第一章 世界で一番大きな音
換気扇が回る音は、錆びた鉄の味がする。
店先に吊るした風鈴が、湿った南風に揺れてチリンと鳴いた。その音はガラス細工特有の硬質さを含んでいて、まるで冷えた氷砂糖を噛み砕いた瞬間のようだ。
俺、鳴海弦(なるみ・げん)は、作業台の上に置かれた古いオープンリールデッキのヘッドを綿棒で擦りながら、眉間の皺を深くした。
ヘッドホン越しの世界は完璧だ。
ノイズのない静寂。あるいは、意図された音だけの調和。
だが、ヘッドホンを外せば、世界は雑音(ノイズ)で溢れ返っている。
隣のコインランドリーが回る重低音。アスファルトをタイヤが噛む摩擦音。向かいのスーパーから漏れ聞こえる安っぽい電子音の呼び込み。それらが何層にも重なり、俺の鼓膜を無遠慮に叩く。
「……うるさい」
独りごちて、俺は再びヘッドホンに手を伸ばした。
その時だった。
カラン、コロン。
入り口のドアベルが鳴った。
真鍮製のベルだ。澄んでいるが、どこか頼りない余韻を残す。
「いらっしゃい」
愛想というものをどこかに置き忘れてきたような声が出た。実際、この店――『鳴海音響修繕店』に客が来るなど、月に数えるほどしかない。
入ってきたのは、初夏だというのに厚手のカーディガンを羽織った若い女だった。
色素の薄い髪。華奢な首元。大きなトートバッグを抱きかかえるようにして立っている。
彼女は俺を見ず、壁一面に並べられた真空管アンプや、主を失ったスピーカーの群れを眺めていた。
まるで、迷い込んだ野良猫が、そこが安全な場所かどうかを確かめるように。
「修理か? それとも買い取りか」
俺が尋ねると、彼女はビクリと肩を震わせ、ようやくこちらを向いた。
視線が定まらない。いや、焦点は合っているのだが、俺の言葉が届くまでにコンマ数秒のラグがある。
「あの……ここは、音を直してくれるお店だと聞きました」
声は震えていた。
雨に濡れた段ボール箱のような、湿ってくぐもった声質。
「物による。レコードプレーヤーか? それとも古いラジカセか」
「いいえ」
彼女はトートバッグの中から、丁寧に梱包された小さな包みを取り出した。
中から出てきたのは、カセットテープでも、レコードでもない。
一枚の、古ぼけたSDカードだった。
「デジタルか。専門外だな。今の若いのはデータをクラウドとやらに上げるんだろう? パソコン修理屋に行きな」
俺は作業に戻ろうとした。
デジタルの音は嫌いだ。0と1で切り刻まれた音には、匂いがない。
「違うんです」
彼女がカウンターに身を乗り出した。
その勢いに、作業台の上のハンダごてがカタと揺れる。
「データが壊れているんじゃありません。音が……『聞こえない』んです」
「聞こえない?」
「この中に、ある『音』が入っているはずなんです。でも、私にはどうしても聞こえない。ノイズばかりで……。だから、そのノイズを取り除いて、隠れている音を掘り起こしてほしいんです」
俺は溜息をつき、ルーペを目に当てたまま彼女を見た。
「お嬢さん。ノイズってのはな、ただの邪魔者じゃない。その時間が経過したという証明だ。無理に消せば、本来の音まで削げ落ちる」
「それでも……!」
彼女は唇を噛んだ。
その瞳の奥に、切迫した色が浮かんでいることに俺は気づいた。
それは、崖っぷちに立たされた人間だけが持つ、独特の光だった。
「お願いします。時間が、ないんです」
「時間?」
「私の耳……あと一ヶ月もすれば、何も聞こえなくなるそうです」
店内の空気が、一瞬にして凍りついた。
換気扇の回転音だけが、やけに大きく響く。
彼女は自身の右耳にそっと手を添え、寂しげに笑った。
「進行性の難聴です。補聴器も、もう限界で。だから、最後に……どうしても、この音だけは聞いておきたいんです」
俺は持っていた綿棒を灰皿に置いた。
職人の性(さが)だろうか。あるいは、ただの気まぐれか。
「……何の音だ」
彼女はSDカードを俺の掌に押し付け、祈るように言った。
「『雪の降る音』です」
第二章 空白の周波数
雪に音などない。
物理的に言えば、雪片が地面に落下する際の衝撃音は存在するかもしれないが、それは人間の可聴域を遥かに下回る。ましてや、それを一般的なICレコーダーで録音するなど、土台無理な話だ。
「無茶を言うな」
俺は解析ソフトの波形モニターを指差した。
「見てみろ。これはただのホワイトノイズだ。風の音、遠くの車の走行音、衣服が擦れる音。雪の音なんてものは、詩人の妄想の中にしかない」
モニターには、荒れ狂う海のようなギザギザした波形が表示されている。
彼女――篠原咲良(しのはら・さくら)は、じっと画面を見つめていた。
「母が言っていたんです。私が生まれた日、父はこのレコーダーを持って庭に出たって。『雪が歌っている』って言って」
「父親は?」
「私が三歳の時に事故で。……母も、先月」
咲良は膝の上で拳を握りしめていた。
「このSDカードは、母の遺品から見つけました。ファイル名は『Sakura_Birth』。これだけなんです、父が私に残してくれたものは」
俺は黙ってキーボードを叩いた。
イコライザーを操作し、特定の周波数帯域を強調する。
『ザザッ……ゴォォ……』
スピーカーから吐き出されるのは、冬の乾いた風の音だけ。
「おい、お前の親父さんは何系の仕事をしていた?」
「売れない小説家でした」
納得した。小説家ならば「雪の音」などという比喩を使ってもおかしくない。
だが、それを音響工学で再現しろと言われても困る。
俺はフィルターをかけ、風切り音(ウィンドノイズ)を低減させた。
『……』
静寂。
いや、完全な無音ではない。
「サーッ」という、底冷えするようなヒスノイズが残る。
「聞こえませんね」
咲良の声が沈む。
「当たり前だ。雪は喋らない」
俺は作業用の椅子を軋ませて立ち上がった。
「だが、録音された『状況』の音なら再現できるかもしれない。足音の質感、布擦れの音、吐息の間隔。そこから、その夜がどんな夜だったかを炙り出すことはできる」
「……お願いします」
それから三日間、俺たちはその「無音」と格闘した。
俺がノイズを除去し、咲良がそれを聴く。
彼女の聴力は日を追うごとに落ちていた。初日は聞こえていた高音域の警告音が、二日目には反応しなくなっていた。
「もっと、ボリュームを上げてもらえませんか」
彼女は申し訳なさそうに言う。
メーターは既にレッドゾーンを振り切っている。
これ以上上げれば、音が割れて歪むだけだ。
「……焦るな。耳が疲れているだけだ」
俺は嘘をついた。
彼女もそれに気づいているのか、曖昧に微笑むだけだった。
作業の合間、咲良はぽつりぽつりと話した。
父親の顔を覚えていないこと。
母親が、父の話をするときだけは少女のような顔をしたこと。
自分もいつか、音のない世界に行くのが怖くて、夜中にテレビの砂嵐を眺めていたこと。
「音って、記憶の栞(しおり)みたいですね」
彼女は冷めたココアを両手で包みながら言った。
「匂いは感情を呼び起こすけど、音は『その瞬間』の空気をそのまま連れてくる。……私、父が生きていたその瞬間の空気に触れたいんです」
俺は何も答えず、モニターを睨んだ。
波形の底。
風の音の下。
衣服の擦れる音の、さらに奥。
俺の耳が、微かな違和感を捉えた。
それは「音」と呼ぶにはあまりに微弱な、周期的な振動。
雪の音ではない。
ト、ト、ト……。
指先で何かを叩くようなリズム。
俺は全ての他のトラックをミュートし、その極小の振動だけを増幅させた。
「……こいつは」
鳥肌が立った。
それは環境音ではなかった。
意図的に刻まれた、リズムだ。
第三章 六月の雪解け
「咲良、ヘッドホンを」
俺の声に、ソファで微睡んでいた彼女が弾かれたように顔を上げた。
「聞こえるか? いや、耳じゃなくて、骨で聞け。振動を感じるんだ」
俺はヘッドホンを彼女の耳に押し当て、ボリュームを最大まで上げた。
聞こえてくるのは、雪の音ではない。
『……ト、ト、トン。……ト、ト、トン……』
布越しの、柔らかく、しかし確かな打撃音。
「これは……?」
「心音だ」
俺はモニターを指差した。
「レコーダーを、胸に押し当てていたんだ。おそらく、コートの内側に抱きかかえて。これは、お前の親父さんの心臓の音だ」
それだけではない。
その心音のリズムに合わせて、微かに漏れ聞こえる低い周波数の唸りがある。
俺はさらにフィルターを絞った。
人の声だ。
言葉ではない。ハミングだ。
閉ざされた口の中で、喉だけを震わせて歌う、極めて低いハミング。
『……ンーン……ンー……』
咲良の目が大きく見開かれた。
「この曲……」
彼女の唇が震える。
「知っているのか?」
「……母が、よく歌ってくれた子守唄です。父が作った曲だって……」
雪の降る音なんて、最初から録音されていなかったのだ。
あの夜、彼女の父親は、生まれたばかりの娘をコートの中に抱き入れ、雪空の下に立った。
そして、寒くないように、風の音が入らないように、レコーダーごと娘を抱きしめ、身体を共鳴版にして歌ったのだ。
世界中のどんな音よりも近くで、娘にだけ届くように。
「雪の音は、静寂だ」
俺は静かに言った。
「雪が全ての雑音を吸い込んでくれるから、世界は静かになる。その静寂の中でだけ、この小さなハミングは響く。お前の親父さんは、お前に『静けさ』と『温もり』を残したんだ」
咲良の目から、大粒の涙が溢れ出した。
「聞こえます……」
彼女はヘッドホンを両手で強く押さえつけた。
「耳じゃない……胸の奥で、父の声が聞こえます……」
モニターの波形が、彼女の涙で滲んで見えた。
俺はそっと席を立ち、店の奥へと下がった。
彼女が父と再会する時間を、邪魔してはいけない。
終章 残響
一週間後、咲良から手紙が届いた。
綺麗な文字で、感謝の言葉が綴られていた。
彼女の聴力は、もうほとんど残っていないらしい。
だが、手紙の最後はこう結ばれていた。
『世界から音が消えても、あの日の心音だけは、私の中でずっと鳴り響いています。それは、どんな音楽よりも温かい、私だけの音です』
俺は手紙を折り畳み、作業着の胸ポケットに入れた。
店先の風鈴がチリンと鳴る。
相変わらず、世界はノイズで溢れている。
隣の洗濯機の音。遠くのサイレン。子供の笑い声。
だが、今日のその雑音は、以前ほど不快には感じられなかった。
俺は作業台に向かい、ハンダごてを手に取った。
誰かの大切な記憶を、また修理するために。
「さて、仕事だ」
換気扇の回る音が、今日は少しだけ、優しいリズムに聞こえた。