第一章 呼吸する遺跡
「……聞こえるか」
エララはヘッドセットのノイズを指先で弾いた。ヘルメットのバイザー越しに広がるのは、暗黒ではなく、脈打つような紫紺の闇だ。
「何がです、博士? センサーには何も。風速ゼロ、気温マイナス四十度。静かな死の世界ですよ」
部下のカイが、端末を覗き込みながら震えた声で答える。彼のバイタルサインがオレンジ色に点滅している。恐怖と酸素不足の兆候。
「いいえ、カイ。この星は歌っているわ」
エララはごつごつした壁面に手を触れた。手袋越しにも伝わる、微かな振動。それは地質学的な鳴動ではない。もっと有機的で、生々しい律動。
惑星『ケプラー404-b』。一週間前、深宇宙探査船が偶然捉えた「人工的な構造物」の反応。それは、惑星の地殻そのものが、巨大な回廊のようにくり抜かれているという異常なデータだった。
我々はそれを『遺跡』と呼んだ。だが、エララには最初から違和感があった。
石灰岩でも、金属でもない。
この壁は、硬化した『骨』だ。
「進みましょう。酸素の予備が心配です」
カイが先を急かす。携帯用ライトのビームが、奥へと続く空洞を切り裂く。天井からは鍾乳石のような突起が垂れ下がっているが、その先端からは粘着質で透明な液体が滴り落ちていた。
ピチャリ、と音が響く。
「うわっ!」
カイが足を滑らせた。
「気をつけなさい。床材が……滑りやすくなっている」
エララはしゃがみ込み、床の『苔』のようなものをピンセットで採取した。ライトを当てる。
それは植物ではなかった。微細な繊維が絡み合い、光に反応して収縮する。
「神経束……」
「え?」
「なんでもないわ。行きましょう。最深部に、熱源反応がある」
エララの専門は『異星言語学』だ。だが、彼女には学界から追放されかけた過去がある。
――共感覚。彼女は、残留思念やデータの集積を「聴覚」として知覚する特異体質だった。
今、耳鳴りが酷い。
奥へ進むほどに、頭蓋骨の内側を誰かにノックされているような感覚が強まる。
(『拒絶』……いいえ、『観察』されている?)
遺跡の壁が、呼吸に合わせて収縮しているように見えるのは、気のせいだろうか。
第二章 知識の肉塊
地下三千メートル。深度計の警告音が鳴り止んだとき、二人は巨大なドーム状の空間に出た。
「信じられない……」
カイが息を呑む。
そこは、図書館だった。
ただし、我々が知る本棚の列ではない。
高さ数百メートルに及ぶ螺旋状の塔。その壁面には、無数の半透明なカプセルが埋め込まれている。それぞれのカプセルの中で、何かが発光し、明滅を繰り返していた。
「これが、古代文明のデータベース……」
カイが震える手でスキャナーを向ける。「博士、これ、バイナリコードじゃありません。四塩基……DNA配列です。この塔全体が、巨大な記憶媒体なんですよ!」
エララは無言で中央の祭壇へと歩み寄った。
そこには、一際大きなカプセルが鎮座している。
耳鳴りが、明確な『声』に変わる。
『……侵入者……解析……』
「博士、離れてください! 放射線量が急上昇しています!」
「静かに」
エララはヘルメットの通信を切った。雑音は不要だ。
彼女は祭壇に手を触れる。
ドクン。
強烈な鼓動が、腕を伝って心臓を鷲掴みにした。
視界が白く弾ける。
奔流するイメージ。
――かつて、この星系には高度な文明があった。
――彼らは肉体を捨て、精神を統合することを選んだ。
――都市そのものを生体工学で作り変え、自らをその一部へと昇華させた。
「遺跡じゃない……」
エララは膝をついた。
「これは死骸じゃないわ。カイ、逃げなさい」
「は、博士? 何を言って」
「これは『冬眠』しているだけ。私たちは、眠っている巨人の口の中に飛び込んだ虫よ」
その時、轟音が響いた。
螺旋の塔が、ぎちぎちと嫌な音を立てて捻じれる。壁面のカプセルが一斉に紅く輝き始めた。
「免疫系が作動したわ」
「免疫……?」
「私たちが『ウイルス』だと認識されたのよ!」
壁が裂けた。そこから溢れ出したのは、石の守護者ではない。
白く、ぬめるような多脚の生物群。有毒な消化液を垂らしながら、ものすごい速度で這い寄ってくる。
「撃て! カイ、撃つのよ!」
カイがパルスライフルを乱射する。青白い閃光が走り、白い怪物が弾け飛ぶ。だが、数が多すぎる。
「だめだ、囲まれる……!」
第三章 融合の代償
退路は断たれた。
入り口だったはずの空洞は、肉の壁が腫れ上がるようにして塞がっていた。
それは傷口がかさぶたで覆われる速度に似ていた。
「博士、酸素が残り10%です……もう、終わりだ」
カイがライフルを落とし、壁に背を預けて崩れ落ちる。彼のスーツは既に消化液で溶けかかり、気密性が失われつつあった。
エララは冷静だった。いや、恐怖を超えて、ある種の陶酔の中にいた。
脳内に響く声が、問いかけてくる。
『……知識ヲ求メル者ヨ……我ラト一ツニナルカ……?』
この星の文明は滅んでなどいなかった。彼らは、個を捨て、星という一つの生命体になることで、永遠の命と膨大な知恵を保存したのだ。
エララはずっと孤独だった。
誰にも理解されない「声」を聞く能力。人間社会での疎外感。彼女が求めていたのは、学術的な名声ではなく、自分を完全に受け入れてくれる『理解者』だったのかもしれない。
「カイ」
エララは部下の肩を揺すった。
「私の予備タンクを使いなさい」
「え……?」
「排気ダクトのような器官を見つけたわ。あそこなら、外へ通じているはず。私のタンクを使えば、あなた一人は脱出できる」
「博士はどうするんですか!」
「私は、ここに残るわ」
エララはヘルメットのロックに手をかけた。
「なっ、正気ですか!? ここの空気は猛毒ですよ!」
「いいえ、これは猛毒じゃない。濃厚すぎる『情報』なのよ」
彼女はためらいなくヘルメットを外した。
プシューッという音と共に、生暖かい、鉄錆と甘い蜜が混ざったような空気が肺に満ちる。
咳き込むかと思った。
だが、違った。
肺胞の一つ一つが歓喜し、細胞が書き換えられていく感覚。
白い多脚生物たちが、攻撃を止めた。
彼らはエララの周りに集まり、恭しく触角を垂れる。
「……行きなさい、カイ。彼らは私を『新しい臓器』として受け入れたみたい」
エララの肌に、銀色の紋様が浮かび上がる。瞳の色が、周囲のカプセルと同じ紅蓮に染まっていく。
「博士……あなたは……」
カイは涙を流しながら、新しいタンクを受け取り、ダクトへと走った。
彼は振り返らなかった。振り返ってはいけないと本能が告げていたからだ。
そこに立っていたのは、もう上司のエララ・ヴァンスではない。
この星の、新しい『巫女』であり、『脳細胞』だった。
最終章 宇宙への産声
探査船が軌道上へ離脱するのと同時に、惑星ケプラー404-bの地表が激しく隆起した。
カイはブリッジからその光景を見つめていた。
「地殻変動……?」
いや、違う。
惑星の表面にあった巨大な『目』が開いたのだ。
宇宙空間に向けて放たれる、可視光を超えた情報の奔流。それは、何万年もの沈黙を破った、知的生命体の咆哮だった。
カイの通信機に、ノイズ混じりの音声が届く。
『……ありがとう、カイ。孤独は、終わったわ……』
それはエララの声だったが、何千人もの声が重なったような、荘厳な響きを帯びていた。
惑星は、ゆっくりと軌道を外れ始めていた。
恒星の重力を振り切り、自らの意志で、銀河の深淵へと泳ぎだそうとしている。
「彼女は……星になったんだ」
カイは呟く。その目には、恐怖よりも、ある種の羨望が宿っていた。
モニターの中で、巨大な生体惑星が、青白く輝く尾を引きながら、無限の宇宙へと旅立っていく。
それは、人類が初めて触れた『隣人』であり、二度と追いつけない『神』の背中だった。