硝子の檻、蜜の筆致

硝子の檻、蜜の筆致

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鎌倉の奥、切り通しを抜けた先に佇むその洋館は、常に湿った緑の匂いに包まれていた。

修復家の佐伯美沙(さえき みさ)がその屋敷の門を叩いたのは、梅雨入りの冷たい雨が降りしきる午後だった。依頼主は、高名な資産家であり、偏屈な美術蒐集家として知られる九条宗一郎(くじょう そういちろう)。彼が提示した報酬は、美沙が一年かけて稼ぐ額を遥かに上回っていたが、それ以上に美沙を惹きつけたのは、修復対象となる絵画の「噂」だった。

『聖女の自画像』。

作者不詳、明治末期に描かれたとされるその油彩画は、所有した男たちを次々と狂気へ追いやると囁かれていた。

「よく来てくれた、佐伯くん」

通されたアトリエで待っていた九条は、六十近い年齢を感じさせない、研ぎ澄まされた刃物のような男だった。白髪交じりの髪をオールバックにし、仕立ての良いリネンのシャツからは、老いとは無縁の頑強な肉体が透けて見える。だが、美沙が息を呑んだのは彼ではなく、イーゼルに立てかけられたその絵だった。

――私だ。

思わず口元を押さえた。カンバスの中の女は、黒髪の長さから、左目の下に小さく浮かぶ泣き黒子まで、鏡に映る美沙自身と瓜二つだったのだ。ただ一つ違うのは、絵の中の女が纏う、血のように鮮烈な深紅のドレスだけ。

「驚いたかね? 私も初めて君の写真を見た時は、亡霊かと思ったよ」

九条の声は低く、チェロの音色のように腹の底に響いた。彼はゆっくりと美沙に歩み寄ると、値踏みするような視線で彼女の顔を覗き込む。その瞳には、情欲とも崇拝ともつかない、昏い炎が揺らめいていた。

「この絵のモデルは、私の祖父が愛した女性だと言われている。だが、経年劣化が酷い。君の手で、彼女を蘇らせてほしいのだ。……いや、君にしかできない」

美沙は震える指先を隠すように拳を握りしめた。修復家としての倫理観が「逃げろ」と叫んでいる。しかし、絵画から放たれる魔性のような引力が、彼女の足を縫い止めていた。それは禁断の果実への渇望にも似ていた。

「……お引き受けします」

それが、狂気への入り口だった。

屋敷での生活は、奇妙な静寂の中で始まった。美沙は日中、黴(かび)臭いアトリエに籠り、顕微鏡と筆を手にカンバスと向き合う。剥落しかけた絵具層を接着し、変色したニスを除去する作業は、薄皮を一枚ずつ剥いでいくような背徳的な快感を伴った。

九条は決して作業の邪魔をしなかった。ただ、部屋の隅にある革張りのソファに深く沈み込み、赤ワインのグラスを片手に、じっと美沙の背中を見つめ続けるのだ。その視線は物理的な熱を帯びているかのように、美沙のうなじを焼き、背骨を伝って下腹部へと降りていく。

ある雷雨の夜、事件は起きた。

ニスの除去作業に行き詰まった美沙が、ふと筆を止めると、背後から九条の気配が近づいた。逃げる間もなかった。大きな手が美沙の肩を掴み、強引に振り向かせられる。

「美しい……」

九条の唇が漏らした言葉は、美沙に向けられたものなのか、それとも背後の絵に向けられたものなのか。彼の指が美沙の頬をなぞる。その指先は絵具のように冷たく、しかし触れられた箇所から火傷しそうな熱が広がった。

「先生、やめてくだ……」

「君も感じているはずだ。この絵が、血を求めているのを」

九条は美沙の抗議を唇で塞いだ。強引で、それでいて熟練した口づけだった。ワインと、微かなテレピン油の味がした。拒絶すべきだと理性が叫ぶ一方で、孤独な修復作業で張り詰めていた美沙の神経は、他者の体温を貪欲に求めていた。師弟でもなく、依頼主と請負人という一線を超えた、禁忌の情事。

雷鳴が轟く中、アトリエの床で重ねた肌は、汗と湿気で重苦しく絡み合った。九条の愛撫は執拗だった。彼は美沙を抱きながら、何度も「ユリコ」と呟いた。それは絵の中の女の名か、それともかつて彼が愛し、損なった誰かの名なのか。

――私は、代用品。

絶頂の淵で、美沙は冷めた頭でそう理解していた。だが、その屈辱さえもが甘い蜜のように感じられた。九条の狂気に汚染されていく自分を感じる。絵の中の女が、軽蔑の眼差しで見下ろしているような錯覚に陥りながら、美沙は九条の背中に爪を立てた。

その夜を境に、美沙と絵画の境界は曖昧になっていった。

昼は絵の修復に没頭し、夜は九条の腕の中で自身が摩耗していく。修復が進むにつれ、絵の中の女は生気を取り戻し、逆に美沙の顔からは血の気が失われていった。鏡を見るのが怖かった。そこに映るのは自分ではなく、絵の女になりつつある抜け殻のように思えたからだ。

三週間後、修復は最終段階に入った。

九条は上機嫌で、屋敷の倉庫からあるものを持ってきた。それは、絵の中の女が着ているものと同じ、深紅のドレスだった。

「仕上げだ、美沙。これを着てくれ」

命令口調ではなかった。だが、そこには拒否を許さない絶対的な支配者の響きがあった。美沙は操り人形のように頷き、ドレスに袖を通した。シルクの冷たい感触が肌に吸い付く。サイズは、あつらえたようにぴったりだった。

ドレスを纏った美沙を見た瞬間、九条の瞳孔が開いた。

「完璧だ……。ついに、完成した」

彼は美沙の手を取り、完成した絵画の前に立たせた。並んだ二人の女。どちらが本物で、どちらが絵なのか。美沙の意識が揺らぐ。自分が呼吸をしているのかさえ定かではない。

「九条さん、私は……」

「君はもう、どこへも行けないよ。この額縁の中から」

九条は恍惚とした表情で、美沙の首筋に手をかけた。絞めるためではない。所有印を押すように、強く、愛おしげに。

その時、美沙は屋敷の地下室で見つけた古い日記の内容を思い出していた。九条の祖父の手記。そこには、愛する女性を永遠に自分だけのものにするために、彼女を殺め、その血を絵具に混ぜて肖像画を描かせた狂気が記されていた。

――ああ、そうか。

美沙は理解した。九条が求めていたのは修復ではない。再現だ。かつての悲劇を、この手で、この身体で、もう一度再現すること。

逃げなければならない。このままでは、文字通り「絵」の一部にされてしまう。だが、美沙の足は動かなかった。九条の与える快楽と恐怖、そしてこの屋敷に充満する甘い腐臭に、魂まで絡め取られていた。

「美沙、笑ってごらん」

九条が囁く。

美沙はゆっくりと口角を上げた。それは、絵の中の女と同じ、虚ろで美しい、硝子細工のような微笑みだった。

外では激しい雨が降り続いていた。土砂崩れで外界への道が閉ざされたその屋敷で、修復家は筆を置き、永遠のモデルとなった。彼女が再び門をくぐり、外の世界へ戻ることは二度となかった。

後に残されたのは、以前よりも一層妖艶な輝きを放つ『聖女の自画像』と、それを毎夜愛でる一人の老いた男だけ。

絵の中の女の唇は、以前よりも鮮やかに赤く、濡れているように見えたと言う。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 佐伯 美沙(さえき みさ・32歳): 優秀だが孤独な絵画修復家。職人気質で理性的だが、心の奥底に被支配欲と美への陶酔を秘めている。自分と同じ顔をした肖像画に魅入られ、自我を喪失していく。
  • 九条 宗一郎(くじょう そういちろう・50代後半): 莫大な資産を持つ美術蒐集家。表向きは紳士だが、内面は狂気を孕んだロマンチスト。過去の愛執を再現するために美沙を利用し、彼女を「生きた芸術品」として所有しようとする。

【考察】

  • ピグマリオン・コンプレックスの倒錯: 通常は彫像を人間に変えようとするが、本作では生身の人間(美沙)を動かぬ芸術品(絵画)へと変質させる逆説的な愛を描いている。
  • 同一性と喪失: 修復作業が進み絵画が鮮やかになるのと反比例して、美沙が生気を失う描写は、他者の欲望によって個人のアイデンティティが塗りつぶされるメタファーである。
  • 檻としての屋敷: 雨で閉ざされた洋館は、社会的な倫理や時間から切り離された「異界」であり、二人の共依存と狂気を育むための舞台装置(硝子の檻)として機能している。
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