第一章: 終わりの始まり
雨の匂いに混じる、錆びた鉄の臭気。一年中、名もなき夕立が降り続く雨読の港町。
少し長めの黒髪から滴る雨粒。それが着崩した書生絣へと染み込んでいく。水溜まりに映る深い群青色の瞳。夕暮れの光を乱反射する濡れた石畳を、彼はじっと見つめていた。
時雨 蒼は、古びた革靴のつま先で小さな石を弾く。
静寂。水音だけが世界を支配する、灰色の空間。
[A:白露 蛍:喜び]「蒼」[/A]
透き通るような声。振り返る。
夕焼けを溶かしたように赤く澄んだ瞳にかかる、色素の薄い銀髪。矢絣の袴の裾が濡れるのも構わず、彼女は泥水を素足で踏み締め、微かに微笑む。髪に挿した精巧なガラス細工の簪。それが西日を捉え、七色に瞬く。
白露 蛍。この世のものとは思えないほど、彼女の輪郭は光に溶け込んでいた。
[A:時雨 蒼:冷静]「また傘も差さずに。風邪を引くよ」[/A]
[A:白露 蛍:愛情]「蒼が迎えに来てくれると思ったから」[/A]
彼女が手を伸ばす。熱を帯びた吐息とともに。
その指先が蒼の頬に触れようとした、その瞬間。
[Impact]パキリ。[/Impact]
乾いた音が、鼓膜を打つ。
蛍の指先から肘へ、そして肩へ。滑らかな肌が、透明な輝きを帯びた硬質の物質へと変異していく。
[A:時雨 蒼:驚き]「蛍……?」[/A]
声の震え。
見開かれたまま硬直する、彼女の赤い瞳。唇が微かに動くが、音は発せられない。
[Flash]パァァン![/Flash]
次の瞬間。蛍の全身が美しく輝く硝子の彫像と化し、自重に耐えかねたように無数の破片となって砕け散った。
石畳に降り注ぐ、きらきらと光る硝子の雨。
膝から力が抜け、冷たい地面に這いつくばる蒼。喉の奥でひゅっと空気が鳴り、呼吸の仕方を忘れた肺が痙攣する。
[Tremble]血の気が引き、指先がひどく冷たくなっていく。[/Tremble]
[A:時雨 蒼:絶望]「あ……ああ……ッ」[/A]
震える手で、硝子の破片を掻き集める。鋭い断面が手のひらを切り裂く痛み。赤黒い血が、透明な破片を染め上げる。
足音。傘を差した街の住人たちが通りかかる。蒼はすがりつくように顔を上げた。
[A:時雨 蒼:狂気]「助け……救急車を! 蛍が、彼女が砕けて!」[/A]
しかし、中年の男は怪訝な顔で蒼を見下ろす。
[A:黒鉄 弦一郎:冷静]「何を騒いでいる、少年。ただのオブジェではないか」[/A]
[A:時雨 蒼:驚き]「……は?」[/A]
[A:黒鉄 弦一郎:冷静]「路地裏に落ちている、美しい硝子細工。それだけのことだろう」[/A]
弦一郎と名乗る男。彼は興味なさげに銀の装飾が施された杖をつき、歩み去る。
通り過ぎる人々も皆、砕けた蛍の死骸を指差して「綺麗な硝子だ」と囁き合うだけ。
誰も、白露 蛍という少女を覚えていない。
手のひらに食い込む硝子の痛みだけが、確かな現実。人間の死が圧倒的な美しさにすり替えられ、忘却される狂気の街。
喉の奥から、声にならない叫びが漏れ出た。
第二章: 乱反射する時の万華鏡
蛍の部屋。鼻腔を突くのは、古い埃と紫陽花の枯れた匂い。
誰も彼女を覚えていない世界で、蒼だけがこの部屋の記憶を保持している。
机の上に残された、一本の古い万華鏡。
真鍮の筒を握り、覗き込む。
[Glitch]カチリ。[/Glitch]
歯車が噛み合う音。視界が極彩色に明滅し、強烈な吐き気が胃袋からせり上がる。
[Think]時間が、巻き戻る……?[/Think]
眼球が裏返るような激痛。口の中に広がる血の鉄の味。
[Pulse]ドクン、ドクン。[/Pulse]
鼓動が耳障りなほど大きく響く。目を開けると、そこは数日前の街。夕立の降る時計塔の下。
[A:黒鉄 弦一郎:冷静]「運命に逆らうな、少年。代償は常に高くつく」[/A]
頭上からの声。
短く刈り込んだ白髪に、鋭い三白眼。右目には片眼鏡。仕立ての良いインバネスコートを羽織った男、黒鉄 弦一郎が、文字盤のない時計塔の縁から蒼を見下ろしている。
[A:時雨 蒼:怒り]「あんたは……知っているのか。この街で起きている連続硝子化現象を」[/A]
[A:黒鉄 弦一郎:冷静]「観測しているだけだ。私は傍観者。他者の運命に干渉する気はない」[/A]
銀の杖の先端が、石畳を打つ。
[A:黒鉄 弦一郎:冷静]「過去を弄れば、必ずしわ寄せが来る。これ以上万華鏡を使えば、君自身の時間も砕け散るぞ」[/A]
突き放すような忠告。だが、蒼は群青色の瞳に昏い炎を宿して男を睨み返した。
[A:時雨 蒼:怒り]「僕のことはいい。蛍が笑ってくれるなら、僕がどうなっても構わない」[/A]
翻る書生絣の裾。蒼は時計塔を背に、雨の街へと駆け出す。
街の住人が硝子に変えられる直前の時間。被害者の痕跡を追う。
路地裏の奥、雨に濡れたレンガの壁。
そこで蒼が見つけたのは、犯人の遺留品。
泥水に沈む、精巧なガラス細工の簪の欠片。
夕光を反射して七色に輝くそれを見た瞬間、蒼の心臓が早鐘を打つ。
[A:時雨 蒼:恐怖]「嘘だろ……。これ、は」[/A]
それは、蛍の髪に挿してあったものと、全く同じ欠片。
全身の毛穴から冷汗が噴き出し、視界がぐにゃりと歪んだ。
第三章: 奪われた秒針と狂気の純愛
時間を遡るたびに、痛みが骨を軋ませる。
降り頻る雨の中。人気のない波止場。
蒼の視線の先。そこには傘も差さずに佇む、銀髪の少女の背中がある。
[A:時雨 蒼:絶望]「蛍。君だったのか」[/A]
声が震えるのを止められない。
振り返る蛍。その美しい顔には、罪悪感の欠片もない。
[A:白露 蛍:冷静]「見つかっちゃったね。蒼には、知られたくなかったな」[/A]
[A:時雨 蒼:怒り]「なぜだ! なぜ街の人たちを硝子に変えた!」[/A]
[Impact]「蒼を、生かすためだよ」[/Impact]
ふわりと。花がほころぶような笑み。自らの指先を愛おしそうに噛み千切りながら、彼女は告げる。
氷のような冷たさが、蒼の背筋を駆け上がる。
[A:白露 蛍:愛情]「蒼はね、本当はもう死んでるの。三年前の事故で」[/A]
淡々と語られる真実。
本来の歴史において、時雨 蒼はとっくに命を落としていた。
絶望した蛍は万華鏡を手に入れ、時間を巻き戻す。
だが、死の運命を回避するには「他者の時間」を代償にする必要があった。
他者を硝子に変え、その砕け散る命の秒針を蒼に注ぎ込む。そうやって、蒼の命を無理やり繋ぎ止めていたのだ。
[A:白露 蛍:狂気]「誰かの記憶なんてどうでもいい。世界中があなたを忘れても、私だけは絶対に忘れない。あなたが生きていてくれるなら、私は何百回でもこの街を砕くよ」[/A]
底知れぬ純粋な愛情。
その奥に潜む、圧倒的な狂気。
赤い瞳が、一切の揺らぎなく蒼を射抜く。血の滴る指先で、彼女は蒼の頬を撫でた。
[A:時雨 蒼:絶望]「僕のために……君が、人殺しを……?」[/A]
膝が震え、その場に崩れ落ちそうになる。
彼女の犯した罪は、すべて自分を生かすためのもの。前提が根底から覆る。
自分が生きているという事実そのものが、彼女を怪物に変えていた。
第四章: 降り頻る雨、すれ違う祈り
泥の匂い。雨は激しさを増し、世界を白く塗り潰していく。
蒼の手には、落ちていた鋭い硝子の破片が握られている。
[A:時雨 蒼:絶望]「もう終わりにしよう、蛍。君に罪を背負わせてまで、僕だけが生きていたくない」[/A]
硝子の刃を、自らの首筋に押し当てる。
一筋の血。それが白い肌を伝って書生絣の襟を汚す。
[A:白露 蛍:悲しみ]「やめて……ッ! やめてよ蒼!」[/A]
余裕のあった蛍の顔が、初めて恐怖に歪む。
矢絣の袴を泥で汚しながら、泣き叫び、地を這うように手を伸ばす。
[A:時雨 蒼:怒り]「僕なんか、取るに足らない人間だ! 君が手を汚す価値なんてない!」[/A]
[Shout]「ふざけないでぇぇぇッ!!」[/Shout]
蛍の絶叫が、雨音を切り裂く。自らの喉を掻き毟り、赤く染まった手で天を仰ぐ。
[A:白露 蛍:狂気]「あなたがいない世界なんて、何の意味もない! お願いだから生きて! 私のために生きてよ!!」[/A]
[A:時雨 蒼:悲しみ]「ごめん、蛍。君を、一人にする」[/A]
刃を深く突き立てようとした、その瞬間。
[Flash]ピシィィィィッ!![/Flash]
空に、巨大な亀裂が走る。
無数の時間を巻き戻し、他者の運命を歪め続けた代償。
空間そのものが限界を迎え、硝子のようにひび割れ始めたのだ。
時計塔の上で、弦一郎が片眼鏡を抑えながら空を見上げる。
[A:黒鉄 弦一郎:恐怖]「世界が、砕ける……。これが運命への反逆のツケか……!」[/A]
建物が、海が、空が。
あらゆるものが透明な硬質へと変異し、乾いた音を立てて崩壊していく。
逃げ場など、どこにもない。
すべてが硝子に飲まれていく終末の光景の中で、蒼と蛍は互いを見つめ合っていた。
第五章: 永遠の微睡みを抱いて
[Glitch]世界が崩れ落ちる。[/Glitch]
空から降り注ぐのは、雨ではなく無数の硝子の破片。
痛いほどの光の乱反射の中、蒼は万華鏡を強く握りしめる。
世界を救う方法は、もうない。
ならば。
[A:時雨 蒼:愛情]「……蛍」[/A]
[Sensual]
蒼は刃を捨て、泣き崩れる蛍の細い身体を強く抱きしめた。
[A:白露 蛍:悲しみ]「蒼……いやだ、死なないで……」[/A]
すがりつく彼女の震える背中に腕を回し、銀色の髪に頬を寄せる。
肌越しに伝わる、互いの体温。早まる鼓動。
[A:時雨 蒼:愛情]「一緒にいよう。ずっと」[/A]
蒼の指先が、万華鏡の筒を無理やり限界を超えて回し切る。
《時間停滞の呪法》
[Magic]万華鏡がけたたましい音を立てて砕け散り、内包されていた時間の奔流が二人を包み込む。[/Magic]
足元から、急速に温度が失われていく。
滑らかな硝子の冷たさが、二人のつま先から這い上がってくる。
それは死ではない。永遠に固定される、時間の静止。
蒼は、蛍の涙で濡れた頬にそっと口唇を落とした。
柔らかい唇の感触。それが、次第に硬く冷たい硝子へと変わっていくのを、皮膚の表面で感じる。
[A:白露 蛍:愛情]「蒼……愛してる……」[/A]
[A:時雨 蒼:愛情]「僕もだよ、蛍」[/A]
抱きしめ合う腕が、衣服が、髪が。
完全に溶け合い、一つの透明な塊へと変異していく。
[/Sensual]
夕暮れの光が、沈黙した世界を照らし出す。
雨の上がった港町。
そこには動くものは何一つなく、ただ無数の美しい硝子の彫像が立ち並んでいるだけ。
その中心で、一組の少年と少女が強く抱きしめ合ったまま、巨大で精巧な硝子細工となって永遠の微睡みに落ちていた。
西日を乱反射し、彼らはこの世のどの宝石よりも清冽に輝く。
狂気と自己犠牲の果てに辿り着いた、歪みきった救済。
誰も彼らを記憶しない。
ただ、冷たく美しい静寂だけが、二人の時間を永遠に閉じ込めていた。