第1章:血塗られた鍵盤

窓を激しく叩く豪雨の音が、重苦しい低音となって洋館の古い床板を揺らしている。
湿った革と安煙草の匂いをまとった、着古したトレンチコート。
園村新はそれを脱ぎ捨てることもせず、ただ静かに、床一面に広がる生々しい赤い海を見つめていた。
立ち込めるのは、鉄錆に似た濃厚な血の匂いだ。
首元を緩めた新の、鋭く尖った三白眼が、記憶の網をゆっくりと広げていく。
彼の脳は、凡百の人間とは根本的に異なっていた。
視界に入る全ての情報――飛び散った血痕の正確な角度、倒れた椅子の脚の位置、そして肉塊と化した死体の奇妙なねじれ。
それらすべてを、脳内のキャンバスへと、寸分違わず精密に転写していくのだ。
[System]絶対記憶:状況展開完了[/System]
被害者は如月弦一郎。
世界的な名声を誇る作曲家であり、この館の主。
その肉厚な胸には、美しく、そして深く、銀色のペーパーナイフが突き刺さっている。
...そして、そのナイフの柄を両手でしっかりと握りしめたまま、純白のシルクドレスを赤黒く染めて佇む人影があった。
[A:園村 新:冷静]「……指先の血はすでに凝固し、乾き始めている。だが、床に広がった血溜まりはまだ僅かに流動性を保っているな」[/A]
新の低く掠れた声が、氷のように冷え切った大気の中に溶けていく。
影は、ぴくりとも動かない。
艶やかな漆黒の長い髪が、まるで死人のような蝋細工の白い頬に、濡れて張り付いている。
如月汐里。
被害者の愛娘であり、かつて若き天才ピアニストとして一世を風靡しながらも、ある事故で光を失った少女。
彼女は、固く閉ざされたままの瞼を、ゆっくりと新の立つ方向へと向けた。
そして、かすかに濡れた薄い唇を、そっと、艶やかに開く。
[A:如月 汐里:冷静]「お捜しものの答えなら、ここにありますわ。名探偵さん。手のひらに残るこの冷たい、そして重い鉄の感触。これが、何よりの証明でしょう?」[/A]
それは、雨音の隙間を縫って鼓膜に届く、鈴の音のような、あまりに澄んだ声だった。
衣服にべっとりと付着した、粘り気のある赤黒い染み。
その凄惨な視覚情報とは裏腹に、彼女の佇まいは神聖なまでに超然としている。
[A:如月 汐里:冷静]「私が、父を殺しました」[/A]
[Flash]完璧な自供[/Flash]。
何一つ揺らぎのない、完全なる告白。
しかしその瞬間、新の脳裏に、心臓を直接爪立てるような、強烈な不協和音が鳴り響いた。
何かが、決定的に、狂っている。
新は音もなく一歩近づき、死体の背後にある白壁を見上げた。
点々と付着した飛沫血痕は、床から一・八メートルの高さまで、美しい扇状に広がっている。
[Think]おかしい。計算が合わない。
彼女の身長は百五十八センチ。
対して、椅子に座っていた大柄な被害者。
上から見下ろすように、この華奢な腕で刺したとして、どうやってこの角度に血を飛ばす?
それに、衣服への返り血の付着パターンも不自然極まりない。
彼女の右腕の外側にだけ、不自然に濃い血が集中している。
まるで、すべてが終わった後、その場所に彼女の手を固定し、わざと浴びせかけたかのように。[/Think]
[A:園村 新:冷静]「嘘だな。君のその清らかな手は、人を殺していない」[/A]
第2章:不協和音 of 尋問

薄暗い洋館の応接室。
暖炉の中で、乾いた薪が爆ぜる音だけが、息詰まるような沈黙を支配していた。
新は、淹れたてのブラックコーヒーが入った陶器のカップをテーブルに置き、対面に座る汐里をじっと見つめる。
彼女は、視界を持たないはずの指先で、テーブルの微細な木目を丁寧になぞっていた。
その指の動きは、まるで存在しないピアノの鍵盤を叩くかのように不規則で、しかし、ある一定の、恐ろしいほど正確な律動を持っている。
[A:園村 新:冷静]「君の『完全音感』は、他人の僅かな嘘を、呼吸の乱れや心拍の揺らぎで聞き分けると聞いた。ならば尋ねる。自分自身の口から吐き出される嘘の音は、君の耳にどのように響いている?」[/A]
[A:如月 汐里:冷静]「ふふ、意地の悪い質問ですこと。私の耳に今も響いているのは、ただ一つ。父が遺していった、美しくも残酷な不協和音の残響だけですわ」[/A]
[Sensual]
汐里はふっと、吸い寄せられるように身を乗り出した。
彼女の細い指先が、迷うことなく新のトレンチコートの濡れた袖を掴む。
薄い布地を通して、引き締まった指先から、微かな、しかし確かに脈打つ体温が伝わってきた。
まるで、甘く退廃的な百合の花のような香りが、冷たい空気と共に新の鼻腔を深くくすぐる。
彼女の閉ざされた瞳が、あと数センチという至近距離で、新の顔にまっすぐ向けられた。
[A:如月 汐里:愛情][Whisper]「探偵さん。真実を暴き立てることが、常に哀れな人間たちの救いになるとお思い? 私をこのまま、暗い、美しい奈落へ落としてくださるのが、私たちが迎えるべき一番美しい終曲(フィナーレ)なのに」[/Whisper][/A]
[Pulse]新の鼓動が、不規則に、そして激しく跳ね上がる。[/Pulse]
彼女の冷徹な、しかし甘美な知性が、自分の喉元に静かに刃を突きつけているような、心地よい錯覚。
指先に触れる彼女の肌は滑らかで、胸の奥から湧き上がる衝動が、彼の冷徹な理性を少しずつ侵食していく。
[/Sensual]
その甘美な空間を引き裂くように、重い重厚な扉が、乱暴に押し開けられた。
ぐしょぐしょに濡れた革靴の不快な音が響き、無精髭を蓄えた大柄な男が、肩を揺らしながら入ってくる。
着古した仕立ての悪いスーツ。獲物を狙う獣のような、鋭く威圧的な眼光。
刑事、橘健吾だった。
[A:橘 健吾:怒り]「おい、新! 勝手に容疑者と二人きりで、コソコソと何の話をしてやがる!」[/A]
[A:園村 新:冷静]「橘か。相変わらずお前は、足音がうるさいな。少しは俺のプロファイリングの邪魔をしないでもらいたいものだ」[/A]
橘は低い唸り声を上げ、新の胸ぐらを荒々しく掴むと、強引に立ち上がらせた。
顔を極限まで近づけ、安煙草と、冷たい雨の混ざった悪臭のする息を吐きかけてくる。
[A:橘 健吾:怒り]「ふざけるな! 本庁から応援の隊員どもが来る前に、さっさとホシの身柄を確保するのが俺の仕事なんだよ。あの女は自分で刺したと、そう、はっきり言ったんだろ!」[/A]
[A:園村 新:冷静]「だが、物理的な証拠のすべてが、彼女の無実を叫んでいる。お前はあの血の海を見て、現場に残された不自然さに、何も感じなかったのか?」[/A]
橘の濁った目が、一瞬だけ、激しく揺らいだ。
しかし、彼はすぐにそれを、より強硬な暴力的な光で覆い隠す。
[A:橘 健吾:怒り]「感情でホシを追うな。新、お前……また、あの最悪な事件を重ねてやがるな? 実の妹を救えなかった薄汚い過去を、あの盲目の、胡散臭い女に投影してんじゃねえよ!」[/A]
[Impact]「妹」[/Impact]
その、決して触れてはならない言葉が、新の胸の最も深い傷口に突き刺さる。
肺の空気がすべて抜け出たように、新の呼吸が不自然に詰まった。
指先が、極寒の氷に浸されたかのように、感覚を失って動かなくなる。
第3章:吊られた操り人形

橘が他の署員を連れて現場検証の再確認に戻った隙を見計らい、新は単身、汐里の私室へと潜入する。
脳内の絶対記憶に格納された館の構造設計から、彼女の部屋の位置を特定することは極めて容易だった。
クラシックで贅沢な調度品で整えられた、静謐な部屋。
その片隅に、異様な、狂気的な存在感を放つ古い棚があった。
そこには、無数のアンティークなオルゴールが、整然と並べられていた。
新はある一つのオルゴールに目を留めた瞬間、喉が詰まるような感覚に襲われた。
木彫りのアカンサスの葉が精緻に施された、スイス製の古いオルゴール。
それは、かつて新の最愛の妹が大切に扱い、そして、あの最悪な事件の夜、血溜まりの中で寂しく鳴り響いていたものと、全く同じモデルだった。
[Think]なぜ、これがこの場所にある? ただの偶然など、この世に存在するはずがない。
それとも、あの事件の犯人とこの館は……[/Think]
新の手が、微かに震える。
オルゴールの蓋を開け、その内部の刻印を確かめようとした、まさにその瞬間だった。
[Shout]「うあああああっ!」[/Shout]
階下の廊下から、若い署員の、短く引き裂かれたような悲鳴が響き渡った。
新は弾かれたように部屋を飛び出し、入り組んだ廊下を全力で駆け抜けた。
悲鳴の主である若い巡査は、一階にある薄暗い書斎の前で、恐怖に顔を歪ませて尻餅をついていた。
半開きになった、重苦しいマホガニーの扉の向こう。
部屋の中央、天井の太い梁から、一本の頑丈な麻縄が垂直に伸びている。
その先で、老執事の体が、ゆっくりと、不気味に揺れていた。
首が、あり得ない角度に折れ曲がっている。
床に届かない革靴の爪先が、重力に従って、小さく、左右へと揺れていた。
[A:園村 新:冷静]「……執事の東条。汐里のアリバイを完全に証明できる、唯一の人間が、これか」[/A]
新の鋭い三白眼が、男の足元の床に、ひらりと落ちている一枚の紙を捉えた。
それは、五線譜だった。
真っ白な五線譜に、黒いインクで、狂ったように殴り書きされた音符の列。
新がその並びを目で追い、旋律を脳内で再生した瞬間、背筋に強烈な氷の刃を突き立てられたような寒気に襲われた。
[Tremble]この、あまりに美しく、醜悪な曲は……[/Tremble]
[Think]妹が、あの夜、死ぬ直前に書き上げたピアノソナタ。
世の中に発表されるはずのない、あの呪われた旋律だ。[/Think]
[Glitch]「アリアドネの……断頭台……」[/Glitch]
どこからか、幻聴のように、耳の奥で妹の悲痛な悲鳴が聞こえた気がした。
新は激しい目まいに額を押さえ、崩れ落ちそうになる自分の身体を、かろうじて濡れた壁へと預けた。
第4章:決別の銃口

「そこまでだ、新」
背後から、冷酷極まりない金属音が響く。
ゆっくりと振り返ると、橘が、愛用の拳銃の銃口を新の眉間に向けて立っていた。
その表情は、かつての相棒としての、わずかな情すらも完全に排除した、ただの冷徹な刑事のそれであった。
[A:橘 健吾:冷静]「お前の捜査権限はとっくに剥奪されている。執事の死は、第一容疑者である如月汐里の冷酷な指示、あるいは、精神的に追い詰められた結果の自殺、もしくは最悪の口封じだ。お前は今、完全に冷静さを欠いている」[/A]
[A:園村 新:冷静]「橘、黙ってこれを見ろ。この楽譜を。これは、俺の妹の――」[/A]
[A:橘 健吾:怒り]「うるせえ! とっくに死んだ人間の幻影を、いつまで追いかけてやがる! あの女はお前を利用しているんだ。お前の絶対記憶も、完璧なはずのプロファイリングも、あの狂ったお嬢様が奏でるピアノの音に、いいように狂わされてるんだよ!」[/A]
橘の指が、撃鉄を起こした引き金に、じわりと、容赦なくかけられる。
新は、手元にある血に染まった楽譜を、指が白くなるほど強く握りしめた。
[Think]ここで立ち止まるわけにはいかない。
この謎を解き明かさなければ、俺の時間は、あの血まみれの夜から一生、動き出さない。[/Think]
[A:園村 新:冷静]「すまない、橘。俺は、俺の真実という名の毒を、最後まで飲み干さなければならないんだ」[/A]
新は、瞬時に身体を沈め、足元にあった重い木製の書類入れを全力で蹴り上げた。
書類が派手に舞い散り、橘の視界が完全に遮られた、ほんの一瞬の隙。
新は身体を翻し、背後の窓ガラスを体当たりで突き破った。
鋭い破片が肌を裂き、冷たい雨風が吹き荒れる中、バルコニーを伝って猛然と走り出す。
彼が向かったのは、拘留室代わりに使われている、一階の客室だった。
ガラス窓を外から破壊し、部屋の中に侵入した新は、ベッドの上に静かに座っていた汐里の、驚くほど細い手首を乱暴に掴み上げる。
[A:園村 新:冷静]「行くぞ。君が描き、始めた劇の、真の終幕へ」[/A]
汐里は驚く様子もなく、ただ、どこまでも美しく、そして残酷に微笑んだ。
[A:如月 汐里:喜び]「ええ、喜んで。私の、愛しい探偵さん」[/A]
第5章:美しき悪魔のソナタ

豪雨の音が一段と激しさを増す中、二人は洋館の最上階にある、広大なコンサートホールへと辿り着いた。
ホールの中心に、まるで巨大な黒い棺のように鎮座する、艶やかなスタインウェイのグランドピアノ。
新は汐里の背中を押し、ピアノの前の丸椅子に座らせた。
自身は、数歩後ろに下がって、彼女の華奢な背中を冷徹に見据える。
[A:園村 新:冷静]「すべてのパズルが繋がった。如月弦一郎を殺したのは、やはり君ではない。彼は、自ら命を絶ったのだ」[/A]
汐里の白い指先が、鍵盤の上に、まるで愛撫するようにそっと置かれる。
[A:園村 新:冷静]「弦一郎は数年前から病で聴力を失い、作曲家としての才能は完全に枯渇していた。彼が本当に恐れたのは、自身の物理的な死ではない。『凡人としての、残酷な忘却』だ。だから彼は、自らの死そのものを、人生最大の芸術的傑作にしようとした。盲目の天才娘に殺される、悲劇の巨匠という、完璧な筋書きだ」[/A]
新はさらに一歩、彼女の背中へと近づく。
[A:園村 新:冷静]「だが、その狂った自殺のシナリオを書き、彼に実行するよう耳元で囁き続けたのは誰だ? 絶望した父親の背中を優しく押し、完璧な密室と、完璧な返り血の配置を演出した悪魔。……如月汐里、君だな」[/A]
ホール全体に、重厚で、あまりに暗いマイナーコードが響き渡った。
汐里が、ゆっくりとピアノを弾き始めたのだ。
その耳を劈くような旋律は、新の妹が遺した、あの呪われた曲。
[A:如月 汐里:狂気]「素晴らしいプロファイリングですわ、新さん。ええ、お父様は哀れな操り人形。私の崇高な復讐の、最初の手駒に過ぎません」[/A]
[Blur]その瞬間、汐里の固く閉ざされていた美しい瞼が、ゆっくりと開かれた。[/Blur]
閉ざされていたはずのその双眸は、濁りのない、澄み切った深い漆黒。
彼女は、首をゆっくりと回し、新をまっすぐに見つめ、冷酷な光を放った。
[A:如月 汐里:狂気]「驚かれました? 私の目は、元からすべて見えていますの。光を失った、哀れな盲目の娘という『設定』が、どれほど愚かな人間たちを盲信させるか、これで身に染みてお分かりになりました?」[/A]
[Impact]「見えている……?」[/Impact]
[A:如月 汐里:狂気]「あなたの最愛の妹さんを、あの夜、無残に殺した男。その男に、あのオルゴールと楽譜を渡したのは、他でもない私ですわ。あなたの過去を徹底的に調べ上げ、あなたという極上の探偵をこの館に誘い出すための『糸』として使わせていただきました。アリアドネの糸は、あなたを救うためではなく、この美しい断頭台へ引きずり下ろすためのものだったのです」[/A]
第6章:アリアドネの終止符
突如、ホールの背後から、鼓膜を引き裂くような大爆発音が響き渡った。
入り口の扉が吹き飛び、赤い炎が、飢えた蛇のように壁を這い回り、一瞬にして周囲の豪華なカーテンを舐め尽くしていく。
汐里があらかじめ、館中に仕掛けていたガソリンへの引火。
すさまじい熱風が、二人の髪と衣類を激しく吹き上げる。
[A:園村 新:冷静]「……ここまでが、君が描いた計画のすべてか」[/A]
[A:如月 汐里:愛情]「ええ。父を殺し、欺瞞に満ちた一族を破滅させ、最後は……私のすべてを理解してくれた、唯一無二のあなたと共に、この美しき業火の中で灰になる。これ以上の、美しい終止符(ダブルバー)が、この世にあるでしょうか?」[/A]
彼女が奏でる狂気の旋律が、炎が爆ぜる轟音と同調し、ホール全体を地獄の演奏会へと変えていく。
火の粉が、グランドピアノの美しい脚に燃え移り、黒い煙が二人の視界を遮っていく。
[Sensual]
新は、顔を覆う燃え盛る炎をかいくぐり、鍵盤を叩き続ける彼女の細い身体を、背後から強く、狂おしいほどに抱きしめる。
熱い。皮膚が焦げるような熱。
だが、腕の中にいる彼女の肉体は、驚くほど冷たく、そして激しく震えていた。
新を突き放そうとする彼女の白い腕を、新は自身の強靭な腕で、力強く固定した。
二人の荒い吐息が、黒い煙の中で、熱く、密に混ざり合う。
新の心臓は、見たこともないほどの速さで脈打ち、視界が赤く染まる。
[A:園村 新:冷静][Whisper]「君をここで死なせはしない。俺の絶対記憶に、君という女の凄惨な死を、これ以上刻ませるな」[/Whisper][/A]
[A:如月 汐里:悲しみ][Whisper]「……離して、新さん。私は、この暗い檻の中でしか生きられないの。あなたという存在に看取られて、焼き尽くされることだけが、私の完璧な……っ」[/Whisper][/A]
[/Sensual]
その時、天井の巨大な梁が、轟音を立てて二人のすぐ目の前に崩落した。
[Shout]「新――っ!」[/Shout]
それは、橘の、魂を振り絞るような叫び声だった。
炎の壁を強引に突き破り、全身を煤で汚した橘が、新のトレンチコートの襟首を掴んで、力任せに引きずり出す。
新は必死に手を伸ばしたが、汐里の純白のドレスは、崩落の衝撃と共に、一瞬にして紅蓮の激しい炎に呑み込まれていく。
彼女は、激しく燃え上がるピアノの前に座り、鍵盤を叩いたまま、炎の向こうから、これまでで最も美しく、そして切ない微笑みを新に向けた。
「さようなら、私の探偵さん」
その言葉を最後に、ホールの天井が完全に崩落し、すべてを闇と炎の中に埋め尽くした。
◇
数日後。激しい雨が上がり、湿った風が吹き抜ける横浜の墓地。
新は、トレンチコートのポケットに、深く手を差し入れた。
そこには、あの崩落の直前、汐里が彼のポケットに、滑り込ませるように押し込んできた、小さな黒い革製の手記があった。
静かにページをめくると、そこには、新の妹の命を奪った「真の黒幕」の名前と、それを完全に裏付けるための決定的な証拠が、彼女のどこまでも美しい筆跡で、克明に、遺言のように記されていた。
[A:橘 健吾:冷静]「……新。もう時間だ。行くぞ」[/A]
遠くから、橘が低く、静かな声をかける。
新は手記を閉じ、ポケットに収めると、一本の煙草に火をつけた。
ゆっくりと吐き出された紫煙が、雨上がりの青く澄んだ空へと、静かに溶けて消えていく。
[Think]真実とは、どこまでも美しく、そして救いようのないほどに残酷な毒だ。[/Think]
彼女から手渡された、救いという名の、一生解けることのない呪いをその胸に抱え、新は再び、暗闇の先へと歩き始めた。
その耳の奥底には、今もなお、あの燃え盛る狂気のホールで響き渡っていた、美しくも哀しい、終わりのソナタが鳴り響いている。