第1章: 廃棄
裂けるような鉛色の空。凍てつく雨が、無慈悲に石畳を叩きつけていた。
王都中央広場。その中心、泥濘(ぬかるみ)に膝を沈める影が一つ。エララである。
かつて聖女の純潔を謳った法衣は、今や雨と泥泥(デイデイ)に塗れ、惨めなほど肌に張り付いている。透ける薄皮。震える肢体。行き場を失った空色の瞳からは、雨とも涙ともつかぬ雫が、長い睫毛を伝い絶え間なく零れ落ちていた。
「邪魔なんだよ。その祈りは」
頭上から降る声。かつて愛を誓った男のそれは、もはや耳障りな雑音でしかない。
勇者レオニード。脂で束になった金髪が額に張り付き、栄光の聖騎士鎧は赤錆と黒ずんだ血で汚濁している。隠そうともしない苛立ち。抜かれるダガー。
「きゃっ……!」
奔る銀閃。胸元から大きく切り裂かれる法衣。
露わになったのは、豊かな双丘の谷間と、白磁のごとき華奢な肩。寒気と羞恥で粟立つ肌を、群衆の視線がねっとりと舐め回す。汚物を見る目。レオニードが鼻を鳴らす。
「戦場でお前の匂いがすると気が散る。甘ったるくて、吐き気がするんだ。失せろ」
翻る背中。遠ざかる足音。
伸ばしかけた手は、虚しく泥の中へ。指先の震え。浅くなる呼吸。回転する世界、黒く塗りつぶされる視界。寒い。熱い。誰か。誰か私を――。
「……素晴らしい」
雨音の向こう、場違いなほど冷静な声が鼓膜を揺らす。
視線を上げれば、濡れた黒革靴。見上げれば、漆黒の執事服。革手袋の男が、傘を差しかけていた。
神経質な細面(ほそおもて)に、全てを見透かす灰色の瞳。男――ヴァーニッシュは、ハンカチを取り出すと、エララの頬を伝う液体を丁寧に拭い取った。
「泣かないでくれ。君の涙は塩分が多すぎて、香りが濁る」
拭い取った涙を鼻先へ。恍惚とした表情で、肺腑の奥底まで吸い込む男。
「君は自分がゴミだと思っているね? 違うよ。君は……最高級の『香料』だ」
顎を持ち上げる冷たい指先。その瞬間、エララの背筋を貫く奇妙な電流。
恐怖ではない。それは存在の芯を鷲掴みにされたような、抗いがたい支配の予感。
◇◇◇
第2章: 蒸留
地下工房を満たすのは、ガラスと銅の冷徹な輝き。
複雑に絡み合うパイプ。音もなく巡る蒸気。部屋の中央、巨大な蒸留器のごときガラスケースに、エララは閉じ込められていた。
「さあ、エララ。今日の抽出(セッション)を始めようか」
革のエプロンを締め、新しい手袋を嵌めるヴァーニッシュ。その手には鋭利な刃物ではなく、柔らかな羽毛と氷塊。
エララが纏うのは、法衣を冒涜的に改造したボンデージ風のドレスのみ。豊満な果実は薄いシルクと革紐によって際どく締め上げられ、食い込んだ紐が淡い桜色の痕(あと)を刻んでいる。
「あ……っ、ヴァーニッシュ、様……!」
氷が滑る。熱を持った太腿の内側を。
直接的な接触はない。器具越し、あるいは温度変化による焦らし。
冷たさに収縮する筋肉。次いで、敏感なうなじを撫で上げる羽毛。
相反する刺激が脳髄を揺さぶり、エララの唇から甘露のような吐息が漏れた。
「いけません、そんな……私、おかしくなって……っ」
「我慢するんだ。まだ早い」
観察者の声。フラスコを肌へ近づけ、毛穴から滲み出る汗の一滴すら逃さぬ構え。
快楽の許容量を超えようとする肉体。秘められた花芯がきゅっと収縮し、蜜が溢れそうになるたび、冷淡に中断される刺激。
寸止め。焦らし。管理された煉獄。
出口のない熱が体内を暴れ回り、理性を焼き尽くしていく。
鏡に映る自分。聖女の面影など微塵もない。とろんと濁った瞳、桃色に染まる頬、ただ快楽を乞う牝(メス)の顔。
「お願いです……もう、許して……空っぽになるまで、絞り尽くしてください……ッ」
懇願は無視される。冷静にダイヤルを回し、室温を上げるヴァーニッシュ。
蒸発したエララの体液、その甘美なフェロモンが管を通り、冷却され、一滴の黄金色の液体となってビーカーへ。
ポタリ。その音を聞くたび、ビクンと背を反らすエララ。管理されることへの倒錯した悦びが、彼女を溺れさせていく。
◇◇◇
第3章: 再会
裏社会のオークション会場。充満する熱気、饐(す)えた臭い。
その一角、フードを目深に被った一団。勇者レオニードとそのパーティである。
小刻みに震える手。止まらない爪を噛む音。
エララ追放から数週間。彼らを襲ったのは原因不明の不調。関節の激痛、幻覚、そして埋めようのない『渇き』。医師すら匙を投げた彼らがすがるのは、「万病を治す奇跡の薬」の噂のみ。
「クソッ、まだか……! 俺は勇者だぞ、なんでこんな目に……」
毒づくレオニード。落ちる照明。
ステージ中央を射抜くスポットライト。
巨大なガラスの檻。その中に、黄金色の蒸気を纏い横たわる女。
「商品は最高級媚香『聖女の嘆き』。その発生源である生体パーツです」
司会者の声など聞こえない。
レオニードは息を呑んだ。エララだ。だが、知るはずの地味で鬱陶しい女ではない。
透ける衣装から覗く肢体は艶めかしく汗ばみ、虚ろな瞳で観客席を見下ろしている。
檻の隙間から、ふわりと漏れ出す香り。
甘い。あまりにも甘く、暴力的な芳香。
脳の防壁を容易く突破し、本能のスイッチを無理やり押し込む麻薬。
「あっ……あぐ……ッ!?」
喉を掻きむしり、椅子から転げ落ちる男たち。
レオニードもまた、膝から崩れ落ちた。
沸騰する全身の血管。吸いたい。あの香りを。もっと、肺が破裂するまで。あれは俺のものだ。俺が捨てた、俺の道具だ!
「あの、汚い女が……!」
充血した目での絶叫。抜こうとした剣、だが手は痙攣し、柄を握ることさえ敵わない。
怒りではない。これは圧倒的な『依存』。
全細胞が、エララという名の麻薬を求めて悲鳴を上げていた。
◇◇◇
第4章: 断罪
「うおおおおおおッ!!」
獣の如き咆哮。ステージへ躍り出るレオニード。
理性のタガが外れた一撃がガラスケースを粉砕する。飛び散る破片、爆発的に広がる濃密な香気。
「き、君を……救いに来たんだ! エララ!」
歪んだ笑み。にじり寄る男。その股間は浅ましく膨れ上がり、聖騎士の威厳など見る影もない。
ガラス片の中、座り込んだままゆっくりと顔を上げるエララ。
怯えも、慈愛もない。
あるのは、質の悪い商品を見るような、冷ややかな侮蔑。
「救う? ……いいえ。あなたはただの、渇いたお客様です」
艶やかに動く唇。
影から現れたヴァーニッシュが、無表情に指を鳴らす。
合図。
エララは自身の胸元を押し開き、首筋に取り付けられた特殊なアトマイザーの栓を抜いた。
プシュッ。
目に見えない霧。レオニードの顔面への直撃。
ヴァーニッシュ精製、特濃の『媚香』。エララの羞恥と快楽を極限まで濃縮した、理性を破壊する劇薬。
「が、あ……ッ!? ぐ、あああああああッ!!」
白目を剥き、喉をかきむしり、のた打ち回るレオニード。
溶ける思考。勇者のプライド、栄光、すべてが『快楽』という名の濁流に飲み込まれ消えていく。
熱い。脳に打ち込まれる熱い楔。欲しい。許しが、慈悲が、匂いが欲しい。
「あ、あ、エラ、ラ様……!」
四つん這いになり、涎を垂らしながら這い寄る男。
かつて泥にまみれさせた彼女の素足を、夢中で舐め始めた。
足の指、甲、くるぶし。子犬のように鼻を鳴らし、必死に這わせる舌。
「もっと、もっと匂いを……! 踏んでくれ、俺を、俺をゴミのように扱ってくれぇぇぇ!!」
衆人環視。英雄の完全なる崩壊。
エララは恍惚とした表情で、自分の足を舐め回す男の金髪を乱暴に掴む。
「ええ……いい子です。一生、私の残り香を嗅いでいなさい」
◇◇◇
第5章: 開花
工房の片隅。増えた新しい『家具』。
溶かされ鉄塊となった聖騎士の鎧。その代わり、首輪をつけられた男――レオニードが、部屋の隅で膝を抱えている。
瞳に知性の光はない。時折、エララが動くたびに鼻をひくつかせ、うっとりとした表情で宙を嗅ぐだけ。彼はもう、エララのフェロモンなしでは呼吸すらできぬ生きた苗床。
「調子はどうかね、私の最高傑作」
完成した香水瓶を光にかざすヴァーニッシュ。
鏡の前、新しいドレスの裾を直すエララ。かつての弱々しさは微塵もない。
妖艶で、残酷で、そして圧倒的に美しい『女王』の顔。
「ええ、ヴァーニッシュ様。とても……満たされています」
レオニードへの一瞥すらない。
彼女にとって彼は、自分がどれほど価値のある存在かを確認するための、単なる比較対象。
失ったものは清純。得たものは、世界を跪かせる香り。
「次はどこの国を堕としましょうか?」
ヴァーニッシュの首に回される腕。冷たい耳元への囁き。
彼女の肌から立ち昇る甘美な毒は、もう誰にも止められない。
英雄を苗床にして咲き誇った花は、その腐乱するような芳香で、世界中を甘い狂気で満たすために開花したのだから。
くすりと笑うエララ。部屋中に充満する自身の香りを、深く、深く吸い込んだ。