静寂のタクト、崩壊の王都を指揮する

静寂のタクト、崩壊の王都を指揮する

主な登場人物

アルト・ヴィスマール
アルト・ヴィスマール
19歳 / 男性
色素の薄い黒髪に、常に目元を隠すような長い前髪。古びているが手入れされた漆黒の燕尾服を着用。首元には音叉の形をしたチョーカー。
レオナルド・アークライト
レオナルド・アークライト
20歳 / 男性
輝くような金髪碧眼。白と金を基調とした華美な軍服風のステージ衣装。常に自信に満ちた笑みを浮かべている。

相関図

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第1章: 崩壊の序曲

王都、大劇場の舞台袖。澱んだ埃と黴の匂いが、暗がりに沈殿している。

アルト・ヴィスマールは、胸元の布地をきつく握りしめた。

幾度も繕われた漆黒の燕尾服。照明の余波を浴びて鈍く光る、灰色の髪。長い前髪の奥で、彼は世界を拒絶しているのではない。ただ、異常なまでに鋭敏な聴覚が、空間の軋みを拾い続けているだけ。

首元の音叉型チョーカー。冷たい金属の感触が、喉仏に食い込む。

「……少し、音が多すぎるね」

唇だけの呟き。いつものように『調律の杖』へ伸ばした指先が、虚空を掻いた。

まばゆいスポットライト、鼓膜を食い破る歓声。

舞台中央に立つのは、太陽の化身。白と金の軍服を纏う聖歌隊の英雄、レオナルド・アークライト。その手には、無残にへし折られた黒い木の棒。

アルトの『杖』だった。

「見たまえ、諸君!」

張り上げられたバリトンボイス。三千の観衆が息を呑む音、その同期。

「この薄汚い棒きれを! 我々の崇高なる音楽に寄生し、ただ『無音』を撒き散らすだけの不要物を!」

カラン。

乾いた落下音。ゴミのように捨てられた杖の残骸。

床を転がる音さえ、アルトには断末魔の悲鳴。

さざ波のように広がる嘲笑は、やがて巨大なうねりとなり、鋭利な刃物となってアルトの肌を切り刻む。

「君の役目は終わりだ、アルト。君が奏でる陰気な『無音』は、我々の輝かしい音楽を濁らせるだけだ」

「……レオナルド、待ってくれ。君たちの魔法は……出力が高すぎる。僕が余波を吸収しなければ……」

掠れた訴え。だが、声にならない。

チョーカーが熱を帯びて震えている。

違う。彼らは知らないのだ。レオナルドの『光響魔法』が生む熱量と音響の歪み(ディストーション)。それをアルトが『逆位相の静寂』で相殺していた事実を。

今、その防波堤が決壊した。

「衛兵! この不協和音を『沈黙の森』へ叩き出せ!」

振り下ろされる腕、爆発する歓声。

粗雑に掴まれる両腕。革手袋の摩擦音が、不快なノイズとして神経を逆撫でする。

引きずられる視界の隅、レオナルドが再び歌い始める姿。

圧倒的な光と音圧。だが、アルトには視えていた。背後の空間に入る、黒い亀裂。ガラス細工のように脆い世界の裂け目。

美しい旋律の裏側で、制御を失った魔力が牙を剥く。

(だめだ……気づいてくれ……!)

叫びも虚しく、重々しい扉が閉ざされた。

世界から音が消えたのではない。彼が、音のない世界へと放り出されたのだ。

王都の北、『沈黙の森』。

冷たい腐葉土の上。最後に届いたのは、風の音でも鳥の声でもない。

王都の方角から響いた、何かが決定的に「破綻」する、湿った破裂音。

◇◇◇

第2章: 静寂の王

静寂。それは無ではない。圧力だ。

圧迫される鼓膜。頭蓋骨の中で鐘のように反響する、己の心臓音。

アルトは身を起こした。苔むした巨木が天を覆い、光さえも音もなく吸い込まれていく森。ここでは、発音そのものが罪。かつて多くの罪人が、この静けさに発狂し、喉を掻きむしって果てたという。

だが、アルトの呼吸は深かった。

前髪を梳き上げ、露わになった瞳が薄暗い森を捉える。

騒音の欠如。罵声の不在。「称賛」という名の暴力からの解放。

「……ふう」

白く濁る吐息。

その時。

ガサリ。落ち葉を踏む音が、静寂のキャンバスに垂らしたインクのように滲んだ。

瞬時に向ける視線。

獣ではない。重力に逆らい浮遊する、透き通るような銀髪。ボロボロの薄絹から覗く白磁の肌は、右腕と頬の一部が硬質なクリスタルに侵食されていた。

裸足の少女。

「……誰?」

鈴を転がしたような、あるいは氷のひび割れのような倍音。

アルトは目を細める。彼女の周囲だけ、空気が微細に振動し、和音を形成している。

世界から弾き出された『音』の化身。

「……僕はアルト。君は?」

「……セラ、なの。……あなた、うるさくないのね」

恐る恐る近づく指先が、チョーカーに触れようとして止まる。

直後、森の奥から迫る地響き。

ズズン、ズズン。

不規則なリズム。調律されていない太鼓のような振動。

なぎ倒される樹木。現れたのは『暴音の熊(ノイズ・ベア)』。岩のような筋肉の塊が、耳障りな咆哮を撒き散らす。

「嫌……その声、痛い……!」

耳を塞ぎ、蹲るセラ。

「大丈夫だ」

アルトは立ち上がる。武器はない。杖もない。

だが、右手を掲げた。

指揮者が、オーケストラを前にタクトを構えるように。

この世界は巨大な譜面。魔獣の咆哮も、木々のざわめきも、すべては音符に過ぎない。

振り下ろされる爪。鼓膜を打つ風切り音。

アルトはその音を「聴いた」。左手で空気を掴み、右手で刻むリズム。

「……テンポが速すぎる。アダージョ(緩やかに)」

滑らかな指先の軌道。

瞬間、水飴に浸かったかのように鈍化する魔獣。

魔法ではない。音の波長への干渉、振動数の強制書き換え。物理法則を無視した『音響支配』。

困惑の唸り声さえ、アルトの指先ひとつで心地よい低音のハミングへ。

殺意に満ちた咆哮が、重厚なチェロの音色へと変質する。

顔を上げるセラ。驚愕に見開かれる瞳。

「すごい……おじさんの声が、歌になってる……だわ」

「さあ、第二楽章だ」

汗ひとつかかず、タクトを振るう。

集まる森の怪物たち。だが、指揮圏内に入った瞬間、それらは凶暴性を抜き取られ、壮大な交響楽団の一部へと組み込まれていく。

静寂の森に満ちる、かつてない旋律。

一方、王都。

鏡の前でポーズを決めていたレオナルドが、不意に眉間を押さえた。

ビリビリと震える窓ガラス。

街の随所で、耳を押さえうずくまる人々。

「なんだ……この耳鳴りは……?」

誰の手も触れていないグラスが、パリンと粉々に砕け散った。

◇◇◇

第3章: 逆転する価値

王都は、巨大な共鳴箱と化していた。

亀裂の走る尖塔。ポップコーンのように弾け飛ぶ敷石。

原因は『音』。聖歌隊が奏でるほど、その音は増幅し、歪み、物理的な衝撃波となって都市を破壊する。

「歌え! もっと大きく! 僕の歌で不安を消し去るんだ!」

血走った目での絶叫。

だが、その声はもはや音楽ではない。黒板を爪で引っ掻く音を数千倍にした、おぞましいノイズの塊。

爆散する噴水、かき消される悲鳴。

理解不能。なぜだ? 今までこれで上手くいっていた。なぜ、アルトがいなくなっただけで、世界はこれほど脆いのか?

『沈黙の森』の深淵。

透き通る泉の水面に、王都の惨状が映る。

アルトの燕尾服を掴む、セラの小さな手。

「アルト……あそこの音、泣いてる。すごく……苦しそう」

「ああ。限界を超えたんだ」

自身の掌を見つめる。

かつて親方に言われた言葉。『お前には音楽の才能がない。お前の音は、何もかもを消してしまう』。

だから裏方に徹した。他人の音を輝かせる『影』となるために。

だが、セラは言った。「あなたの指揮は、音を自由にしている」と。

万象の音を支配し、完全な静寂さえも作り出せる神代の魔法『絶対静寂(サイレンス・ゼロ)』。

それならば、王都の暴走を止められる。

脳裏をよぎる古い伝承。

『完全なる静寂を行使せし者、その代償として、二度と愛する者の声を聴くことは叶わじ』

震える手で耳を覆う。

セラの、あの鈴のような声を失う恐怖。雨音も、ページをめくる音も。

「……怖い、かい?」

自問自答の声さえ、震えている。

王都の方角、一際大きな爆発音。空を焦がす火柱。

このままでは、レオナルドも、市民も、自らの音に押し潰されて死ぬ。

「アルト」

冷たいクリスタルの指先が、頬に触れた。

銀色の月のように輝く瞳。

「行って。……あなたの指揮を、待ってる人たちがいるわ」

「でも、僕は……君の声が……」

「私の声は、心で聴いて。……マエストロ」

迷いを断ち切る言葉。

立ち上がり、翻すボロボロの燕尾服。その背中は、うらぶれた調律師のものではない。

世界を指揮する、王の背中。

「……行こう。少し、調律の時間だ」

掲げた手に応え、ざわめく森の木々。整列する無数の魔獣たち。

向かう先は、音の暴力が支配する地獄のステージ。

だが、瞳に宿る確固たる光。

たとえ聴力を失っても、この世界に「静けさ」という救いを取り戻すために。

王都、大広場。

レオナルドを取り囲む、音の魔力で実体化した半透明の怪物たち。

「やめろぉぉぉ!! 僕を見ろ! 僕を称えろぉぉ!!」

絶叫に応え、振り下ろされる巨大な顎。

死の影。

その時、世界からふっと「音」が消えた。

◇◇◇

第4章: 沈黙の進軍

死の覚悟。固く閉ざした瞼。

だが、痛みは来ない。

代わりに訪れた、耳が痛くなるほどの静寂。

恐る恐る開いた視界。眼前に迫っていた音の怪物が、空中で凍結している。

いや、構成する振動そのものが完全停止しているのだ。

カツ、カツ、カツ。

死に絶えた広場に響く、革靴の音。

砂煙の向こうから歩いてくる男。

漆黒の燕尾服。目元を隠す黒髪。手には何もない。

ただその指先に纏わりつく、凍てつくような冷気と神聖な静謐。

「ア……アルト……?」

裏返り、無様に震えるレオナルドの声。

一瞥もしない。ただ、暴走する音の奔流を見上げ、小さく息を吐く。

「……フォルテシモ(極めて強く)が過ぎる。品がないね」

水平に薙がれる右手。

瞬間、霧散する音の怪物たち。

最初からなかったかのように、『無』へと還元されるエネルギー。

魔法陣も詠唱もない。ただの「休符」の指示。

背後に控える森の魔獣たち。かつて人を食らった獣が、今は忠実な楽団員として主に従う。

「な、なんだそれは……! 貴様、何をした!?」

地団駄を踏み、掴みかかろうとするレオナルド。

人差し指を口元に当てるアルト。

詰まる喉、出ない声。強制的な沈黙。

「静かに。……今は、演奏中だ」

広げられる両手。

王都全体を覆う不協和音。建物の軋み、悲鳴、爆発の残響。

それら全てを、たった一人で統率し始める。

騒音はリズムへ、悲鳴は旋律へ。

破壊のエネルギーが、修復のハーモニーへと書き換えられていく。

膝から崩れ落ちるレオナルド。

自分の音楽は暴力だった。自己顕示欲の塊だった。

目の前にあるこれこそが、本物の『音楽』。音がなくても、世界を震わせる魂の共鳴。

「……ぁ……ぁぁ……」

流れる涙、地を這う体。プライドも栄光も粉々に砕け散る音が、彼の心だけで響く。

最後のタクトを振り下ろそうとした、その時。

王都地下、大劇場の深淵から噴き上がる、どす黒い振動。

割れる大地。

不協和音など比較にならない、根源的な『世界の悲鳴』。

アルトの耳から流れる一筋の血。

明滅する視界。代償の時か、それとも――。

「……まだだ。まだ、終わらせない」

血の涙を流しながら、崩壊する大地の上で、孤独に腕を掲げ続けた。

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