『さよならの数式と、君のいない未来』

『さよならの数式と、君のいない未来』

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第一章 頭上の宣告

消毒液と、微かな金木犀の香り。

僕の世界は、その二つで構成されている。

病室の窓から見える空は、憎らしいほどに青い。

僕は視線を落とし、手元の文庫本に意識を集中させようとする。

けれど、ノックの音がそれを許さない。

「湊(みなと)くん、入るよー」

返事をする間もなく、ドアが開く。

現れたのは、制服姿の少女、冬月(ふゆつき)ヒカリ。

彼女が部屋に入ってきた瞬間、僕の視界にはある「数字」が浮かび上がる。

『99』

彼女の頭上に浮かぶ、赤いデジタル数字。

これは寿命でも、好感度でもない。

『その人間が、今抱えている絶望のパーセンテージ』だ。

僕には、それが見えてしまう。

「……また来たのか」

「『また』なんて言わないでよ。今日の授業のノート、届けに来てあげたんだから」

ヒカリは悪戯っぽく笑い、パイプ椅子を引き寄せる。

その笑顔とは裏腹に、頭上の『99』という数字は、ピクリとも動かない。

あと1ポイント。

それが100になった時、人は自ら命を絶つ。

僕はこれまでに、その瞬間を三度も見てしまった。

皮肉な話だ。

心臓に重い病を抱え、生きたくても生きられない僕の頭上には『15』と表示されている。

健康そのもので、陸上部のエースとして活躍し、クラスの人気者である彼女が、なぜ。

「今日はね、購買のパン争奪戦ですごいことがあってさ」

彼女は身振り手振りを交えて、学校での出来事を話し始める。

声は弾んでいる。

表情も明るい。

けれど、数字は『99』のまま、冷酷に点滅している。

彼女は、完璧に嘘をついている。

「へえ、それは大変だったね」

僕は無関心を装い、ページをめくるふりをする。

深入りしてはいけない。

どうせ僕は、もうすぐ死ぬ。

他人の絶望に関わっている時間なんて、残されていないのだから。

「あ、そうだ。湊くん、次の日曜って検査だっけ?」

「……まあね」

「そっか。晴れるといいね」

ヒカリは窓の外を見上げる。

その横顔が、ふと陰ったように見えた。

数字が『99』から、一瞬だけ『100』に揺らぐ。

僕は思わず、本を握りしめた。

「……ヒカリ」

「ん?」

「お前さ、本当は」

言いかけて、飲み込む。

何を聞く?

『死にたいのか』と?

そんな言葉、この殺風景な病室には似合わない。

「……いや、なんでもない」

「なーにそれ、気になるじゃん」

彼女は笑った。

壊れそうなほど、綺麗に笑った。

第二章 偽りのデート

日曜日。

医師の許可——という名の、諦めに近い外出許可を得て、僕は病院の庭にいた。

「湊くん!」

私服姿のヒカリが、小走りで駆けてくる。

白いワンピース。

麦わら帽子。

まるで映画のヒロインだ。

「待たせてごめんね。これ、お弁当作ってきたの」

「……頼んでないけど」

「いいからいいから。座ろ?」

ベンチに並んで座る。

秋の風が、彼女の髪を揺らす。

頭上の数字は、相変わらず『99』だ。

「ねえ、湊くん」

「なに」

「湊くんはさ、もし病気が治ったら、何がしたい?」

唐突な問いだった。

卵焼きを口に運びながら、僕は少し考える。

「……特にないな。想像できない」

「そっか」

「お前は? 陸上の大会、近いんだろ」

話題を逸らす。

彼女は膝の上で手を組み、視線を足元に落とした。

「私ね……もう走れないんだ」

「は?」

「足の怪我、治らないって。ずっと隠してたけど、もう限界みたい」

淡々とした口調だった。

『99』の数字が、激しく明滅する。

ああ、そうか。

彼女の絶望の正体は、これだったのか。

生きがいを奪われた喪失感。

期待を裏切る恐怖。

「……そうか」

かける言葉が見つからない。

「でもね、いいの。私には、新しい目標ができたから」

ヒカリは顔を上げ、僕を真っ直ぐに見つめた。

その瞳の奥に、暗い炎のような揺らぎが見える。

「湊くんの病気が治るまで、私がそばにいてあげる。それが目標」

ぞくり、とした。

それは献身ではない。

依存だ。

自分を失った穴を、僕という「死に近い存在」で埋めようとしている。

僕が死ねば、彼女も逝くつもりだ。

『共依存心中』。

そんな単語が脳裏をよぎる。

「……迷惑だ」

僕はわざと、冷たい声を出す。

「同情で付きまとわれるのは、気色が悪い」

ヒカリの表情が凍りつく。

「違うよ、同情なんかじゃ……」

「じゃあ何だ? 走れなくなった自分を慰めるために、もっと不幸な人間を見て安心したいだけだろ」

最低だ。

僕は、最低な人間だ。

でも、こうするしかない。

彼女の頭上の数字が、『99』から『98』に下がった。

怒り。

それは、生きるためのエネルギーになり得る。

絶望して死ぬくらいなら、僕を憎んで生きてくれ。

「……ひどい」

「ああ、ひどいよ僕は。だからもう来るな」

ヒカリは立ち上がり、涙を溜めた目で僕を睨みつけると、走り去っていった。

残された弁当箱。

冷めた卵焼きの味が、喉に詰まった。

第三章 透明な遺書

それから一週間、ヒカリは来なかった。

当然だ。

あれだけ酷いことを言ったのだから。

僕の体調は急激に悪化し、ベッドから起き上がることも難しくなっていた。

天井の染みを数えるだけの毎日。

もう、数字を見ることもない。

そう思っていた。

深夜。

病室のドアが、音もなく開いた。

影が一つ、入ってくる。

ヒカリだ。

「……起きているんでしょ」

震える声。

僕は寝たふりをやめ、薄目を開ける。

月明かりに照らされた彼女の頭上。

そこには、信じられない数字があった。

『0』

ゼロ?

絶望が消えた?

いや、違う。

僕は自分の能力の解釈を間違えていたのか?

「湊くん、私ね、決めたの」

彼女はベッドの柵を握りしめる。

「湊くんが言った通りだよ。私、走れない自分が許せなくて、死ぬことばかり考えてた。湊くんの隣なら、綺麗に死ねるかなって思ってた」

彼女はポケットから、カッターナイフを取り出す。

心臓が跳ねる。

ナースコールを押そうとするが、指に力が入らない。

「でも、ムカついたから」

カチン、と刃が出る音が響く。

「あんたなんかに同情されてたまるか、って思ったから」

ヒカリはカッターを、自分の手首ではなく、持っていた「陸上部のユニフォーム」に突き立てた。

ジャリ、という布が裂ける音。

彼女は泣きながら、かつての栄光を切り刻んでいく。

「走れなくても! 私は生きてやる!」

「別の道を見つけて! あんたより長く生きて! お婆ちゃんになって! 笑ってやるんだから!」

ボロボロになったユニフォームが床に落ちる。

彼女は肩で息をしながら、僕を睨みつけた。

「だから、あんたも生きなさいよ!」

「意地悪で、口が悪くて、最低な湊くんのままでいいから……生きてよ!」

彼女の涙が、僕の頬に落ちる。

熱い。

その熱さが、冷え切っていた僕の心を溶かしていく。

頭上の『0』。

それは絶望がない状態ではない。

『絶望を受け入れ、それを乗り越えた状態』だったのだ。

「……うるさいな」

僕は酸素マスクの下で、微かに笑った。

「勝手にしろよ」

「うん、勝手にする」

彼女は僕の手を握る。

強く、痛いほどに。

最終章 金木犀の降る夜に

三年後。

大学のキャンパス。

松葉杖をついた女性が、講義室から出てくる。

冬月ヒカリだ。

彼女は今、スポーツ医学を学んでいる。

選手としては終わっても、選手を支える道を選んだ。

「ヒカリ、こっち」

声をかけると、彼女が顔を輝かせる。

「湊!」

車椅子に乗った僕のもとへ、彼女がゆっくりと歩み寄る。

あの日、僕は死ななかった。

奇跡的にドナーが見つかり、移植手術が成功したのだ。

もちろん、元の体には戻らない。

走ることもできない。

それでも、生きている。

僕の目にはもう、人の頭上の数字は見えない。

手術の後、麻酔から覚めた時には消えていた。

必要なくなったからだろう。

「はい、これ」

ヒカリが渡してくれたのは、温かいコーヒー。

「ありがとう」

「どういたしまして。……ねえ、湊」

「ん?」

「あの時さ、なんであんなに酷いこと言ったの?」

彼女はコーヒーを飲みながら、意地悪く笑う。

「……忘れた」

「嘘つき」

「お互い様だろ」

秋風が吹き、どこからか金木犀の香りが漂ってくる。

僕は空を見上げる。

かつて憎らしかった青空は、今はただ、高く澄んでいる。

数字のない世界で、僕たちは不器用に、けれど確かに、明日へと歩を進めている。

「愛してるよ、湊」

ふいに投げかけられた言葉。

僕は耳が赤くなるのを感じながら、ぶっきらぼうに答える。

「……知ってる」

彼女の笑顔が、どんな数字よりも鮮やかに、僕の世界を彩っていた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 湊(みなと): 心臓病で入院中の高校生。「絶望度」が見える能力を持つため、他人と深く関わることを避けてきたニヒリスト。しかし、ヒカリとの出会いで「生きたい」という本音に向き合うことになる。
  • 冬月ヒカリ(ふゆつき ひかり): 快活な陸上部のエースだったが、怪我により選手生命を絶たれる。明るい振る舞いの裏で、自殺寸前の絶望(数値99)を抱えていた。湊への執着は当初、自己の欠落を埋めるための共依存だった。

【考察】

  • 数字『99』と『0』の意味: 物語冒頭、数字は「死へのカウントダウン」としてミスリードされる。しかし、クライマックスで『0』が「絶望の消失」ではなく「受容と克服」であることが明かされる。これは、苦しみがゼロになることではなく、苦しみと共に生きる覚悟こそが人を救うというテーマを示唆している。
  • 「嘘」の役割: 湊の突き放すような「嘘」は、ヒカリの依存的な思考を断ち切るメスとして機能した。優しさだけが救いではなく、時に相手を怒らせ、生のエネルギー(反骨心)を点火させることが真の愛であるというパラドックスを描いている。
  • 金木犀(キンモクセイ)のメタファー: 花言葉は「謙虚」「真実」。冒頭で消毒液の匂いに混じっていた金木犀は、死の予感(病院)の中に隠された「生の真実」を象徴している。ラストシーンで再び香ることで、二人が「真実」の愛に辿り着いたことを表現している。
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