第一章: 誰が為のカーテンコール
地下九十階層。吐く息は白く凍りつき、肺腑を内側からヤスリで削るような冷気が支配する極寒の地獄。
腐敗臭と鉄錆の匂いが充満する広大な空洞。そこで膝をつく男、**灰坂 クロト**。
まとわりつく油汚れ、何層にも乾いた血がこびりついた灰色の作業用つなぎ。地下の湿気を吸って海藻のように額へ張り付くボサボサの黒髪。前髪の隙間から覗くのは、死んだ魚を煮沸したような、光なき灰色の瞳。
彼の手元に転がる、この世で最も美しい「物体」。
[System]
警告:英雄ユニット【聖女 ルミナ】の生命反応消失を確認。
視聴者接続数:3,240,511人
残り接続維持時間:00:03:00
[/System]
泥水に浸かる透き通った金髪。虚空を見開いたまま濁りきった、かつて宝石のようだった蒼眼。腹部の巨大な裂傷から溢れ出した赤黒い液体で重く濡れそぼる、純白に金の刺繍が施された聖衣。
国民的英雄。慈愛の聖女。
今の彼女は、ただの「肉」。
[A:灰坂 クロト:冷静]「……回収対象、確認。損壊レベル、深刻」[/A]
独りごちるクロト。喉に巻きついた変声機能付きのチョーカーが、皮膚に食い込んで痛む。
彼は清掃員(クリーナー)。
冒険者が食い散らかした残骸を、誰の記憶に残ることもなく始末するダンジョンの最底辺。
[System]
警告:視聴者数が減少傾向にあります。
規定値を下回った場合、スキル『信仰結界』は崩壊し、Sランク魔物が地上へ解放されます。
[/System]
視界の端で明滅する無機質なログ。
聖女の結界は、人々の「祈り」――すなわち配信の「視聴者数」を魔力源としていた。
彼女が死んだと知れれば、数字は消え、結界は解け、地上は終わる。
正義感などない。結界が消えれば、彼もまた魔物の餌になる。ただそれだけのこと。
[Think]やるしかない。この死体が、完全に冷たくなる前に。[/Think]
[Sensual]
クロトは震える指先を伸ばし、聖女の骸に触れた。
まだ微かに温かい。死後硬直は始まっていない。
彼は聖女の衣服に手をかけ、血塗れの聖衣を剥ぎ取っていく。濡れた布地が、死した少女の柔肌から卑猥な音を立てて剥がれる。
自らの薄汚れたつなぎを脱ぎ捨て、聖女の「皮」を纏う。
冷え切った彼女の血液が、クロトの皮膚に直接触れ、ぬるりと滑った。それは死者との、最初で最後の抱擁のようだった。
[/Sensual]
聖女の遺品である金髪のウィッグを被り、魔道具の仮面で骨格データを上書きする。
鏡面に映ったのは、返り血を浴びた聖女そのもの。
首元のチョーカーを調整。周波数を合わせる。走るノイズ。
[A:灰坂 クロト:冷静]「あー……あ、あー。テステス。……よし」[/A]
その声は、紛れもなく天使のそれ。
ドローンカメラの赤いランプが点滅を再開する。
配信再開まで、あと五秒。
三。
二。
一。
無理やり吊り上げる、頬の筋肉。
[A:聖女 ルミナ:愛情]「ごめんなさい、みんな! ちょっと回線トラブルがあって……でも、ルミナは元気だよ! 皆さんに光の加護がありますように!」[/A]
視界を埋め尽くすコメントの奔流。
跳ね上がる数字。
世界を騙す、孤独な道化芝居の幕が上がった。
◇◇◇
第二章: 虚構の偶像
「右腕が遅れているぞ、無能!」
鼓膜に直接響く怒号。耳に仕込んだ超極小インカムから、オーナーである**ガルド・ヴァイカウント**の声が脳を揺らす。
[A:ガルド・ヴァイカウント:怒り]「同接の伸びが悪い! 視聴者はもっと刺激を求めてるんだよ! 避けずに受けろ。もっと血を見せろ!」[/A]
聖女の顔で、聖女の声で、迫り来るオークジェネラルの大鉈を紙一重で回避するクロト。
鼓膜を裂く風切り音。
[A:聖女 ルミナ:恐怖]「きゃあっ! ……だ、大丈夫です、女神様が守ってくれていますから!」[/A]
怯えた演技とは裏腹に、クロトの脳内は氷点下のように冷めきっていた。
本来のルミナは魔法特化。だが、クロトに魔法は使えない。
『気配遮断』で敵の認識をずらし、あたかも「奇跡的に攻撃が外れた」かのように振る舞い続ける。
視界の端に流れるコメント欄。虹色のノイズとなって網膜を焼く悪意。
『もっとピンチな顔が見たいw』
『今日のルミナちゃん動き悪くね?』
『奇跡見せろよ』
『エロすぎ、服破けろ』
[Think]吐き気がする。[/Think]
ルミナが最期に残したメモリーログを並列処理で読み込む。
そこにあるのは、聖女の慈愛ではない。
『死にたい』『誰も私を見ていない』『数字が怖い』『薬がないと眠れない』
黒く塗りつぶされたテキストの羅列。
彼女を殺したのは魔物ではない。この、無邪気で残酷な三百万人の「期待」。
[A:ガルド・ヴァイカウント:興奮]「いいぞ、その涙目! 数字が回ってきた! 次は大型魔法で焼き払え!」[/A]
[Think]魔法なんて撃てるわけがない。[/Think]
瓦礫の影に滑り込みながら、足元の「爆裂石」を蹴り上げる。
タイミングを合わせ、口パクで詠唱のフリ。
[Magic]《聖なる光よ、邪悪を浄化せよ(ホーリー・レイ)》![/Magic]
[Shout]ドォォォォォォン!![/Shout]
爆発音と共に飛び散るオークの肉片。
カメラのアングルを計算し、爆風を背に受けて髪をなびかせる「聖女」。
完璧な構図。完璧な虚像。
視聴者数は四百万を超えた。
だが、クロトの手足は鉛のように重い。
自分は誰だ?
俺は灰坂 クロトか? それとも、死んだ聖女の亡霊か?
鼻孔にこびりつく血の匂い。自分の輪郭が溶けていく錯覚。
その時、ダンジョンの地響きと共に崩落する天井。
現れたのは、この階層の主(ボス)。
推定レベル九十。深淵の巨竜が、黄金の瞳で「聖女」を射抜く。
[A:聖女 ルミナ:絶望]「う、嘘……こんなの、聞いてない……」[/A]
演技ではない。
本能的な恐怖が、クロトの喉から漏れた。
◇◇◇
第三章: 剥がされた仮面
圧倒的な暴力。
薙ぎ払われる巨竜の尾。変わる地形。
瓦礫のように吹き飛ばされ、壁に叩きつけられるクロト。
ボロボロに裂けた聖衣。変装の下にある「清掃員」の汚れたつなぎが露出しそうになる。
[System]
警告:変装維持率 15%
ダメージ過多により、ホログラム迷彩にノイズ発生。
[/System]
[A:ガルド・ヴァイカウント:怒り]「おい! 映像が乱れてるぞ! 何とかしろ、このドブネズミが!」[/A]
響くガルドの罵声。
血を吐きながら立ち上がろうとする体。まだだ。まだ視聴者は見ている。
結界を維持しなければ。
その瞬間。
クロトの視界にポップアップした、エラーログのような赤いウィンドウ。
『Access Denied』
『Unauthorized User Detected』
死んだはずのルミナの生体IDが、クロトのシステムに干渉する。
耳元のスピーカーから聞こえたのは、配信には乗らない「本物の彼女の声」。
[A:聖女 ルミナ:悲しみ]「……もう、いいの」[/A]
[A:灰坂 クロト:驚き]「な……?」[/A]
[A:聖女 ルミナ:悲しみ]「私を、休ませて。これ以上、あの人たちの玩具にしないで。私の死顔まで売らないで!」[/A]
[Shout]ビキキキキッ、パリーン!![/Shout]
甲高い破砕音と共に、強制解除される変装魔道具。
光の粒子となって消える輝く金髪。現れる、油で汚れた黒髪。
可憐な聖女の顔が歪み、露出するのは死んだ魚のような目をした少年の顔。
その全てを残酷なほどの高画質で捉えるドローンカメラ。
全世界の時間が止まった。
一瞬で凍りつき――そして爆発するコメント欄。
『は?』
『誰こいつ』
『男?』
『ルミナちゃんは?』
『汚ねえ!』
『詐欺だ! 金返せ!』
『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』
滝のように落下していく視聴者カウンター。
三百万人を割り、百万人、十万人と転がり落ちていく。
そして、ゼロに近づくにつれ、周囲を覆っていた黄金の光――『信仰結界』がガラス細工のように砕け散った。
[A:ガルド・ヴァイカウント:冷静]「……チッ。商品価値ゼロか。契約終了だ、ゴミ屑」[/A]
プツン。
途絶える通信。
支援物資の転送も、脱出用のポータルも、全てがオフラインになる。
目の前には、殺意を漲らせた巨竜。
背後には、彼を見捨てる世界。
手元には、刃こぼれした解体用ナイフが一本だけ。
[Think]ああ、やっぱり。[/Think]
膝から崩れ落ちるクロト。
俺は誰の代わりにもなれない。
誰の記憶にも残らない。
ただの、ゴミ処理係。
大きく口を開け、灼熱のブレスをチャージする巨竜。
死の熱が、クロトの頬を焦がした。
◇◇◇
第四章: 汚泥からの反逆
熱波がまつ毛を焼く。
死ぬ。
ここで、誰にも知られずに炭になる。
それがお似合いの末路。
そう思ったはずなのに。
[Think]……ふざけるな。[/Think]
無意識に地面の泥を掴んでいた右手。
[Think]俺は清掃員(クリーナー)だ。[/Think]
誰かが捨てたゴミを拾い、汚物を拭い、死体を片付ける。
世界の誰もが嫌がる汚れ仕事を、毎日、毎日、淡々とこなしてきた。
その俺が、こんなトカゲ一匹に「処理」される側で終わるのか?
[A:灰坂 クロト:狂気]「……ふざ、けるな……!」[/A]
クロトの瞳に宿る昏い炎。
死んだ魚の目ではない。飢えた獣の目。
彼は立ち上がった。聖女の演技など、もう必要ない。
魔法も、加護も、奇跡もない。
あるのは、解体技術と、殺意だけ。
[Shout]「俺はァ! ゴミじゃねええええええ!!」[/Shout]
ブレスが放たれた瞬間、前方へ飛ぶ影。
避けるのではない。炎の中へ。
耐火加工された作業用つなぎが焦げ付き、皮膚が焼ける臭いがする。
だが、彼は止まらない。
滑り込む巨竜の懐、死角である顎の下。
[A:灰坂 クロト:怒り]「開口一番、口が臭えんだよ!」[/A]
手にした解体用ナイフを、竜の鱗の隙間――逆鱗ではなく、排泄腔の神経節へ突き立てる。
泥臭く、卑怯で、最も効果的な「急所」。
[Shout]ギャオオオオオオオオッ!![/Shout]
悶絶し、暴れ回る竜。
その巨体に張り付き、関節の筋、眼球、柔らかい粘膜だけを執拗に狙って切り裂いていく。
血と体液がシャワーのように降り注ぎ、クロトの全身を赤黒く染め上げる。
カメラはまだ回っていた。
ガルドが切るのを忘れた回線が、その凄惨な光景を映し出していた。
『うわ、グロ……』
『何だこいつ、動きがキモい』
『いや、待て』
『避けた? あの距離で?』
『あいつ、笑ってないか?』
再び動き出す視聴者数。
聖女を見るための「崇拝」ではない。
未知の怪物が、圧倒的な強者に泥を塗りたくりながら食らいつく様への「戦慄」と「興奮」。
美しい嘘が剥がれ落ち、そこにあるのは剥き出しの「生」への渇望。
[Think]見ろ。これが俺だ。[/Think]
竜の背によじ登り、ナイフを喉笛に突き立てる。
自身の血と、竜の血が混ざり合い、視界を赤く塗りつぶす。
[A:灰坂 クロト:絶望]「解体(バラ)してやる……骨の髄まで、一グラムも残さずになぁ!!」[/A]
刃が骨を削る不快な音が、マイクを通して全世界に響き渡った。