第一章: 白灰の降る街
空が、剥がれ落ちていく。
音もなく降り注ぐ白灰。終末の街を、それは静かに埋め尽くしていく。
冷たいアスファルトの上。くすんだ黒髪に白灰を積もらせ、レイは虚ろな三白眼で空を仰いだ。
着古した黒の軍外套が、酷く重い。無骨な革靴の爪先から伝わる、這い上がるような冷気。すでに彼の感覚は麻痺しきっている。
腕の中。透き通るような白髪の少女の、微かな微笑み。
純白の修道服はとうに破れ去っている。彼女の右腕から浸食した美しい玻璃(ガラス)は、無情にも首筋まで達していた。
白亜(シロ)「ごめんね、いつも貴方に無理ばかりさせて」
陽光を乱反射し、七色にきらめく銀色の瞳。
這わせる指先。彼女のひんやりとした頬へと、レイは震えを抑えきれずに触れる。
体温という生命の証。それが秒単位で失われていく恐怖。玻璃化した肌の硬質な感触が、彼の指の腹を残酷なまでに刺激する。
黎(レイ)「喋るな。息を、しろ」
チリン、と。響く澄んだ音。
少女の唇が微かに動いた瞬間。その顔面が精巧なクリスタル細工のようにひび割れ、圧倒的な情景美とともに粉々に砕け散った。
虚空を掻くレイの指先。残されたのは、凍てつくような白灰の匂いだけ。
喉の奥から漏れる、獣のような音。
あぁぁぁぁぁぁぁッ!!
レイは迷わず、腰の鞘から短剣を引き抜く。
刃先を、己の心臓へ。
何度でも、やり直す。たとえ俺が空っぽになっても。
肉を裂き、骨を断つ鈍い感触。口の中を満たす、どろりとした鉄の味。薄れゆく意識。その最中、彼の脳裏から『彼女と初めて手を繋いだ日の記憶』が、ぷつりと音を立てて永遠に消滅する。
閃光
肺に雪崩れ込む空気。激しくむせるレイ。
額を伝う冷たい汗。軋むベッドの、古びたスプリングの音。
隣を見る。そこには、穏やかな寝息を立てるシロの姿があった。透き通る白髪。無事な、温かい首筋。
なぜか、両の目から液体が止めどなく溢れ落ちる。ひきつる眉間。奥歯を、ひび割れるほど強く噛み締めた。
白亜(シロ)「……レイ? どうしたの、泣いてるの……?」
寝ぼけ眼をこすりながら起き上がる彼女。その小さな手を、レイは両手で包み込むように強く、骨が軋むほど痛いほどに握りしめる。
黎(レイ)「いや。なんでもない」
だが、彼の網膜には焼き付いて離れない。彼女が美しく砕け散る瞬間の残像が。
死の運命は、すぐそこまで迫っている。
第二章: 忘却の代償
白灰の源流、『灰の樹』を目指す過酷な旅路。
ひび割れた大地を覆う白灰は、靴底を焼くような異様な熱を孕んでいる。鼻腔を突く、焦げたゴムの臭気。
死ねェェェ! 灰の御使いに栄光あれェェ!!
廃墟の陰から飛び出してきた狂信者。振り下ろされた錆びた鉈が、レイの頸動脈を容易く断ち切る。
ドクン、ドクン、ドクン
真紅に染まる視界。迫りくる地面。
死。そして、巻き戻る時間。
閃光
出現
黎(レイ)「……三人、右の瓦礫裏。一人は上だ」
時間が巻き戻った直後。レイは瞬き一つせず、短剣を投擲した。
肉を貫く鈍音。一切の躊躇なく、彼は次の標的の喉元へ刃を突き立てる。返り血が三白眼の端を濡らそうとも、その手は微塵も震えていない。
白亜(シロ)「レイ……もうやめて! 痛いよ、そんなの……!」
修道服の裾を握りしめ、悲鳴のような声を上げるシロ。
黎(レイ)「痛覚なら、切ってある。問題ない」
俺は、なぜ彼女を助けている?
ふとよぎる、致命的な空白。
先ほどの死で、彼は『彼女の笑顔の理由』を喪失した。昨日死んだ時は『初めて出会った日のこと』を失った。心の中のアルバム。それが一枚、また一枚と黒く塗りつぶされていく恐怖。
白亜(シロ)「貴方の目が……どんどん、冷たくなっていく。私が、貴方の心を殺しているの?」
微かに揺れる、銀色の瞳。シロの右腕の玻璃が、チリチリと不吉な音を立てて明滅する。
黎(レイ)「俺は俺のままだ。君を守るのが、俺の使命だ」
ただ機械的にその言葉を繰り返すレイ。
だが、シロの唇の端は、引きつるように悲痛な弧を描いていた。彼女の決意。それを彼は、まだ知る由もない。
第三章: 決定的なすれ違い
夜。崩れかけた教会の跡地。
壁のステンドグラスを奇妙な形に照らし出す、焚き火の炎。パチパチとはぜる火の粉の音が、静寂をより際立たせる。
白亜(シロ)「ねえ、レイ。私の好きな花は、何?」
唐突な問い。炎を見つめたまま、シロは静かに口を開いた。
レイは軍外套の襟を正し、炎越しに彼女を見つめる。火光が反射する、虚ろな瞳。
黎(レイ)「……」
上下する喉仏。答えを探す。だが、何もない。頭の中の引き出しは、乱暴にこじ開けられ、中身を燃やし尽くされた後だった。
黎(レイ)「……君を守るのが、俺の使命だ」
白亜(シロ)「違うッ!」
衝撃
夜の空気を切り裂く、彼女の叫び。
立ち上がり、膝から崩れ落ちるようにレイの胸ぐらを掴むシロ。
白亜(シロ)「貴方はもう、私の好きな花も、一緒に歌った歌も、全部忘れてる! これ以上、私を愛していた貴方を殺さないで……!」
指先から伝わる、痛切な震え。銀色の瞳から溢れた涙が、レイの頬に落ちる。生温かいその滴。なぜか、火傷しそうなほど熱く感じられた。
だが、レイの表情筋はピクリとも動かない。
黎(レイ)「俺は、君を……」
言葉を紡ごうとした瞬間。急激な目眩がレイを襲う。
ぼやけ
水筒。先ほど飲んだ水から、微かに甘く泥のような味がしたことを思い出す。睡眠薬。
白亜(シロ)「私が死ねば、貴方はこの地獄から解放されるの。今まで、本当にありがとう」
涙を流しながら、自らの血が滲むほど唇を強く噛み締める彼女。
薄れゆく意識の中、闇の中へと溶けていく純白の後ろ姿。
震え
冷たい石畳を掻き毟る指先。だが、体は鉛のように動かない。絶望の淵。世界は深い闇に沈んでいった。
第四章: 魂の残骸
重い鉛色の雲が立ち込める、灰の樹のふもと。
巨大な異形——玻璃と肉が融合した『灰の番犬』の咆哮が、大気を激しく震わせる。
《重爆・断頭剣》
灰色の髪を振り乱す大男。右目を眼帯で覆ったクロウが、旧時代の大剣を振り下ろす。軋む装甲服。散る火花。
クロウ「行けェッ! あの馬鹿娘を止められるのは、お前だけだろォが!!」
血反吐を吐きながら、異形の牙をその身で受け止めるクロウ。鈍い骨の砕ける音。鉄錆と内臓の生臭い悪臭が、風に乗ってレイの鼻を打つ。
黎(レイ)「クロウ……!」
クロウ「妹と同じ顔してんだよ、あいつは……。だから、俺の代わりに……ッ!」
大剣ごと異形に噛み砕かれながら。クロウの残された左目が、レイを鋭く射抜く。
クロウ「お前の本当の心を、取り戻せぇぇぇ!!」
ドゴォォォォン!!!
番犬の巨体とクロウ。激しい閃光とともに自爆した。
爆風がレイの体を吹き飛ばす。地面を無様に転がる体。
軋む全身の骨。焼けるように痛む肺。
俺の、本当の心?
震え
満身創痍の体。右足は折れ、左腕は力なく垂れ下がっている。
それでも這いつくばりながら、灰の樹の頂へと向かってレイは立ち上がった。
なぜ彼女を助けたいのか。その理由を、もはや彼は一つも覚えてはいない。
ただ、空っぽになった胸の奥底。本能だけが「彼女を失うな」と血を吐くように叫び続けている。
止めどなくあふれる涙。滲む視界。血の跡を残しながら、無限に続く螺旋の階段を駆け上がり始める。
最上階に待つ、残酷な運命に向けて。
第五章: 白灰に咲く、君を忘れるための祈り
灰の樹の頂。
祭壇の中央。シロの体はすでに半分以上が美しい玻璃へと変異していた。
自らを核として世界を浄化する。その過剰な罪悪感。それが彼女をここまで追い詰めたのだ。
白亜(シロ)「レイ……どうして。来ちゃ、だめ……」
かすれた声。左の頬まで玻璃が侵食し、彼女の顔はひび割れた彫刻のように痛々しく、そして神々しい。
足を引きずりながら近づき、崩れゆくその体をレイは強く抱きしめる。
黎(レイ)「遅くなった」
もうほとんど氷のように冷たく、硬い体。それでも、残された僅かな柔らかい肌の感触に、レイは自分の顔を埋める。
白灰の冷たい匂い。そこに混ざる、微かな花の香り。
チリッ、チリチリッ。
加速する崩壊の音。完全に砕け散るまで、あと数秒。
レイは、腰の短剣を抜いた。
白亜(シロ)「やめて!! もう、貴方の中に差し出せる記憶なんて……!」
黎(レイ)「あるさ。最後に一つだけ、特大のが」
『シロという存在の全記憶』。
彼女に出会い、彼女を愛し、彼女のために狂ったすべての時間。
君を忘れる。君を失う。それが俺の、最後の祈りだ。
黎(レイ)「何度でも、やり直す」
バグ
記憶が。世界が。崩壊していく。
刃が、心臓を貫く。
閃光
◇◇◇
青空が、広がっている。
白灰は止み、温かな陽光が石畳を照らし出す。
数年後の街角。復興が進む喧騒の中を歩く、一人の青年。くすんだ黒髪。着古した軍外套。
向かいから歩いてくる、透き通るような白髪の少女。純白のワンピース。右腕には、かすかな火傷の痕。
すれ違う。
お互いに、全く見知らぬ他人のまま。
だが、すれ違った瞬間。青年の足がピタリと止まった。
胸のポケットから取り出す、見覚えのない美しい玻璃の破片。太陽の光を浴びて、七色にきらめくそれを見つめる。
なぜか、右の目から一滴の涙がこぼれ落ちた。
俺は、なぜ泣いているんだろう。
頬を伝う温かい滴の感覚。それだけが、彼の中に確かに残っている。
青い空を見上げる彼の横顔。そこへ、優しい風が吹き抜けていった。