第一章 喧騒の掃除屋
耳栓を押し込む。
それだけでは足りず、さらにノイズキャンセリングのヘッドホンで耳を塞いだ。
それでも、俺には聞こえてしまう。
「ふざけんなよ! お前が悪いんだろ!」
「もう嫌……別れたい」
目の前の、何の変哲もない革張りのソファ。
そこから滲み出る、かつての持ち主たちの怒声と泣き声。
残留思念、なんてオカルトな言葉は使いたくない。俺にとってこれは、単なる『騒音』だ。
「……うるせえんだよ、三年前の痴話喧嘩」
俺は特殊洗剤を含ませた雑巾で、ソファの肘掛けを乱暴に擦った。
ゴシゴシと物理的な摩擦音を立てるたび、耳障りな怒声が、ノイズ混じりの砂嵐のように消えていく。
俺、瀬名湊(せなみなと)の仕事は『遺品整理』の類だが、少し違う。
物に染み付いた『感情の音』を聞き取り、それを拭い去る。
いわば、過去の掃除屋だ。
ソファが完全に沈黙を取り戻した時、俺は大きく息を吐いた。
汗が目に入る。
静かだ。
けれど、この静寂が俺は一番怖い。
音が消えた空間には、俺自身の記憶が入り込んでくるからだ。
『湊、あのね……』
死んだ妻の声が聞こえる前に、俺はスマホを取り出し、意味もなく大音量でラジオを流し始めた。
その時、着信画面が光った。
依頼だ。
画面には『急募:音がしない家の解明と清掃』とあった。
音が、しない?
通常、人が住んでいた場所には、生活のノイズがこびりついているものだ。
興味本位と、今の静寂から逃れたい一心で、俺はその依頼ボタンをタップした。
第二章 無音の洋館
指定された場所は、海沿いの古い洋館だった。
「靴のままどうぞ。どうせ、全部捨てるつもりですから」
依頼主の女性、冬月(ふゆつき)カレンは、冷ややかな目でそう言った。
喪服ではないが、黒いワンピースがその白い肌を浮き立たせている。
先週亡くなった、著名な時計職人の祖父の家だという。
「お祖父様とは、仲が良かったんですか?」
「まさか」
カレンは短く鼻で笑った。
「あの人は、時計のことしか頭にない冷血漢でした。私がピアノの発表会で優勝した時も、一瞥もしなかった。母が死んだ時でさえ、工房にこもって歯車を削っていたような人です」
彼女の言葉には、棘がある。
通常なら、その棘が『憎悪のノイズ』となって壁や床にへばりついているはずだ。
しかし。
俺はヘッドホンを少しずらしてみた。
……聞こえない。
何も。
玄関の古びたラグからも、手すりからも、廊下に飾られた絵画からも。
「どうされました?」
「いえ……妙に、静かですね」
「ええ。気味が悪いほどに。あの人の感情の無さが、家全体に染み付いているみたいで」
カレンは自身の腕を抱いた。
俺は廊下を進む。
静寂が、泥のように重い。
これは単に「音が無い」のではない。
あまりにも強固な意志によって、音が「塗りつぶされている」感覚。
突き当たりに、重厚な扉があった。
「そこが工房です。一番、嫌いな場所」
カレンが扉を開ける。
瞬間、俺は思わず耳を押さえた。
音はしない。
しないが、鼓膜が破れそうなほどの『圧』が、そこにはあった。
第三章 時の墓場
部屋中を埋め尽くす、数千の時計部品。
掛け時計、置き時計、懐中時計。
だが、どれ一つとして動いていない。
カチ、コチ、という時を刻む音が全くないのだ。
「……全部、止まってる」
「ええ。死ぬ直前に、全ての時計を止めたらしいわ。最期まで、時間を支配したかったんでしょうね」
カレンが侮蔑を込めて言う。
俺は作業手袋をはめ、机の上のピンセットに触れた。
冷たい。
感情の残滓がない。
こんなことがあり得るのか?
人間が数十年過ごした場所に、喜びも、悲しみも、怒りさえもないなんて。
まるで、真空パックされたようだ。
「これらを全て処分してください。特に、奥にあるあの大きな古時計。あれを見るだけで、吐き気がする」
彼女が指差したのは、部屋の隅に鎮座する巨大なグランドファーザー・クロックだった。
黒檀で作られたそれは、王のような威圧感を放っている。
俺はその時計に近づいた。
手を触れる。
その瞬間、指先から電流のような痺れが走った。
「ッ……!」
「どうしたの?」
「いや……これ、ただ止まってるんじゃない」
俺は時計の扉を開けた。
振り子は止まっている。
だが、その奥。
幾重にも重なった歯車の隙間に、何かが詰め込まれているのが見えた。
「これは……フェルト?」
羊毛のフェルトが、全てのハンマーと鐘の間に、丁寧に、執拗なまでに挟み込まれていた。
音が出ないように。
いや、音が『漏れない』ように。
「カレンさん、この時計、動かしてもいいですか」
「は? 壊してって言ったのに」
「掃除の前に、状態を確認させてください」
俺は返事を待たずに、フェルトを一枚ずつ引き抜き始めた。
それは、尋常な作業量ではなかった。
何百箇所もの隙間に、消音材が詰められている。
これは、狂気だ。
音を殺すための、執念。
なぜここまでして、静寂を作った?
最後のフェルトを引き抜いた時、俺の指は震えていた。
「ネジを、巻きます」
第四章 満ちる音色
カチリ。
ゼンマイを巻く音が、死んだ部屋に響く。
俺は振り子に指をかけ、ゆっくりと押した。
コチ……コチ……コチ……。
重厚なリズムが刻まれ始める。
「……だから何? ただの時計じゃない」
カレンが苛立ちを見せた時だ。
長針が『12』を指した。
ボーン……。
鐘の音が鳴る。
いや、違う。
それは時を告げる鐘の音ではなかった。
ボーン……ポロン、リーン……。
複雑に組み上げられた鐘と、何層もの反響板が奏でたのは、オルゴールのような、しかしもっと深みのある旋律。
「え……?」
カレンの瞳が見開かれる。
そのメロディ。
俺には分からなかったが、彼女には分かったらしい。
「これ、ショパンの……『別れの曲』?」
しかも、ただの電子音のような正確なリズムではない。
テンポが揺れている。
ためらい、急ぎ、そして優しく着地する。
それは、人間が弾くピアノそのものだった。
その時、俺の耳に、今まで堰き止められていた『音』が雪崩れ込んできた。
それは時計からではない。
この部屋全体、壁のシミ、床の傷、全ての部品から一斉に。
『カレン、ピアノが上手くなったな』
『あの子が弾いている間は、音を立てるな。集中を削ぐな』
『時計の音さえ、あの子の邪魔になる』
『静かに、静かに……あの子の旋律だけが、この家に響くように』
俺は膝をつきそうになった。
圧倒的な、愛情の轟音。
この祖父は、冷血だったんじゃない。
自分の出す生活音や、時計の音が、孫娘のピアノの練習の邪魔にならないよう、全てを殺していたんだ。
息を潜め、音を消し、気配を消し。
ただ、彼女のピアノを聞くためだけに。
「聞こえますか、カレンさん」
「なにが……」
カレンは震えている。
「この時計の音。あなたのピアノの癖を、完全に再現してる。歯車の一つ一つを削って、あなたの演奏のタイミングに合わせて調整してあるんだ」
時計職人が、一生をかけて作った最高傑作。
それが、時間を知るための道具ではなく、孫娘の演奏を記録するための再生装置だったとは。
「嘘よ……だって、あの人は一度も褒めてくれなかった……」
「言葉にするより、もっと重いものを残したんですよ。この静寂こそが、あなたへの賛辞だったんだ」
鐘の音が終わる。
最後に、コチ、コチ、というリズムだけが残った。
それはまるで、不器用な老人の心臓の音のようだった。
第五章 ラジオを消して
カレンはその場に泣き崩れた。
彼女の涙が床に落ちるたび、ポツリ、ポツリと、優しい雨のような音が部屋に広がる。
もう、この部屋は無音ではない。
後悔と、愛しさと、赦しの音で満ち溢れている。
「……清掃の必要は、なさそうですね」
俺は道具を片付けた。
ここに残る『騒音』は、これから彼女が生きていくための糧になる音だ。
俺が消していいものじゃない。
洋館を出ると、海風が吹いていた。
俺はポケットからスマホを取り出し、ずっと流しっぱなしだったラジオアプリを停止した。
そして、ヘッドホンを首に下ろす。
波の音。
遠くで鳴るトラックのクラクション。
カモメの声。
それらが、鼓膜を直接叩く。
『湊』
ふと、風の中に妻の声が混じった気がした。
今まで俺が、ノイズだと思って耳を塞いでいた記憶。
だが、それは決して、俺を傷つけるためだけの音ではなかったのかもしれない。
「……ただいま」
誰もいない空に向かって、俺は小さく呟いた。
世界は、こんなにもうるさくて、こんなにも優しい。