第一章: 灰に咲く狂気
灰色の雪が、音もなく空から剥がれ落ちる。
肺を焼く硫黄と腐敗の臭気。ひび割れた大地を這い回る絶望の気配。
淀んだ空の下、小さなガラス温室だけが、かろうじて世界の輪郭を保っていた。
ノア・エヴァレットは、土に塗れた前掛け付きの作業着の膝を突き、無言で指先を泥に沈める。
ボサボサの黒髪。酷いクマが張り付いた三白眼が、鉢植えの『一輪の青い蕾』だけを射抜いていた。
右手には、柄の擦り切れたスコップ。黄金色に鈍く光る刃先が、狂気じみた執着を静かに物語る。
湿度が足りない。腐葉土の質も落ちている。
ノア・エヴァレット「咲くさ。絶対にな」
ひび割れた唇。口内に滲む鉄の味。
突如、鼓膜を破る破壊音。
温室の扉がひしゃげ、血まみれの少女が転がり込んできた。
陽光を弾くはずの銀色の長髪は泥にまみれ、透き通る碧眼は虚空を彷徨う。
所々が破れた純白の聖職者服から、生々しい赤い染みが広がっていく。
アリア「あ……ああ……」
這いつくばる彼女の背後。黒い瘴気を纏う異形の魔物が鎌首をもたげた。
鋭い爪が、温室のガラスをかすめる。
キィン、と鳴る甲高い音。
ノアの眉間が跳ねた。
ノア・エヴァレット「俺の畑を荒らすな!」
踏み込みと同時に走る、黄金の閃光。
農作業で鍛え抜かれた丸太のような腕が、スコップの刃を魔物の脳天へと叩き込む。
グシャリ。
硬質な頭蓋が砕け散る。ドス黒い体液の飛沫。
限界まで開くノアの瞳孔。
ノア・エヴァレット「ふざけるな! 汚い血で俺の土を汚す気か!」
彼は少女の華奢な襟首を乱暴に掴み上げる。
熱い吐息がかかるほどの至近距離。強烈な土と汗の匂いが、少女の鼻腔を容赦なく蹂躙した。
そのまま、羽虫でも払うかのように、彼女の身体を温室の外へと放り投げる。
冷たい地面に叩きつけられ、激しく咳き込むアリア。
しかし、彼女の碧眼は、魔物を瞬殺し、温室の入り口に仁王立ちする男の背中を捉えて離さない。
違う。この方は……私を戦いから遠ざけたのだ。
アリア「ノア様は、ご自分の命すら……!」
震える両手を胸の前で組み、熱に浮かされたように祈りを捧げるアリア。
致命的な誤解の種。それは、灰色の世界に深く根を下ろした。
結界の外。数万の魔物の群れが地鳴りを立てて押し寄せてくる。
◇◇◇
第二章: 究極の農法
刃こぼれ一つない黄金のスコップが、空を切る。
ノアは額の汗を手の甲で拭い、苛立たしげに舌打ちをした。
視線の先には、逆立った赤髪と鋭い牙を持つ巨漢。
ガラン「うおおおお! これが……これが神代の農法!」
傷だらけの筋肉質な肉体を誇示するように、ガランは上半身裸で鍬を振り下ろす。
元は漆黒の鎧を纏う魔界騎士であったが、今や簡素な麻のズボン一丁。
ノア・エヴァレット「深く掘りすぎだ。根を切る気か。雑草は根こそぎ抜け」
ガラン「さすがは師匠! 恐るべき深謀遠慮! 全ては大地と対話するための儀式であるな!」
ノアの深い溜息。
道場破りに来た筋肉達磨を「カカシ代わりのタダ働き」としてこき使っているだけだ。
肥料の配合から土壌の掘り返しまで、重労働の全てを押し付けて。
ズン。大地が不自然に揺れる。
土埃の向こうから、巨大な甲虫の姿をした魔王軍の先鋒部隊が姿を現した。
その数は数百。地を這う顎が、ノアの畑の柵に触れようとしている。
ノア・エヴァレット「おい。害虫駆除の時間だ」
ガラン「承知! 雑草は根こそぎ抜く!」
ガランの筋肉が異様に膨張する。血管が爆発しそうなほど隆起した。
手にしたただの鉄の鍬。それが、闘気によって真っ赤に熱を帯びる。
ガラン「大地割りッ!」
轟音。
鍬が地面に激突した瞬間、地殻が割裂。灼熱のマグマが魔物の群れを呑み込む。
甲虫たちの甲殻がひしゃげ、一瞬にして灰へと変わっていく光景。
焦げた肉の嫌な臭い。生ぬるい風に乗って漂ってきた。
温室の中から、アリアがその光景をうっとりと見つめている。
アリア「また一つ、聖域が広がりました……ノア様のご意志のままに」
ノートに羽ペンを走らせる彼女。その頬は、狂信的な紅潮に染まりきっている。
だが、ノアの視線は焼け焦げた大地に向かっていた。
あれでは土の中の微生物まで死滅するだろうが。
怒りから、黄金のスコップの柄がミシリと軋む。
その時だった。
空が、唐突にどす黒いインクをぶちまけたように染まり始めたのは。
◇◇◇
第三章: 枯死の呪い
空気が凍りつくような冷たさ。
息を吐くたび、白い霧が虚空に溶けていく。
魔王ゼルガが放った『枯死の呪い』が、世界全土を舐め尽くす。
ノアの喉仏が、ひきつるように上下した。
温室の中央。彼が命を削って育ててきた『青い蕾』。その先端が、どす黒く変色し始めている。
ノア・エヴァレット「やめろ……」
両膝から崩れ落ちる。冷たい土の上に這いつくばる男。
震える指先を伸ばす。だが、花弁に触れることすら叶わない。
ノア・エヴァレット「頼む、咲いてくれ! 何が足りない? 水か? 俺の血か!」
腰のナイフを引き抜く。躊躇いなく自身の掌を切り裂いた。
滴る鮮血。枯れゆく土に、ポタポタと染み込んでいく命の雫。
それでも、黒い浸食は止まらない。
ノアの三白眼から、大粒の雫がぼろぼろとこぼれ落ちる。
温室の入り口で、息を呑むアリアとガラン。
アリア「ノア様が、これほどまでに……」
ガラン「世界が滅びゆくことを、我が身を切られるように嘆いておられるのだ……」
交差する二人の視線。そこに宿るのは、自己犠牲の覚悟。
アリア「彼にこれ以上、命を削らせてはなりません」
ガラン「ああ。我らが命を散らし、魔王の首を獲る!」
ノアが花壇の前で意識を失っている隙。二人は静かに姿を消した。
数時間後。
目を覚ましたノアが見下ろすのは、包帯を巻かれた己の掌と、もぬけの殻になった小屋。
机の上の手紙。『ノア様の愛した世界は私たちが守ります』。
ノア・エヴァレット「ふざけるな!」
蹴り飛ばした椅子。壁に激突し、粉々に砕け散る。
黄金のスコップを握りしめる手。青筋が、びっしりと浮かび上がった。
ノア・エヴァレット「俺の肥料(魔王の灰)を、誰が勝手に取りに行けと言った!」
血走った眼。単身、漆黒の魔王城へと歩みを進めるノア。
絶対的な死地へと向かう彼の背中から、異常な殺気が立ち上っていた。
◇◇◇
第四章: 蹂躙される玉座
魔王城、最深部。
冷たい大理石の床。アリアとガランは血塗れで倒れ伏していた。
口の中に広がる血の鉄の味。己の死期を悟る瞬間。
玉座に腰掛けるのは、青白い肌に漆黒の角を持つ男。
色褪せた王衣を纏う魔王ゼルガ。憂いを帯びた瞳で見下ろしている。
魔王ゼルガ「それもまた、運命(さだめ)か……。抗う術など、最初から無かったのだ」
アリア「彼が愛したこの美しい世界だけは……!」
最後の治癒魔法を絞り出そうとした、その瞬間。
ドゴォォォォン!!
紙切れのように爆け飛ぶ、分厚い城壁。
もうもうと舞い上がる粉塵の中、姿を現す土塗れの作業着を着た男。
手には、黄金色に輝くスコップ。
ノア・エヴァレット「俺の土(魔王)に勝手に触るな!」
アリア「ノア、様……?」
地を蹴るノア。玉座へと一直線に跳躍する。
その瞳に宿るものは、一片の慈悲もない園芸への執着。
ゼルガの哲学的な瞳が、初めて大きく見開かれた。
魔王ゼルガ「なんだ、この異常な殺気は。これが……世界を愛する者の怒り、究極の慈愛か……!」
ノア・エヴァレット「腐葉土になれぇぇっ!」
《高速穴掘り》
空間そのものを削り取る、残像を残すスコップの刃。
魔王が放った『絶望の呪い』の障壁。それはまるで柔らかい泥のように次々と掘り返され、無効化されていく。
魔王ゼルガ「馬鹿な! 余の結界が、ただの物理攻撃で……!」
ガラン「見よ! あれぞ真理を開く神の剣技!」
予定調和の最終決戦。それが、ノアの怒涛の「耕作アクション」によって、理不尽極まりない蹂躙劇へと変貌していく。
黄金の刃が、ついに魔王の胸骨を捉えた。
◇◇◇
第五章: 奇跡の果てに
ザクゥッ!
玉座の間に響き渡る、鈍い肉の裂ける音。
黄金のスコップが、魔王の胸の奥深くまで突き刺さっていた。
ノア・エヴァレット「極上の肥料だ。一滴残らず寄越せ」
容赦なく刃をこじ入れるノア。魔王の中心にある『核』をえぐり出す。
空中に放り出される、脈打つ漆黒の結晶。
魔王ゼルガ「……見事だ、真の救世主よ。お前の深き愛が、この淀んだ世界を……」
静かな微笑みを浮かべたまま、光の粒子となって崩れ去る魔王の肉体。
その瞬間、世界を覆っていた枯死の呪いが霧散した。
えぐり出された魔王の核。そこから溢れ出す莫大なエネルギーの奔流が、ノアの腰袋に入っていた『青い種』と強烈に共鳴する。
閃光。
魔王城を突き破り、天へと立ち昇る、視界を白く染め上げるほどの光。
枯れかけていた蕾が瞬く間に膨らむ。透き通るような青い花弁が広がった。
生まれ出る無数の光の綿毛。風に乗って世界中へと降り注ぐ。
灰色の雪は消え去り、大地に芽吹く緑。
頬を打つ光の雨。冷たかった空気が、春の陽だまりのような暖かさを取り戻す。
アリア「ああ……世界が、浄化されていく……!」
ガラン「師匠! ついに成し遂げられたのですね!」
玉座の跡地。
満身創痍のアリア。ガラン。そして光の雨を見上げる世界中の人々。誰もが、奇跡を起こした孤独な救世主にひれ伏す。
しかし。
歓声も、称賛も、ノアの耳には届いていない。
土に汚れた膝を折る彼。掌の中で咲き誇る、ただ一輪の青い花だけを見つめていた。
酷いクマのある三白眼から、静かに零れ落ちる一滴の涙。
ひび割れた唇が綻ぶ。誰よりも優しい顔で囁くノア。
ノア・エヴァレット「綺麗だね。君の言った通りだ」
吹き抜ける風。ボサボサの黒髪が揺れる。
勘違いから始まった壮絶な喜劇。それは、世界を救うという最大の副産物を生み出した。
今、一人の狂信的な庭師の純愛の成就として。深く清冽な余韻の中に幕を下ろす。