第一章: アンバーの空と亡霊
泥の冷たさが、這いつくばった右の頬を容赦なく刺す。
肺の奥まで吸い込んだのは、排気ガスと錆びた鉄の臭気ではない。青く濡れた、土の匂い。
重い瞼をこじ開ける。視界の全面を覆い尽くす、アンバー(琥珀色)の空。
ゆっくりと上体を起こす。少し長めに伸びた黒髪から、ボタボタと滴り落ちる泥水。
身を包むのは、通勤ラッシュの揉み合いでボタンの弾け飛んだ安物のスーツ。泥と血にまみれ、もはや元のネイビーの色彩すら判別できない。
光を完全に失った三白眼。それが捉えるのは、見渡す限りに広がる白金の麦畑。
地下鉄のホームから、飛び降りたはずだ。
軋む関節をなだめ、立ち上がる。
吹き抜ける風が、ざわわと黄金の波を揺らした。肌を撫でる通り雨の湿り気。それが、ひどく心地よい。
途切れた記憶の糸を手繰り寄せるよりも先。背後で微かな足音が鳴る。
振り返った先。
陽光を弾く、透き通るような白銀の長髪。生成りの白いワンピースの裾が、風にふわりと舞う。
少女は、固く瞳を閉じていた。
その隣には、オオカミと鹿を掛け合わせたような巨大な獣。体高はゆうに百八十センチを超え、銀色の美しい毛並みと苔生した立派な角を持っている。
リゼ「……目が、覚めましたか」
鈴を転がすような、穏やかな声。
巨大な獣が、喉の奥で低く「グルル」と鳴く。威嚇ではない。その音の響きに滲む、ひどく懐かしい温もり。
ハル「ここは……どこだ。俺は、死んだのか」
リゼ「ここは黄昏の村。大丈夫ですよ。風がとても優しいですから」
少女の白い手が、躊躇いなく泥まみれのスーツに伸びる。
細い指先が袖口を掴んだ瞬間。ハルの眉間が、一瞬だけ跳ねた。
彼女の指先から伝わる、生き物としての確かな微熱。
それから数日。ハルは「黄昏の村」と呼ばれる小さな集落で、麻の素朴な服に身を包む。スローライフめいた日々の始まり。
獣——アルトと名付けられたその巨体は、常にハルの足元で丸くなる。喉仏を撫でると、嬉しそうに目を細めた。
壊れかけていたハルの心に、少しずつ戻っていく『生きる手触り』。
だが、完全な平穏など存在しない。
夜の帳が下りる頃。
村を囲む見えない境界線の外から、必ず聞こえてくる。
ひいっ……ううっ……
ガラスを引っ掻くような、誰かの美しいすすり泣き。
薄暗い山小屋のベッド。毛布を固く握りしめ、ハルはその音から逃れるように目を閉じる。
◇◇◇
第二章: 硝子の指先
石窯の扉を開ける。香ばしい小麦の匂いが鼻腔をくすぐった。
火ばさみを使い、不格好に膨らんだパンを取り出す。
表面は所々焦げ、お世辞にも美しいとは言えない。
リゼ「いい匂いですね、ハル。今日はとても上手に焼けていますよ」
テーブルの向かい。リゼが花が咲くように笑う。
常に閉じられたままの瞳。それでも彼女は、ハルの動きを正確に把握している。
ハル「……焦げてるぞ。味の保証はしない」
ぶっきらぼうに皿を置く。自身の唇の端が緩むのを、ハルは自覚した。
夜になれば、二人でポーチに座り、星屑のように瞬く蛍の光を眺める。
アルトの銀色の毛並みに背中を預ける。ハルはリゼの淹れた温かいスープを、喉の奥へ流し込んだ。
塩気とハーブの香り。冷えた胃袋から全身の血脈へと染み渡っていく。
「ハル」
リゼが身を乗り出し、ハルの手から空になった木組みのカップを受け取ろうとする。
その拍子に、二人の指先が触れ合った。
カチン。
硬質で、冷え切った無機物の感触。
ハルは息を呑み、リゼの手首を無意識に掴む。
彼女の右手。人差し指から小指にかけての先端が、透過させている。背後の揺らめくランプの炎を。
滑らかで透明な、ガラスの質感。
ハル「リゼ……お前の手、これ」
リゼ「なんでもありません。少し、冷えただけですから」
リゼはパッと手を引っ込める。膝の上で、それを固く握りしめた。
血が滲むほどに強く。
その翌日。ハルは村の境界線付近で、森の番人を名乗る男と対峙していた。
色褪せた厚手の外套。顎を覆う無精髭。ノアと呼ばれるその男は、左腕全体を汚れた包帯でぐるぐる巻きにしている。
ノア「馬鹿な奴だ。これ以上、あの娘のことに踏み込むな」
ハル「病気なら、薬草があるはずだ! なければ俺が、自分の肉を削いででも治す!」
ノア「帰れ。あそこは、お前みたいな人間が立ち入っていい場所じゃない」
ノアの突き放すような視線を背に受ける。ハルはアルトの首筋を撫でた。
トラウマが、心臓の裏側を泥靴で蹴り上げる。
俺なんかに、誰かを救う価値はない。だけど。
過去の過ちを、もう二度と繰り返すわけにはいかない。
ハルはノアの制止を振り切り、禁じられた境界線の森深くへと足を踏み入れる。
◇◇◇
第三章: 境界の真実
むせ返るような腐葉土と湿った苔の匂い。森の奥は、それに支配されていた。
陽の光は遮られ、鬱蒼と茂る木々の隙間から這い出してくる青白い霧。
ドクン、ドクン、ドクン。
鼓動が異様に早い。
アルトが低い唸り声を上げ、立ち止まる。
霧が晴れた先に広がっていた光景。ハルは膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
無数。
数十、いや、数百の人間が、森の開けた場所に立ち尽くしている。
赤ん坊を抱く母親。スーツ姿のサラリーマン。うずくまる老婆。
全員が、微動だにしない。
彼らの肉体は、足先から頭のてっぺんまで、完全に透明な『ガラスの彫像』と化していた。
指先が、小刻みに震える。
彫像の表面には、内側から引っ掻いたような無数の傷跡。夜ごと聞こえていたすすり泣きの正体。
ノア「言ったはずだ。ここは帰る場所を捨てた人間の墓場だと」
背後から、枯れ枝を踏む音。ノアが包帯の巻かれた左腕を押さえながら歩み寄ってくる。
ハル「なんだよ……これ。あの泣き声は、こいつらだったのか」
ノア「異世界転生だとでも思っていたのか? ここは『狭間の箱庭』。現世で絶望し、生死の境を彷徨う者たちが見る、ただの幻だ」
ノアの言葉が、冷たいナイフのように鼓膜を裂く。
ノア「お前も、俺も、今頃は現世の病室でチューブに繋がれ、意識不明で眠っている。そして、完全に生きる気力を手放した奴から順に……こうしてガラスの抜け殻になる」
ハルの呼吸が浅くなる。冷や汗が背筋を伝い落ちた。
ハル「じゃあ、リゼは! あのガラス化は、俺と同じように現世から……!」
ノア「違う。あの娘は人間じゃない」
ノアは自嘲気味に笑う。ポケットからタバコを取り出すふりをして、何もない空間を指で挟んだ。
ノア「リゼの正体は、かつてお前が救えなかった少女の魂の残滓だ。お前の強烈な罪悪感が、この箱庭に彼女を繋ぎ止めた」
空気が、凍りつく。
ノア「あの娘の体が透けているのは、病気のせいじゃない。お前に『スローライフ』という名の平穏を与えるため、己の魂そのものを削って世界を維持している証拠だ。このままじゃ、彼女は完全な消滅を迎える」
喉の奥で、声にならない嗚咽が詰まる。
視界が激しく明滅する。ハルは湿った腐葉土の上に、嘔吐するように両手を突いた。
◇◇◇
第四章: 剥き出しの秤
村へ戻る足取り。それは鉛を括り付けられたように重い。
小屋の扉を開ける。暖炉の火がパチパチとはぜる音。
リゼは、窓際で椅子に座り、ただ風の音を聴いていた。
ハル「……リゼ」
名前を呼んだ声は、ひどく掠れていた。
リゼがゆっくりと顔を向ける。
彼女の右腕。すでに肘のあたりまで完全にガラス化し、向こう側の景色を歪ませながら透かしている。
リゼ「おかえりなさい、ハル。お話は、ノアさんから聞きましたね」
隠し立てする様子もない。彼女はいつものように穏やかに微笑む。
ハルは歩み寄り、彼女の足元に膝をつく。
震える両手で、ガラス化した彼女の右腕を包み込んだ。
体温はない。無機質で、滑らかで、あまりにも冷たい。
「なぜ」
唇から漏れた声は、情けないほど震えていた。
「俺なんかのために、どうして」
リゼは残された左手を伸ばし、ハルの泥だらけの頬を優しく撫でる。
親指の腹で、目尻に滲んだ水滴を拭い去る。
彼女から漂う甘い花の香りが、ハルの鼻腔を優しく満たした。
リゼ「生きる気力を取り戻したあなたなら、もう大丈夫。現世へ帰って、どうか幸せに生きてください」
ハル「ふざけるな! 俺が帰れば、お前はどうなる!」
役割を終えた魂の残滓。箱庭の崩壊と共に砕け散り、二度と輪廻の輪にすら戻れない。
完全なる『無』への還元。
リゼ「私は、あなたが笑ってくれるだけでいいんです。あなたが生きるなら、私の命なんて……」
ハル「ふざけるなと言ってるんだ!!」
ドンッ! ドンッ! ドンッ!!
ハルは自らの拳の骨が砕けるほど、何度も床板を叩き割った。
剥がれた皮膚。飛び散る血飛沫。滲んだ鉄の匂いが鼻腔を焼く。
ハル「また俺に、見捨てろって言うのか……俺だけがのうのうと生き延びて、お前を一人で消滅させろって言うのかよ!」
アルトが悲しげに「クゥ」と鳴く。
ハルの背中に、巨大な鼻面を押し付けた。
『リゼを見殺しにして自分だけが生き延びる現実』。
『共にこの箱庭に残り、永遠の消滅を迎えるか』。
天秤に乗せられた残酷な選択肢。それが、ハルの首に冷たい刃を突きつける。
◇◇◇
第五章: 白金の箱庭が砕ける音
アンバーの空。それが、ひび割れたように不気味な赤紫へ変色していく。
世界の境界が、悲鳴を上げて軋む音。
ハル「俺は、帰らない。お前と一緒にここで終わる」
ハルは立ち上がる。リゼの両肩を強く掴んだ。
もはや彼女の体は、首筋までガラスの侵食が進んでいる。
リゼ「だめです……そんなこと、絶対に許しません」
ハル「俺の勝手だ。もう二度と、誰の手も離したくない」
その言葉を聞いた瞬間。常に閉じられていたリゼの瞼が、ピクリと動く。
パァァァァンッ!!
耳をつんざくような甲高い破砕音。
リゼが残された左手の指先で、空間の『膜』を叩き割った。
世界が、崩壊を始める。
白金の麦畑が根元から砕け散る。無数の光の羽となって天へ向かって逆流していく。
山小屋の屋根が吹き飛ぶ。アンバーの空が幾重もの亀裂を走らせて崩れ落ちる。
アルトが天に向かって雄叫びを上げる。その巨体を光の粒子へと変え、ハルを包み込んだ。
ハル「リゼ! 何をしてる、やめろぉぉぉ!!」
吹き荒れる光の暴風。ハルは必死に手を伸ばす。
だが、強烈な引力がハルの体を上空へと引っ張り上げる。
圧倒的な光の奔流の中心。
リゼの顔が、ゆっくりとハルに向けられる。
その時、初めて。
彼女の盲目の瞳が、静かに見開かれた。
現れたのは、澄み切った秋の空のような、深い青玉髄(サファイア)の瞳。
ハルの黒い三白眼と、彼女の青い瞳。二つの視線が、空中で真っ直ぐに交差する。
リゼ「あなたは、生きるの」
唇だけが動く。声にならない最後の言葉。
パキン。
リゼの体が、数万のガラスの欠片となって弾け飛んだ。
「リゼェェェェェェェェッ!!」
剥き出しの絶叫。それは真っ白な光の海に、完全に飲み込まれた。
◇◇◇
ピー、ピー、ピー。
無機質な電子音。等間隔に鼓膜を叩く。
鼻腔を突くのは、強烈な消毒液の匂い。
瞼の裏に感じる、蛍光灯の眩しさ。
重い瞼をこじ開ける。ひび割れた白い天井が、視界の全面を覆い尽くしている。
酸素マスク。点滴のチューブ。シーツのザラついた感触。
ここは、現世の病室。
体を動かそうとする。だが鉛のように重く、指先一つ動かない。
だが、確かに感じた。
右の手のひらに残る、滑らかなガラスの冷たさ。そして、微かな甘い花の香りを。
ゆっくりと首だけを動かす。窓の外を見る。
夕立が通り過ぎた直後なのだろう。
灰色のビル群が立ち並ぶ東京の空。そこに、信じられないほど色鮮やかな虹が架かっている。
ハル「……あぁ」
ぽろり。
一筋の涙が、目尻からこめかみを伝う。枕のシーツへ染み込んでいく。
声を上げて泣く力すら残っていない。
けれど、心臓は確かに胸の内でドクン、ドクンと力強いリズムを刻んでいる。
傷だらけの現実。
理不尽で、息苦しくて、泥水のような世界。
それでも。
彼女がその命と引き換えにくれた『ささやかな救済』。それを胸に抱き、この地獄を這いつくばってでも歩き続ける。
それが、遺された者にできる唯一の贖罪。
ハルは、光を取り戻した瞳で、美しい虹のアーチを静かに見つめ続けた。