勇者が死んだ。世界は救われた。
けれど、私の鼻だけは誤魔化せない。
この美しい棺の中から、裏切りの錆びた臭いが漂っているのだから。
第一章 英雄の腐臭
王都の地下深くに鎮座する大霊廟。
ひんやりとした石畳の冷気が、私の足裏から這い上がってくる。
「ベルカ殿、清掃は進んでおりますか?」
背後からかけられた声に、私は手を止めた。
雑巾をバケツに放り込む。
水面が揺れ、映り込んだ私の無愛想な顔が歪んだ。
「ええ、枢機卿。滞りなく」
振り返ると、豪奢な法衣を纏った男が立っている。
この国の宗教的指導者であり、かつて勇者パーティの一員だった男だ。
「明日は勇者アレンの十周忌だ。国中から巡礼者が訪れる。塵一つ残さぬよう頼む」
「……承知しています」
男が去っていく足音が遠ざかる。
私は再び、目の前の白亜の棺に向き直った。
勇者アレン。
魔王との最終決戦で、相討ちとなり命を落とした救国の英雄。
その遺体はこの棺の中で、強力な保存魔法により、死んだ瞬間の姿のまま眠っているとされている。
だが。
「臭うのよ……」
私は鼻を覆った。
常人には花の香りしかしないだろう。
棺の周囲には、最高級の白百合が絶えず手向けられているからだ。
けれど、私にはわかる。
私は『死霊解読士(ネクロ・リーダー)』。
死体に残る残留思念を、五感として感じ取ることができる。
この棺から漂うのは、魔族特有の硫黄の臭いではない。
もっと生々しく、粘着質な。
鉄と、脂と、裏切りの臭い。
私は周囲を警戒し、誰もいないことを確認してから、棺の蓋に手をかけた。
重厚な石蓋が、保存魔法の結界をすり抜けて、私の指を受け入れる。
墓守としての特権だ。
わずかに蓋をずらす。
隙間から漏れ出したのは、強烈な『激痛』の記憶。
(熱い、熱い、熱い!)
私の脳内に、アレンの最期の感覚が流れ込む。
視覚ではない。
焼けるような背中の痛み。
肺が泡立つ音。
そして、聴覚。
『――ごめんなさい、アレン』
鈴を転がすような、甘く、残酷な声。
魔王の咆哮ではない。
それは、あまりにも聞き覚えのある、女の声だった。
第二章 聖女の接吻
翌日。
大聖堂は、熱狂的な歓声と祈りに包まれていた。
「聖女様万歳! 英雄アレン万歳!」
バルコニーから手を振る金髪の美女。
聖女セシリア。
かつて勇者を支え、今は亡き彼に代わって国を導く象徴。
私は群衆の陰から、その美しい横顔を見上げていた。
昨夜、棺の中で見たアレンの遺体。
その背中には、魔族の爪痕などなかった。
あったのは、細く鋭い、一本の刺し傷。
背後からの、不意打ち。
(勇者は魔王と相討ちになったんじゃない。殺されたんだ)
誰に?
その答えは、今しがた壇上から降りてきた彼女が持っているはずだ。
式典の休憩中。
私は聖女の控え室へと忍び込んだ。
本来なら即座に処刑される不敬だが、今の私には墓守としての入室許可証がある。
「あら、ベルカ。お久しぶりね」
セシリアは、鏡の前で髪を直していた。
私を見ても動じる様子はない。
彼女もまた、かつてのパーティメンバー。
私の『力』を知っている数少ない人間だ。
「十周忌おめでとう、セシリア。相変わらずお綺麗ね」
「ありがとう。貴女も、相変わらず陰気な顔をしているわ」
ふふ、と彼女は笑う。
その笑顔からは、一点の曇りも感じられない。
「棺の掃除をしていて、気になったの」
私は単刀直入に切り出した。
「アレンの背中の傷。あれは、聖剣によるものじゃない?」
室内が、凍りついたように静まり返る。
セシリアの手が止まる。
鏡越しに、彼女の紫色の瞳が私を射抜いた。
「……何が言いたいの?」
「魔王討伐の瞬間、アレンは魔王にトドメを刺した。その直後、無防備な彼の背中を誰かが刺した。回復魔法(ヒール)をかけるふりをして」
私は一歩、彼女に近づく。
「貴女の声が聞こえたわ。『ごめんなさい』って」
セシリアはゆっくりと振り返った。
その表情から、慈愛に満ちた聖女の仮面が剥がれ落ちる。
「見てしまったのね。相変わらず、趣味の悪い目だこと」
彼女は否定しなかった。
テーブルの上のワイングラスを手に取り、優雅に揺らす。
「ええ、殺したわ。私が」
あまりにあっけらかんとした告白に、私は息を呑む。
「どうして……愛していたんでしょう? アレンを」
「愛していたわ。誰よりも」
セシリアはうっとりと目を細めた。
「だからこそ、殺さなくてはならなかったの」
第三章 英雄の不在
「魔王は、平和を望んでいたのよ」
セシリアの口から語られたのは、世界を覆す真実だった。
「魔族の侵攻は、彼らの土地が枯渇したから。アレンはそのことを知って、魔王と停戦協定を結ぼうとしていた」
「なら、どうして……!」
「民衆がそれを許すと思う?」
セシリアの声が低く、冷たく響く。
「家族を殺され、土地を奪われた人々が。『魔王とは和解しました、これからは仲良くしましょう』なんて言葉で納得する?」
彼女は窓の外、熱狂する群衆を指差した。
「彼らが求めていたのは平和じゃない。『勝利』よ。
魔王という絶対悪が滅び、正義が勝つというカタルシス。
それだけが、この疲弊した国を一つにまとめる方法だった」
アレンは、真実を公表しようとした。
魔王との対話を、共存を訴えようとした。
「そんなことをすれば、アレンは裏切り者として処刑され、国は内乱に陥っていたでしょう。だから私が、彼を『伝説』にしてあげたの」
セシリアは悲劇のヒロインのように、陶酔した顔で胸に手を当てる。
「彼は魔王を倒し、世界を救って死んだ。
永遠に汚されることのない、完璧な英雄として。
……私の手で、一番美しい瞬間に止めてあげたのよ」
狂気。
けれど、それはあまりにも理路整然とした狂気だった。
「ベルカ。貴女ならわかるでしょう?
真実を暴けば、この国の平和は崩壊する。
アレンの死は無駄になり、彼はただの『騙されていた道化』に成り下がる」
セシリアが私に近づいてくる。
甘い香水の香り。
その奥に潜む、鉄錆の臭い。
「貴女は、アレンの名誉を守る?
それとも、真実という名の毒を世界に撒き散らす?」
究極の選択。
私は握りしめた拳に爪を食い込ませた。
(アレン。貴方は、どうしたかったの?)
私の脳裏に、再びあの感覚が蘇る。
背中を刺された瞬間の、彼の記憶。
『――ああ、やっぱり、そうするか』
痛みの中にあったのは、怒りではなかった。
悲しみと、諦念と、そして。
(……愛、か)
彼は知っていたのだ。
セシリアが自分を殺そうとしていることを。
その上で、彼は背中を預けた。
彼女の描く「平和」のために、生贄になることを受け入れた。
あの大馬鹿野郎は、最期まで英雄だったのだ。
最終章 語られざる墓碑銘
私は大きく息を吐き出し、強張っていた肩の力を抜いた。
「……掃除は、終わりました」
セシリアの瞳がわずかに見開かれる。
「告発はしないの?」
「死者の望みは、安らかな眠りです。私が暴けば、アレンは死んでも眠れなくなる」
セシリアは安堵の息をつき、再び聖女の微笑みを浮かべた。
「賢明ね、ベルカ。貴女には十分な報酬を――」
「勘違いしないで」
私は彼女の言葉を遮った。
「私はアレンのために黙るだけ。貴女のためじゃない」
私は踵を返す。
扉に手をかけ、最後に一度だけ振り返った。
「それと、棺の蓋。少しずらしておきました」
「……え?」
「アレンの魂は、まだそこにある。貴女がつく嘘も、民衆の歓声も、全部聞いているわ。
せいぜい、毎晩怯えて眠りなさい。
愛した男を殺して手に入れた、その玉座の上で」
セシリアの顔色が、一瞬で蒼白に変わる。
私はその滑稽な顔を見届け、部屋を出た。
大霊廟に戻り、私は棺の前に立つ。
蓋はきっちりと閉まっている。
ずらしたなんて、嘘だ。
けれど、墓守としての最後の仕事がある。
私は懐からノミを取り出し、棺の裏側、誰の目にも触れない場所に、小さな文字を刻んだ。
『彼は世界を救い、愛に殺された。ここに眠るは、優しすぎた一人の人間』
それだけが、私が彼に手向けられる唯一の真実。
「おやすみ、アレン」
棺に手を置くと、冷たい石の感触の奥から、微かに温かい何かが返ってきた気がした。
地上に出ると、空は突き抜けるように青い。
英雄の不在を嘆くような、あるいは祝福するような、どこまでも残酷な青だった。
私は眩しさに目を細め、喧騒の中へと歩き出した。
私の鼻には、まだあの鉄錆の臭いがこびりついて離れない。
この平和が続く限り、きっと消えることはないのだろう。