第一章 11,000メートルの閉所恐怖症
「心拍数上昇。ミナト、落ち着け。まだ入り口だ」
インカム越しのオペレーターの声が、ノイズ混じりに鼓膜を叩く。
俺は小さく息を吐き、コクピットの狭苦しい空気を肺に押し込んだ。
チタニウム合金の殻一枚隔てた外側は、絶対的な死の世界だ。水深一万一千メートル。一センチ四方に一トンの水圧がかかる、地球の最深部。
「……分かってる。だが、音がうるさいんだ」
「音? ソナーは正常だ。何も拾っていない」
「機械には聞こえないさ」
俺はモニターの光量を絞った。
俺には、特異な『共感覚』がある。
音を色として視認し、逆に光を音として聴く。この深海で、俺の視界はずっと極彩色のノイズに覆われていた。
海溝が奏でる、地殻変動の軋み。水流の唸り。
それらがどす黒い紫や、刺すような赤となって網膜を焼く。
この才能のせいで、俺は陸(おか)ではまともに生きられなかった。雑踏は俺にとって、視界を埋め尽くすペンキの爆発だ。
皮肉なもんだ。世界で一番静かなはずの深海が、俺には極彩色のディスコに見える。
「深度12,000を突破。前人未踏領域に入る」
船体がきしむ。
ギィ、ギィ、と金属が悲鳴を上げるたび、目の前に鮮血のような赤い閃光が走る。
「おい、レーダーに影だ。……デカいぞ」
オペレーターの声が上ずる。
俺は目を凝らした。
暗黒の先。色彩の嵐の中。
そこに、『無色』があった。
完全な静寂。完全な虚無。
「おい、嘘だろ……」
サーチライトを向ける。
光が届いた瞬間、俺の共感覚が、天使の歌声のような、あるいは断末魔のような、凄絶な『金色の音』を捉えた。
第二章 逆さまの摩天楼
「映像、届いているか!?」
「……信じられん。なんだその構造物は」
岩盤に張り付くようにして、それは存在していた。
巨大な尖塔。
いや、逆さまだ。海底に向かって、さらに深く突き刺さるように伸びる、幾何学的なタワー。
表面を覆う素材は、金属でも有機物でもない。まるで、星空を切り取って貼り付けたような、脈動する光の膜。
『オーバーテクノロジーなんて言葉じゃ生温い』
俺はマニピュレーターを操作し、その外壁に触れようとした。
ズキン。
頭痛。
「うぐっ……!」
「ミナト! バイタルが危険域だ! 即時浮上しろ!」
「待て! ……聞こえるんだ」
「何がだ!」
「歌だ。……誰かが、歌ってやがる」
黄金の粒子が、潜水艇の壁を透過してくる。
警告音が鳴り響くコクピットの中で、俺は呆然とその光景を見ていた。
タワーの『窓』とおぼしき部分。
そこに、人がいた。
透き通るような白い肌。人間にはありえない大きさの瞳。そして、背中から伸びる、光ファイバーの束のような六枚の翼。
天使?
いや、違う。
あれは。
「……ユイ?」
五年前に海難事故で行方不明になった、俺の妹。
彼女が、深海一万三千メートルの硝子の向こうで、無重力に抱かれながら微笑んでいた。
第三章 星を喰らうもの
『接続(アクセス)、確認』
脳内に直接、声が響いた。
妹の声じゃない。もっと無機質で、それでいて慈愛に満ちた合成音声。
「ミナト、逃げろ! そいつはエネルギーを吸い上げている! 潜水艇の動力が!」
コンソールの表示が次々とブラックアウトしていく。
だが、恐怖はなかった。
俺の『目』に見える世界が変わったからだ。
潜水艇の外壁が透けて見える。
あの『天使』たちが、群れを成して集まってきていた。
彼女たちは、潜水艇を攻撃しているのではない。
抱きしめていた。
母が子をあやすように。優しく、愛おしげに。
『種子(シード)の回収を推奨します』
脳内の声が告げる。
俺の意識が、タワーのデータベースと直結する。
奔流する情報。
一瞬で理解させられた。
ここは、遺跡じゃない。
『宇宙船』だ。
数万年前。あるいは数万年後。
宇宙から飛来し、この星の海に突き刺さった、巨大な播種船(はしゅせん)。
そして、ユイに見えた『それ』は、この船のメンテナンスを行うための生体端末。
俺たちが「未知の生命体」と呼ぼうとしたものは、かつて人類だったものの成れの果てか、あるいは人類の創造主か。
「……おい、嘘だろ」
データが示す事実は、もっと残酷だった。
この船は、地球を侵略しに来たのではない。
『修理』しに来たのだ。
汚染され、摩耗し、寿命を迎えようとしているこの惑星のテクスチャを、リセットするために。
第四章 箱庭の管理者
「ミナト! 聞こえるか! 浮上しろ! その化け物を攻撃してもいい!」
地上のオペレーターが叫ぶ。
俺には、彼らの声がひどく汚れた泥のような色に見えた。
逆に、目の前の『天使』――ユイの顔をした端末が発する色は、透き通るような純白。
『管理者権限の委譲を申請します』
端末が、ガラス越しに手を重ねてくる。
俺の共感覚(才能)は、このシステムと対話するための『鍵』だったのだ。
俺が「イエス」と言えば、この船は再起動する。
オーバーテクノロジーによる惑星環境の強制書き換え。
地上の文明は一度滅び、海がすべてを飲み込み、そしてまた、清浄な生命が芽吹く。
「……ミナト」
不意に、端末の唇が動いた。
合成音声ではない。
記憶の中にある、妹の、あの懐かしい声。
「痛いのは、もう嫌だよね」
俺の心臓が早鐘を打つ。
地上での生きづらさ。ノイズまみれの世界。孤独。喪失。
ここには、静寂がある。
ここには、理解がある。
「ああ……そうだな」
俺は、緊急浮上のレバーから手を離した。
最終章 静寂の産声
「ミナト!? 何をしている! 通信が切れるぞ!」
「悪いな、指令室」
俺は、最後の通信を送る。
「ここは、深海じゃない」
モニターに映る深度計は、数値をバグらせていた。
13,000、15,000、20,000……。
この海溝の底は、空間が歪んでいる。
ここは星の核(コア)に一番近い場所であり、同時に、銀河の果てにも繋がっている。
「ここは、揺り籠だ」
俺は、接続プラグを自分の首筋にあるポート――幼い頃の手術痕――にねじ込んだ。
激痛。
そして、光。
潜水艇のキャノピーが砕け散る。
水圧が俺を押しつぶす……ことはなかった。
満たされる、温かい羊水のような液体(ナノマシン)。
俺の身体は分解され、光の粒子となり、タワーへと吸い込まれていく。
視界の端で、ユイが微笑み、手招きをしている。
『おかえりなさい』
意識が溶ける寸前、俺は見た。
深海から放たれた極光が、海面を突き破り、汚れた空を浄化していく様を。
地上はパニックになるだろう。
だが、それは滅びではない。
長い、長い、星の昼寝が始まるだけだ。
俺たちの夢の中で、世界はまた、新しく生まれ変わる。
俺は目を閉じた。
そこにはもう、不快なノイズは一つもなかった。