調香師の堕落

調香師の堕落

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第一章 ムスクと雨音

廃墟のような静けさだった。

深夜二時。大手香料メーカー『ル・ブラン』の調香ラボ。

ガラス張りの壁を、激しい雨が叩きつけている。

私は試験管の中の液体を、震える手で攪拌していた。

「紗衣(さえ)さん、手が止まってますよ」

背後から、低い声が鼓膜を撫でた。

ビクリと肩が跳ねる。

振り返ると、そこには不釣り合いなほど整った顔立ちの青年が立っていた。

蓮(レン)。

三ヶ月前に配属されたばかりの、二十三歳の新人アシスタント。

彼はラボの入り口に寄りかかり、琥珀色の瞳で私を射抜いていた。

「……驚かせないで。集中しているの」

私は努めて冷徹なトーンを作る。

三十四歳、チーフ調香師としての威厳。

それを崩すわけにはいかない。

だが、蓮はふっと口角を上げ、ゆっくりと私に歩み寄ってくる。

彼の足音が、私の心臓のリズムを狂わせる。

「嘘ですね。あなたの呼吸、乱れてる」

「なっ……」

距離が近い。

彼から漂うのは、自身で調合したという試作品の香り。

シダーウッドの鋭さと、その奥に潜む、濡れたような甘いムスク。

その香りが鼻腔を侵略した瞬間、理性の壁にヒビが入る音がした。

第二章 調律

「この香水のラストノート、何かが足りないと思いませんか?」

蓮は私の背後に回り込み、耳元で囁く。

吐息が熱い。

うなじの産毛が逆立つほどの戦慄。

逃げようとする私の腰を、彼の大きな手が強引に引き寄せた。

「離しなさい、蓮!」

「足りないのは……熱ですよ、紗衣さん」

彼は私の抗議など聞こえていないかのように、白衣の上から身体をなぞり上げる。

実験台の縁に押し付けられ、逃げ場が消滅する。

「あなたの肌で、試させてください」

彼は小瓶の蓋を開け、冷たい液体を一滴、私の首筋に垂らした。

ひやりとした感触。

その直後、液体が体温で揮発し、爆発的な芳香が立ち昇る。

「んっ……!」

声が漏れた。

それは拒絶ではなく、懇願のような響きを持っていた。

「いい香りだ……。あなたの体臭と混ざり合って、完成する」

蓮は香りを確かめるように、鼻先を私の首筋に擦り付ける。

湿った唇が、脈打つ動脈の上を這う。

吸い付かれるような感覚。

全身の血液が沸騰し、頭の芯が痺れていく。

ダメだ。

これ以上は、戻れなくなる。

第三章 融解

「紗衣さん、本当はずっと我慢してたんでしょう?」

蓮の指先が、ブラウスのボタンを一つ、また一つと弾き飛ばしていく。

露わになった鎖骨に、彼が熱い印を刻み込む。

「あ……っ、やめ……」

言葉とは裏腹に、私の身体は彼を求めて弓なりにしなった。

ラボの冷たい空気が肌を刺すが、体の内側は溶鉱炉のように熱い。

彼の指が、執拗に私の敏感な場所を探り当てる。

まるで調香の配合を探るように、繊細で、残酷な手つき。

「ここですか? それとも、もっと奥?」

「……っ、ぁ、あぁ!」

思考が白く塗りつぶされる。

調香師としてのプライドも、上司としての立場も、すべてが快楽の濁流に飲み込まれていく。

彼の膝が、私の太ももを割り入る。

抗えない重み。

身体の芯まで侵食される予感に、私は震えながら彼の背中に爪を立てた。

「全部、忘れさせてあげます」

蓮の瞳は、獲物を捕らえた獣のように暗く濁っていた。

第四章 共鳴

世界が揺れていた。

あるいは、私自身が震えているのか。

彼と重なり合うたびに、視界の隅で光が弾ける。

言葉にならない吐息が、雨音に溶けていく。

「もっと……」

無意識に唇が動いていた。

彼のリズムに翻弄され、私はただの雌の生き物へと堕ちていく。

彼が与える刺激は、鋭い刃物のように神経を切り裂き、同時に甘い蜜のように傷口を塞ぐ。

「紗衣さん、愛してます……なんて、言いませんよ」

激しい律動の中で、彼が皮肉っぽく笑った気がした。

「あなたはただ、この香りに溺れればいい」

その言葉が、楔のように心臓に突き刺さる。

悔しい。

けれど、その支配があまりにも心地よい。

私は彼にしがみつき、理性の残滓を自ら手放した。

波が押し寄せる。

大きく、高く、私を彼岸へと連れ去る波が。

「あ、あっ、いく……ッ!」

私の叫びは、彼の口づけによって封じ込められた。

魂ごと吸い出されるような、深く、長い口づけによって。

第五章 残り香

目が覚めると、朝の光がラボに差し込んでいた。

雨は上がっていた。

身体の節々が甘い痛みを訴えている。

隣に彼の姿はない。

ただ、実験台の上に一枚のメモと、昨夜の小瓶が残されていた。

『最高傑作でした』

その文字を見た瞬間、戦慄が走る。

私は試験管を手に取り、香りを確かめた。

……間違いない。

昨夜のあの催淫的な香りは、意図的に、私を堕とすためだけに計算され尽くした配合だったのだ。

私の好みを、弱点を、性癖を、すべて解析した上での罠。

「……ふふっ」

乾いた笑いが漏れた。

完敗だ。

私は自分の首筋に残された赤い痕を指でなぞる。

悔しいはずなのに、身体の奥底が再び疼き始めている。

私は小瓶を握りしめた。

この香りがある限り、私はまた、彼という毒を求めてしまうだろう。

調香師としての誇りを捨てて、快楽の奴隷になることを選んで。

AIによる物語の考察

紗衣は「匂い」ですべてをコントロールできると信じて生きてきた女性。しかし、蓮(23歳)は彼女のその傲慢さを逆手に取り、彼女自身が抗えないフェロモン配合を完成させた。蓮にとってこれは恋愛ではなく「実験」であり「征服」。紗衣はそれを理解した上で、彼に屈服することに倒錯的な悦びを見出している。表向きは上司と部下だが、一皮むけば支配者と被支配者という逆転関係が成立している。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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