蓮は自分の胸元の砂時計を強く握りしめた。加速する砂の落下が、指先に熱を伝えていた。もう、会うべきではない。そう頭では分かっているのに、心に残ったラベンダーの香りと彼女の笑顔が、彼の孤独を静かに侵食し始めていた。
第二章 加速する季節
蓮の決意とは裏腹に、澪は頻繁に刻詠堂を訪れるようになった。彼女はいつも新しい発見をした子供のように目を輝かせ、蓮に話しかけた。本の匂いが好きだと言い、蓮が淹れる少し苦いコーヒーを美味しいと笑った。彼女の屈託のなさに、蓮の心は少しずつ解かされていった。
二人はいつしか、店の外でも会うようになっていた。公園のベンチで他愛ない話をし、沈む夕日を二人で眺めた。澪の隣にいると、世界の色彩が豊かになる気がした。しかし、その幸福感と引き換えに、時間は容赦なく蓮から未来を奪っていく。
春の桜並木を歩いた記憶は、気づけば真夏の日差しに焼かれ、蝉時雨が降り注ぐ中を歩いたはずが、次の瞬間には足元で乾いた落ち葉が音を立てていた。季節が、ページを乱暴にめくるように過ぎていく。
「ねえ、蓮」
冷たい風が吹くようになったある日、澪が不安そうに呟いた。
「私たち、出会ってからまだ半年も経っていないはずなのに、もう冬の匂いがするね」
彼女は自分のコートの襟をぎゅっと合わせた。その言葉に、蓮の心臓は氷水に浸されたように冷たくなる。
彼の愛が、二人の時間を喰らっている。その証拠に、澪の『運命の砂時計』はもはや時計としての機能を失っていた。内部の砂は常に竜巻のように舞い上がり、美しいが不吉な光景を作り出している。そして、蓮自身の砂時計は、もはや滝のように砂を落とし続けていた。残された時間は、もう僅かしかない。
世界にも、その歪みは現れ始めていた。テレビのニュースは、原因不明の局地的な時間の歪みを報じ、街角の時計は頻繁に狂った。人々は自らの砂時計を見つめ、言いようのない不安に顔を曇らせる。
「蓮と一緒にいると、あっという間に時間が過ぎちゃう。でもね」
澪は蓮の冷たい手を、その温かい両手で包み込んだ。
「すごく、幸せだよ」
真っ直ぐな瞳が、蓮を射抜く。その純粋な愛情が、蓮の愛をさらに増幅させ、時間の崩壊を加速させていることに、彼女は気づいていない。蓮は何も言えず、ただ彼女の手を握り返すことしかできなかった。握りしめたその温もりが、間もなく失われることを知りながら。
第三章 停止世界への序曲
世界の異常は、もはや誰もが無視できないレベルに達していた。人々が街中で突然マネキンのように静止する『時間停止(タイムフリーズ)』現象が多発し、社会は混乱の極みにあった。空の色は一日のうちに何度も目まぐるしく変わり、まるで世界そのものが悲鳴を上げているようだった。
蓮は店の奥深く、禁書にも指定されている古文書を読み解いていた。そこには、世界の成り立ちに関するおぞましい記述があった。
『この世界は巨大な砂時計。愛の総量は常に一定に保たれ、均衡を司る『調律者』が存在する。だが、規格外の愛――あまりに重すぎる感情が生まれた時、システムの均衡は崩壊する。調律者は世界の崩壊を防ぐため、最後の手段として時を完全なる静止へと導く』
蓮の愛が、世界の時を止めようとしていた。彼は絶望に打ちひしがれた。澪を愛することが、澪のいる世界そのものを破壊する行為だったのだ。
その時だった。
「蓮、大変!街の人たちが…!」
澪が息を切らして店に飛び込んできた。彼女に促され外に出ると、そこは異様な光景が広がっていた。行き交う人々、車、舞い散る木の葉、そのすべてがピタリと動きを止めている。音のない世界。まるで時間が死んでしまったかのようだった。
「どうして…?」
澪が震える声で呟いた、その瞬間。
彼女自身の身体が、ゆっくりと動きを失っていく。蓮の方へ伸ばされた手が、空中で止まる。驚きに見開かれた瞳の輝きが、徐々に失われていく。
「み、お…?」
蓮が彼女の名を呼んでも、返事はない。彼女は美しい彫像のように、完全に静止してしまった。
彼女の胸元の砂時計――その中で激しく舞っていた砂が、ぴたり、と動きを止めた。まるで重力を失ったかのように、空中に固定されている。
世界の終わりが、すぐそこまで迫っていた。蓮は愛する人の前で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。頬を伝う熱い雫が、アスファルトに落ちて小さな染みを作る。その染みすら、広がることをやめてしまった。
第四章 記憶のない恋人たち
世界から完全に音が消えた。風は止み、光は凍りつき、まるで一枚の絵画の中に閉じ込められたようだった。この静止した世界で動けるのは、原因である蓮、ただ一人。彼は静止した澪の頬にそっと触れた。氷のように冷たい。
彼は覚悟を決めた。古文書の最後に記されていた、禁断の一節を思い出す。
『極大の愛の質量は、解放されることで時空の因果律に干渉しうる。それは、縮む法則の逆転、すなわち時間の創生をも可能とする。だが、その代償は、愛の『起点』そのものの消滅である』
出会ったという事実が、消える。
「澪」
蓮は動かない彼女を強く抱きしめた。
「君を愛している。この気持ちが世界を壊すなら、この気持ちで、君とこの世界を救う」
彼は自らの胸に手を当てた。そこには、澪への想いが凝縮された、とてつもない質量の愛があった。熱く、重く、そしてどうしようもなく愛おしい、感情の塊。それを、彼は解き放った。
「さよなら、僕の愛した人」
瞬間、蓮の身体から純白の光が迸った。それは世界を包み込み、停止した時間を逆回しに溶かし始める。人々が動き出し、車のクラクションが鳴り響き、風が再び頬を撫でる。凍りついた光が躍動し、世界は色と音を取り戻していく。
強大なエネルギーは時空の理を書き換え、蓮と澪が出会ったという因果を綺麗に消し去った。
光が収まった時、蓮は刻詠堂のカウンターに立っていた。何事もなかったかのように。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような、説明のつかない喪失感だけが残っていた。
どれくらいの時が経っただろうか。季節は巡り、再び春が訪れた。店の扉につけられたベルが、ちりん、と軽やかな音を立てる。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
何かを探すように店内を見回す彼女と、目が合った。瞬間、胸の奥の喪失感が、甘い痛みとともに疼いた。知らないはずの顔なのに、どうしようもなく懐かしい。
「あの…何かお探しですか?」
蓮は、いつかと同じ言葉を口にしていた。
女性――澪は、少し戸惑ったように首を傾げ、そしてふわりと微笑んだ。
「いえ…。なんだか、とても懐かしい香りがしたものですから」
二人の胸元で揺れる『運命の砂時計』は、どちらも穏やかに、そして静かに時を刻み始めている。だが、その一粒一粒の砂は、誰も知らない、優しい光を微かに帯びていた。