第一章: 静寂のバズ
腐臭とカビ、そして澱んだ湿気。防塵フィルター越しに肺腑へ滑り込むそれらを、灰島湊は無意識に嚥下した。
ガスマスクの曇りを、指の腹でひと拭き。黒いポリマー素材のコートはダンジョンの闇と同化し、擦り切れたタクティカルベストのベルトだけが、動くたびに微かな摩擦音を奏でる。拾い上げた認識票(ドッグタグ)にこびりついた乾いた血。それを親指で弾く動作だけが、彼に残された人間性の証明か。
マスクの下、疲労で落ち窪んだ眼窩。色素の薄い瞳が、冷たく、しかし鋭く光る。伸びた黒髪が汗で額に張り付いていた。
[Think]……三人目。今日は豊作だ[/Think]
死体袋のジッパーを閉じる音が、静寂な洞窟内にやけに大きく響く。
ここは深層第74階層。光すら届かぬ奈落の底。湊はいつものように、誰にも見向きもされない「ゴミ」を拾っていた。
その時である。
[Shout]おい、邪魔だッ!![/Shout]
耳をつんざく怒号。豪奢な白銀の鎧がきらめく。
人工的な照明魔法(ライト)が暗闇を無遠慮に切り裂き、豪勢な装備に身を包んだ一団が転がり込んできた。
先頭を走るのは、雑誌の表紙で見飽きた顔。
剣崎レオン——計算された無造作な金髪、カメラ映えを意識した碧眼。だが今、その整った仮面は恐怖で剥がれ落ち、脂汗にまみれている。
彼の背後。迫りくる巨大な影——Sランク指定モンスター《キマイラ・ロード》。
[A:剣崎 レオン:恐怖]「クソッ、なんでこんな速いんだよ! 計算が違う!」[/A]
レオンは走る速度を緩めない。それどころか、隣を走っていた荷物持ちの少年を——あろうことか、背後へと蹴り飛ばした。
[A:剣崎 レオン:冷静]「悪いな。君は、英雄(オレ)を生かすための捨て駒だ」[/A]
少年が悲鳴を上げる間もなく、影が彼を呑み込む。
肉が弾ける音、骨が砕ける音。生々しい死の旋律。
レオンたちは一度も振り返ることなく、転移水晶を砕いて光の中へ消え失せた。
残されたのは、咀嚼音と、湊だけ。
キマイラ・ロードは満腹になったのか、あるいは死臭漂う湊を餌と認識しなかったのか。鼻を鳴らし、闇の奥へと去っていく。
湊はゆっくりと、食い散らかされた少年の亡骸に歩み寄った。
もはや原形を留めていない肉塊。だがその手には、硬く握りしめられたロケットペンダント。
[A:灰島 湊:悲しみ]「……痛かったろう。寒かったろう」[/A]
ガスマスクを外し、コートの裾を翻して跪く。
剥き出しになった唇が、震えながら言葉を紡ぐ。
それはスキルであり、祈り。
[Magic]《鎮魂歌(レクイエム)》[/Magic]
しわがれた、しかし芯のあるバリトンボイス。岩肌に反響する。
旋律は透明な波紋となり、少年の遺体を包み込んだ。
湊は気づいていない。
瓦礫の隙間に落ちていた、レオンが遺棄したドローン。そのレンズの奥、赤いインジケーターが静かに明滅していることに。
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世界中のスクリーン。闇の中でただ一人、名もなき死者のために涙を流して歌う男の姿が、鮮明に映し出されていた。
◇◇◇
第二章: 意図せぬ崇拝
[System]
同接数:4,200,000人突破
急上昇ランキング:1位
トレンドワード:「深淵の葬儀屋」「本物の聖女」「レオン逃亡」
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湊の歌声。そこには不思議な周波数が含まれていた。
画面越しですら、聴く者の副交感神経を強制的に優位にする鎮静効果。
コメント欄は、滝のように流れる文字で埋め尽くされている。
『なにこれ、泣けてくる』
『この人、さっきレオンが見捨てた新人のために歌ってるの?』
『目が……すごく綺麗で、すごく寂しそうだ』
湊が地上に戻り、ギルドの換金所で安酒のようなブラックコーヒーを喉に流し込んでいる頃、世界は一変していた。
だが、彼自身はその騒狂を知る由もない。
端末は妹の手術費用の計算でしか使わず、SNSなど見る余裕など皆無だったからだ。
一方、青山の一等地。タワーマンションの一室。
剣崎レオンは、壁掛けの大型モニターに映る湊の姿を睨みつけ、手にしたワイングラスを壁に叩きつけた。
[Shout]ふざけるなッ! なんだこの薄汚いネズミは![/Shout]
赤い液体が、白い絨毯に染みを作る。
彼の完璧な経歴(キャリア)に、初めて泥が塗られた瞬間。
レオンのスマートフォンが震える。スポンサーからの契約解除を示唆する通知。
彼の端整な顔立ちが、どす黒い激情で崩れていく。爪が掌に食い込み、血が滲んだ。
[A:剣崎 レオン:怒り]「僕が積み上げてきたものを……たかがゴミ拾い風情が。潰してやる。跡形もなく」[/A]
レオンはすぐさま、裏で繋がっている大手メディアの編集長と、ギルドの上層部に連絡を入れた。
英雄としての特権、コネクション、そして金。
使えるものはすべて使う。
真実など、情報の濁流で押し流してしまえばいい。
翌日、湊が病院へ向かおうとアパートを出た瞬間、無数のフラッシュが彼の視界を白く焼き尽くした。
◇◇◇
第三章: 捏造された罪
「死体損壊および窃盗の容疑で、探索者免許の停止を通知する!」
ギルド職員の無機質な声。湊のライセンスカードが、目の前でへし折られた。
ニュースサイトのトップには、加工された画像が踊っている。
『深淵の葬儀屋の正体! 遺体から装備を剥ぎ取るハイエナ』
『妹の手術費名目で寄付金詐欺か?』
[A:灰島 湊:冷静]「……誤解だ。俺は、何も盗んでいない」[/A]
湊の声は、マイクを突きつける記者たちの怒号にかき消された。
病院からは「他の患者の迷惑になる」と、妹の転院を迫られる始末。
全口座の凍結。住んでいたボロアパートからの立ち退き命令。
昨日まで彼を「聖女」と崇めた大衆は、今日は彼に向かって石を投げていた。
[Think]どこで、間違えた?[/Think]
路地裏のゴミ捨て場に座り込み、湊は膝を抱える。
冷たい雨が、コートを重く濡らした。
ガスマスクのフィルター交換時期はとうに過ぎており、呼吸をするたびに饐えた匂いが鼻孔をつく。
[A:灰島 湊:絶望]「俺は……ただ、静かに暮らしたかっただけなんだ」[/A]
ポケットの中で、妹から貰ったお守りが砕ける音がした気がした。
居場所はない。
妹に迷惑をかけない唯一の方法は、自分がこの世から消えること。
あるいは、誰も追ってこられない場所へ堕ちること。
湊は立ち上がった。その足が向かう先は、都市の最下層、地図にも載っていない「未踏破区域(アビス)」。
自殺行為だ。だが、今の彼には、死地こそが唯一の安息の地に見えた。
暗闇の立坑(シャフト)を降りていく湊の背後。静寂を破る電子音が鳴る。
壊れたはずのインカムから、ノイズ混じりの少女の声が響いた。
[A:響谷 ノア:怒り]「馬鹿野郎! 回線(ライン)切るなよ、クソ陰キャ!」[/A]
◇◇◇
第四章: 地獄からの配信
未踏破区域で発生した「スタンピード(大氾濫)」は、地上の予測を遥かに超えていた。
名誉挽回のために討伐隊を率いて乗り込んだレオンだったが、今やその白銀の鎧は泥と血にまみれ、見る影もない。
[A:剣崎 レオン:絶望]「ひ、ひぃぃ……! くるな、くるなぁぁ!!」[/A]
目の前には、ビルのように巨大な漆黒の骸骨剣士《デス・エンペラー》。
レオンは腰を抜かし、這いつくばって逃げ回る。その醜態は、皮肉にも彼自身が用意した高画質ドローンによって、全世界へ生中継されていた。
部下たちは既に全滅。視聴者たちは言葉を失い、ただ英雄の死を待つのみ。
その時。
絶望的な咆哮を切り裂くように、一発の銃声が轟いた。
《デス・エンペラー》の振り下ろされた大剣が、見えない弾丸によってわずかに軌道を逸らされる。
闇の奥から現れる、黒いコートの男。
片方のレンズが割れたガスマスク。ボロボロのブーツ。
だが、その歩みは王のように堂々としていた。
[A:灰島 湊:冷静]「……騒がしいな。死者が眠れないだろう」[/A]
[A:剣崎 レオン:驚き]「は、灰島……!? なぜ、お前がここに……!」[/A]
湊はレオンを一瞥もしない。
彼の視線は、暴れ狂う骸骨の王だけに注がれていた。
その背中には、無数のコードが絡みついている。
遠く離れた電脳スラムから、天才ハッカー・響谷ノアが強制的に接続した、全世界へのジャック回線だ。
[A:響谷 ノア:興奮]「見せてやりなよ、湊。アンタの『掃除』ってやつを! 全人類の網膜に焼き付けてやる!」[/A]
湊はゆっくりとマスクを外した。
露わになった素顔は、傷だらけだが、静謐な美しさを湛えている。
彼は武器を構えない。
ただ、両手を広げ、圧倒的な死の暴威の前で、深く息を吸い込む。
[Think]終わらせよう。この悲しい宴を[/Think]
《デス・エンペラー》が咆哮を上げ、全てを消滅させる黒い魔力を凝縮させる。
それでも湊は退かない。
喉を震わせ、魂の底から歌を紡ぎ出した。
[Magic]《鎮魂歌(レクイエム)——最終楽章(フィナーレ)》[/Magic]
その瞬間、世界中の音が消えた。
◇◇◇
第五章: 優しい復讐
歌声は光だった。
物理的な破壊力を持つ音波ではない。
それは、何百年もの間、誰にも弔われることなくダンジョンの底で怨嗟を募らせてきた魂たちへの、暖かな抱擁。
[Sensual]
黄金の粒子が、湊の身体から溢れ出す。
闇色に染まっていたダンジョンの壁が、天井が、透き通るような白亜へと書き換えられていく。
《デス・エンペラー》の虚ろな眼窩に灯っていた憎悪の炎が、ふわりと揺らぎ、涙のような雫となって零れ落ちた。
巨大な骸骨が崩れ落ちる。土煙は上がらない。骨は光の羽へと変わり、天へと昇っていく。
まるで、長く苦しい悪夢から覚めた子供のように。
[/Sensual]
[A:剣崎 レオン:驚き]「ありえない……魔法ですらない……これは、何なんだ……」[/A]
レオンはその輝きに目を焼かれ、涙を流しながら立ち尽くすことしかできない。
自分が振るっていた剣がいかに軽く、脆いものだったか。
湊が背負っている「命」の重さが、圧倒的な質量となって彼を打ちのめしていた。
だが、奇跡には代償が伴う。
強烈すぎる輝きを至近距離で見つめ続けた湊の左目から、一筋の血が頬を伝った。
視界の半分が、恒久的な闇に閉ざされる。
それでも、彼は歌うことを止めなかった。最後の光の粒が消え入るまで。
静寂が戻った時、そこに立っていたのは、片目を失った掃除屋と、地に伏した偽りの英雄だった。
[A:灰島 湊:冷静]「……業務終了だ。帰るぞ」[/A]
湊はよろめく足取りで、レオンの横を通り過ぎる。
罵倒も、説教もない。
ただ、関心がないのだ。生きている人間に、彼は用がない。
その徹底した無視こそが、レオンにとって最大の断罪だった。
後日談は、語るまでもない。
全世界が目撃した「本物の英雄」の姿に、捏造された罪は霧散した。
ギルドには抗議の電話が殺到し、レオンの悪事は次々と内部告発されていく。
妹の手術費は、世界中から集まった匿名の寄付で賄われ、彼女は無事に光を取り戻した。
数ヶ月後。
引退し、地方の修道院で庭師として働くレオンの姿があった。
そして、湊は。
[A:響谷 ノア:照れ]「ちょっと! 左側の敵、見えてないでしょ! 私が指示出すから、ちゃんと避けなさいよ!」[/A]
[A:灰島 湊:冷静]「……ノア、耳元で叫ぶな。うるさい」[/A]
新しい眼帯をつけた湊は、相変わらず黒いコートを羽織り、ダンジョンの闇の中を歩いている。
だが、その背中は以前よりも少しだけ、温かい。
彼は英雄になどならなかった。
ただ、世界で一番気高い「ゴミ拾い」として、今日も誰にも知られず、迷える魂を空へと還し続けている。
[Think]時間は有限だ。だが、祈りだけは永遠に残る[/Think]
湊はガスマスクを装着し、深淵の奥へと消えていった。
その傍らには、小さなドローンが、蛍のように寄り添って飛んでいた。