第一章:記録される死
湿った空気が、肺胞の奥にへばりつく。
ここは地下九十九層。地図にない深淵。
腐敗臭と鉄錆の匂いが混ざり合う暗闇の中で、僕はただ、ファインダーを覗いていた。
震える指先。確かめるのはシャッターボタンの感触。
ボサボサに伸びた黒髪が汗で額に張り付き、視界を遮ろうとするのを、首を振って払いのける。重たい多機能ベストが肩に食い込んでいた。予備のバッテリー、交換レンズ、マイクユニット。総重量十五キロの機材たちが、僕の猫背をさらに地面へと押し付けている。
だが、カメラを構えるこの瞬間だけは、背骨に冷たい鉄柱が通ったように身体が安定する。
たとえ、レンズの向こうに映るのが、自分自身の「処刑人」であったとしても。
闇を切り裂く、クリスタルアーマーの微かな発光。
金色の髪を完璧にセットした男――国内最強のS級探索者、神宮寺ライガが、こちらを見下ろしている。その整いすぎた唇が、三日月のような弧を描いて歪んだ。
神宮寺ライガ「悪いな、カケル。ここから先は一人乗りの脱出ポッドしかないんだわ」
彼の背後で、巨大な影が蠢いた。
深層の守護者、『深淵の捕食者(アビス・イーター)』。
ぬらりと光る粘液に覆われた巨躯は、ビル一つを飲み込むほどの質量を持っている。
神宮寺ライガ「あいつの足止めには、生きた餌が一番効くらしいぜ。光栄だろ? お前の死に様が、俺の伝説のワンシーンになるんだからよ」
ライガの手が操作パネルを弾く。
プシュ、という排気音。彼だけを包む転移結界が展開される。
雨宮カケル「……あ……ぅ……」
喉が引きつり、声にならない。
膝から力が抜け、硬い岩盤に崩れ落ちる。
胃の腑が裏返るような吐き気。逃げなければ。走らなければ。
本能が警鐘を乱打している。
だが、僕の身体は動かなかった。
いや、違う。
右目だけが、動いていた。
レンズ越しに、ライガが去りゆくその一瞬の「絵」を、無意識に追い続けていたのだ。
逆光に照らされた英雄の背中。残される生贄の絶望。構図(コンポジション)は完璧だ。皮肉なほどに、美しい。
神宮寺ライガ「ははっ! その顔だよカケル! 俺が逃げるまでの間、最高の死に顔を撮ってくれよな!」
閃光。
ライガの姿が消えた。
残されたのは、僕と、涎を垂らす怪物だけ。
雨宮カケル「……は、はは……」
乾いた音が喉から漏れる。
死ぬんだ。
僕みたいな、レンズを通さなければ世界を見ることさえできない透明人間は、こうやって誰かの踏み台になって死ぬのがお似合いなのかもしれない。
怪物の触手が、鞭のようにしなった。
風圧だけで肌が裂ける。
死が、目前に迫る。
その時だった。
僕の視界――あるいは脳の奥底で、無機質なノイズが走ったのは。
条件達成を確認。
スキル『観測者(カメラアイ)』が極限状態により覚醒します。
接続先:隠し領域《深淵放送局(アビス・チャンネル)》。
配信を開始しますか?
……配信? こんな時に、何を……。
死ぬ瞬間の記録映像なんて、誰が見るというのか。
けれど、指は勝手に動いた。
これは業だ。
被写体がある限り、シャッターを切らずにはいられない、呪われたカメラマンの業。
雨宮カケル「……ピント、合いました」
僕は怪物を見据え、RECボタンを押し込んだ。
◇◇◇
第二章:無言の共犯者
右腕の感覚がない。
多機能ベストは引き裂かれ、脇腹から生温かい液体が滲み出している。
それでも僕は、カメラを抱えて走っていた。
跳ね上げる泥水。岩陰を滑り込むように移動する。
『深淵の捕食者』は、どうやら視力が弱いらしい。頼りとするのは音と熱。
僕は息を殺し、心臓の音さえも手で押さえつけようとした。
行き止まりだ。
崩落した瓦礫が、通路を塞いでいる。
終わりか……。
死臭が漂う瓦礫の隙間に、微かな「青」が見えた。
光る苔ではない。もっと透き通った、悲しい色。
瓦礫の隙間。そこに少女がいた。
透き通るような銀髪は泥と埃に塗れ、肌にはひび割れたような黒い紋様が血管のように走っている。ボロボロの貫頭衣から覗く手足は、枝のように細い。
彼女は、瓦礫に挟まれた状態で、じっとこちらを見ていた。
右目は深い海のような青。左目は砕けた宝石のような赤。
オッドアイが、僕のレンズを――いや、僕自身を射抜く。
雨宮カケル「……人、間?」
こんな深層に、人がいるはずがない。
彼女は口をパクパクと動かしたが、声は出なかった。
喉元に焼き付いた呪いの刻印。声を奪われているのだ。
怪物の咆哮が近づく。
地響き。天井の岩屑がパラパラと落ちる。
ここで彼女を見捨てれば、僕は別の抜け道を探せるかもしれない。
ライガなら迷わずそうしただろう。
「道具」は使い捨てるものだから。
でも。
ファインダー越しに彼女と目が合った瞬間、僕の指が止まった。
彼女の瞳には、諦めも恐怖もなかった。
ただ静かに、世界の理不尽を受け入れるような透明な意志。
綺麗だ。
それは、ライガのような着飾った美しさではない。
命そのものが発する、原石の輝き。
雨宮カケル「……クソッ」
僕はカメラを片手に、もう片方の手で瓦礫に手をかけた。
爪が割れるのも構わず、岩をかき分ける。
雨宮カケル「動けるか!? 手を!」
少女は驚いたように目を見開いた。
そして、恐る恐る、泥だらけの小さな手を差し出す。
その手は氷のように冷たかった。
ガァァァァァァッ!!
背後の壁が弾け飛ぶ。
捕食者が、僕たちを見つけたのだ。
逃げ場はない。
僕は少女を背に庇い、カメラを構えた。
武器はない。あるのは、このレンズだけ。
その時、虚空に浮かぶコメントウィンドウが、滝のように流れ始めた。
現在視聴者数:12,405人
同接急上昇ランク:1位
『え、これガチ?』
『ライガの放送事故じゃないの?』
『誰だこのカメラマン』
『後ろの女の子なに!?』
『逃げろ!!!!』
『死ぬな死ぬな死ぬな』
地上では、ライガの「華麗なる生還」の裏で、何者かが回線をジャックしていた。
映し出されているのは、泥と血に塗れながら、少女を守って震える一人の「裏方」の姿。
視聴者はまだ気づいていない。
これが映画でも演出でもなく、今まさに消えようとしている命の灯火であることに。
少女――イリスが、僕の袖をぎゅっと掴んだ。
その熱が、震える僕の背中を支えていた。
◇◇◇
第三章:逆転のレンズ
怪物の爪が振り下ろされる。
僕は反射的にカメラを盾にした――わけではない。
あくまで「最高の画角」を維持するために、身体を捻ったのだ。
グシャァァッ!
左肩に走る激痛。
骨が砕ける音が、耳の奥で反響した。
衝撃で吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
視界が赤く点滅し、ノイズが走る。
雨宮カケル「が、ぁ……っ!」
カメラだけは死守した。
レンズは割れていない。まだ、撮れる。
けれど、もう立ち上がる力は残っていなかった。
イリスが、僕の前に立ちはだかる。
彼女の小さな背中から、黒い霧のようなものが立ち昇っていた。
けれど、彼女の足は震えている。
守ろうとしてくれている。こんな、使い捨ての僕を。
ああ、やっぱり僕は、主役にはなれない。
薄れゆく意識の中で、コメント欄が視界を埋め尽くす。
『立てよ!』
『お前が守るんだろ!』
『名前なんていうんだ!?』
『カケル! 雨宮カケルだ!』
『カケル、死ぬな!』
『ライガなんかより、お前の方がずっとかっこいいぞ!』
『見ているぞ! 俺たちが見ている!』
見ている?
僕を?
レンズの向こうの景色じゃなく、カメラを持っている「僕」を?
心臓が、早鐘を打った。
これまで僕は、誰かの光を反射するだけの鏡だと思っていた。
透明な存在だと。
だが、彼らは僕を見ている。僕に期待している。
その熱量が、血液となって全身を駆け巡った。
視聴者の感情エネルギーが閾値を突破。
スキル進化。
『観測者(カメラアイ)』 ⇒ 『演出家(ディレクター)』
権限:因果律への介入を許可します。
世界の色が変わった。
時間の流れが、水飴のように引き伸ばされる。
怪物の動きが、コマ送りのように見える。
舞い散る埃の一粒一粒、イリスの髪の揺らぎ、怪物の筋肉の収縮。
すべてが「編集画面」の上の素材のように感じられた。
……そうか。ここは僕のスタジオだ。
僕は血を吐き捨てながら、ゆっくりと立ち上がった。
左腕はだらりと垂れ下がっているが、右手にはカメラが吸い付いている。
ファインダーを覗く。
怪物の弱点――眉間の奥にある核が、赤くマーキングされて浮かび上がった。
雨宮カケル「カット割り、変更」
《スローモーション演出》適用。
対象速度:50%低下。
怪物が飛びかかろうとした瞬間、その動きが不自然に減速した。
まるで重力が増したかのように、巨体が空中で静止に近い状態になる。
雨宮カケル「そこだァァァッ!!」
僕は落ちていた鋭利な鉄骨を蹴り上げた。
それは物理法則を無視した軌道を描き、吸い込まれるように怪物の核へと突き刺さる。
ただの偶然ではない。
僕が「そうなるように」演出したからだ。
ギャァァァァァァッ!!
怪物が崩れ落ちる。
その轟音の中、僕はカメラを回し続けた。
イリスが振り返り、涙を浮かべた瞳で僕を見つめる。
その表情の、なんと鮮烈なことか。
雨宮カケル「……いい画だ」
同接数、50万人突破。
世界は今、新たな「主役」の誕生を目撃していた。
◇◇◇
第四章:暴かれる虚飾
地上、港区のタワーマンション最上階。
神宮寺ライガは、ワイングラスを壁に叩きつけた。
神宮寺ライガ「なんだこれは! なんであのゴミが生きてる!?」
ホログラムスクリーンには、深層で生存を続けるカケルの姿が映し出されていた。
SNSのトレンドは「#カケルを救え」「#ライガの説明責任」で埋め尽くされている。
神宮寺ライガ「調子に乗るなよ、裏方風情が……。俺が築き上げた数字を、貴様ごときが奪ってたまるか」
ライガは配信卓に座ると、冷酷な笑みを浮かべて「緊急放送」を開始した。
その顔には、瞬時に爽やかな憂いを帯びたマスクが張り付く。
神宮寺ライガ「みんな、騙されないでくれ。雨宮カケルは、ダンジョンの魔物と結託して俺を罠に嵌めたんだ。あいつの横にいる少女……あれは『深層の魔女』だ。人類の敵なんだよ!」
その言葉と共に、ライガは探索者協会の管理者権限を行使した。
警告:地上からの支援物資システム(ドネーション)が遮断されました。
対象ID:雨宮カケル
理由:反逆行為の疑い
深層のカケルの元へ届くはずだった食料、回復薬、バッテリー。
その全てが、光の粒子となって消滅した。
雨宮カケル「……なっ!?」
ただでさえ限界に近い体力が、絶望と共に削り取られる。
バッテリー残量は残り15%。
食料ゼロ。
そして目の前には、ライガが「あえて」起動せずに放置していた深層の守護機構――『真のボス』への扉がそびえ立っていた。
ライガは画面の向こうで嗤っている。
「飢えて死ね」と。
だが、彼は致命的な計算違いをしていた。
理不尽な悪意は、時に人を跪かせるが、大衆の心には別の火をつけることを。
コメント欄が、怒りで真っ赤に染まる。
『ふざけんな!』
『BANとか卑怯すぎる』
『魔女だろうがなんだろうが、必死に生きてるだろ!』
『俺たちが直接行くしかない!』
そして、カケルはレンズを拭った。
もはや、ライガへの恐怖も憧れも消え失せていた。
あるのは、静かな怒りと、隣で震える少女の手を握り返す温もりだけ。
イリスが、僕の傷ついた左腕をそっと抱きしめる。
冷たかった彼女の体温が、僕の熱と混ざり合う。
彼女は言葉を持たない。けれど、その瞳は雄弁に語っていた。
「一緒にいる」と。
泥と血に汚れた額を、彼女の額に押し当てる。
互いの呼吸が、鼓動が、一つのリズムになっていく。
カケルはカメラを自分に向けた。
初めて、レンズの中心に自分自身を据えた。
雨宮カケル「ライガ、聞こえるか。あんたが逃げ出した『本当のボス』……僕たちが倒す。物資なんていらない。このレンズと、彼女がいれば十分だ」
彼は扉を蹴り開けた。
その先には、神話ごとき威容を誇る『深淵の王』が待っていた。
バッテリー残量、10%。
僕の命も、おそらくそれくらいだ。
だからこそ、最高のショーを見せてやる。
第五章:色彩の帰還
閃光。爆音。そして静寂。
戦いは、壮絶を極めた。
『演出家』のスキルは万能ではない。
因果律をねじ曲げるたびに、代償として僕の視神経が焼き切れていく。
視界が白濁し、黒いしみが広がる。
ピントが合わない。
カメラマンにとっての命である「目」が、永遠の闇に沈もうとしていた。
雨宮カケル「くそっ、見え……ない……!」
『深淵の王』が放つ極大魔法の輝きさえ、今の僕には薄ぼんやりとした光の塊にしか見えない。
どこだ。どこを撮ればいい。どこへ避ければいい。
その時、脳内に直接、鈴を転がしたような声が響いた。
『――カケル、私を使って』
イリスの声?
いや、これは『共鳴』だ。
イリスが僕の背中にしがみつく。
彼女の視覚情報が、ダイレクトに僕の脳へと流れ込んできた。
色彩が爆発する。
彼女が見ている世界は、僕がレンズ越しに見ていた世界よりも、ずっと鮮やかで、残酷で、美しかった。
ああ、これが……世界の色か。
彼女のオッドアイが捉えた『王』の核。
それは、七色に輝く心臓だった。
雨宮カケル「イリス、合わせろ! ラストシーンだ!!」
スキル『演出家』最大出力。
全視聴者の感情エネルギーを収束。
《運命改変(クライマックス・カット)》発動。
僕は残った右手の全力を込め、イリスと共に最後の「撮影」を行った。
シャッターを切る動作が、そのまま攻撃へと変換される。
レンズから放たれたのは、光の弾丸ではない。
何千万という人々の「祈り」そのものだ。
貫けェェェェッ!!
光が、闇を飲み込んだ。
『深淵の王』が断末魔と共に霧散していく。
深層攻略完了。
MVP:雨宮カケル & イリス
同接数、一億人。
サーバーがダウンする寸前、画面には二人が寄り添って倒れ込む姿が映し出された。
そして、プツンと配信は途絶えた。
◇◇◇
数日後。
地上の病院。
窓を開けると、風の匂いがした。
けれど、僕の目には何も映らない。
真っ暗な闇だけが広がっている。
視力は戻らなかった。医者は「二度と光を見ることはない」と言った。
病室のドアが開く気配。
足音でわかる。軽やかで、少しだけ遠慮がちな足音。
雨宮カケル「イリス?」
温かい手が、僕の手に触れる。
そして、手のひらに指で文字を書いた。
『カ・ケ・ル』
僕は微笑んだ。
不思議と、絶望はなかった。
ライガの虚偽は暴かれ、彼はすべての名声を失ったと聞いた。
でも、そんなことはどうでもいい。
僕はもう、透明人間じゃない。
この暗闇の中でさえ、世界はこんなにも温かい色で満ちていることを知っているから。
雨宮カケル「……ピント、合ってるよ。イリス」
見えなくてもわかる。
彼女は今、泣きそうなほど優しい顔で、僕を見てくれているはずだ。
僕たちの物語は、ここから始まる。
レンズのない、ありのままの世界で。
[終]