第一章: 異常な夕立と死者からの手紙
叩きつけるような雨粒。真夏のアスファルトを暴力的に打ち据える。土埃と熱が混じった、むせ返るような匂い。
濡れた長めの黒髪を無造作に掻き上げ、夏目朔は赤錆に覆われたコインロッカーの前に立つ。
虚無感を宿した三白眼。睨み据えるのは、開くはずのない『四番』の扉。
湿気を吸って重くなった指定の学生服。開け放たれた第一ボタンの隙間から、容赦なく雨風が入り込む。
夏目 朔「……今日も、か」
どうでもいい。お前がいない世界になんて、何の意味もない。
舌打ちと共に扉を引く。蝶番が軋む不快な音。
空虚なはずの暗がりの中。純白の封筒が一つ、ぽつんと置かれていた。
三年前に神隠しに遭い、存在ごと消滅したはずの幼馴染。星野結衣の筆跡。
だが、便箋に記された文字は、これまでの他愛ない日記とは違っている。
今日、あなたを殺しに行きます。
急速に温度を失う指先。跳ねる心臓。肋骨の内側で打ち鳴らされる狂暴な警鐘。
背後で、ノイズが走る。
ザザッ……ピー……
振り返った無人駅のホーム。明滅する夕暮れの光の中、信じられないものが立っていた。
透き通るような白髪。悲哀を帯びた翡翠色の瞳。
当時のままの古びたセーラー服の首元には、真夏の熱気の中で異彩を放つ、分厚い赤いマフラー。
星野 結衣「朔」
声が、ひどく震えていた。
幻影の彼女が一歩を踏み出す。輪郭がテレビの砂嵐のようにブレる。
朔が手を伸ばすより早く、結衣の冷たい指先が朔の頬に触れた。
氷塊を押し当てられたような鋭い冷感。
瞬きをした直後。ホームには誰もいない。
ただ、朔の頬にだけ、凍りつくような彼女の指の感触。それは確かに焼き付いていた。
◇◇◇
第二章: 水底の遊園地
暮れ泥む星空を切り裂く、錆びついた観覧車の骨組み。
足首まで浸かる泥水。水没した廃遊園地。
水鏡となった水面が、夜空の瞬きと二人の姿を無数に反射している。
夏目 朔「なんで……お前がここにいる」
低く地を這う朔の声。
十メートル先。メリーゴーランドの残骸の上に、実体を持った結衣が立っていた。
彼女の右手には、鈍く光るサバイバルナイフ。
しかし、その手は小刻みに震え、切っ先は定まらない。
翡翠の瞳から次々と溢れる大粒の水滴。赤いマフラーの結び目を濡らしていく。
星野 結衣「ごめんね、朔。私があなたを終わらせるから」
夏目 朔「ふざけるな。三年間、どこで何を……!」
泥水を蹴り立て、朔が間合いを詰める。
胸元へ突き出されるナイフ。だが、その軌道はあまりにも遅く、脆い。
朔は刃を素手で掴み取った。手のひらを裂く鋭い痛み。
生暖かい血が滴り、口の中に鉄の味が広がる。
夏目 朔「刺せよ。俺を殺しに来たんだろうが」
星野 結衣「やめて……血が……お願い、離して……!」
結衣の悲痛な叫びを遮るように、朔はナイフを握った彼女の手首ごと、その華奢な体を強く抱き寄せた。
濡れた制服越しに伝わる、彼女の震える体温。
赤いマフラーから微かに漂う、甘いホットミルクの懐かしい匂い。
朔は結衣の首筋に顔を埋め、荒い息を吐き出す。
夏目 朔「離さない。二度と」
結衣の腕が力なく垂れ下がり、朔の背中に回される。
冷え切った指先が、朔のシャツをきつく握りしめた。
二人の吐息が絡み合い、水面が静かに波打つ。
だが、その甘美な空白は一瞬で砕け散る。
結衣のうなじの皮膚の下。青白い光を放つデジタルの羅列が、皮膚を突き破るように浮かび上がった。
カウントダウン。残り時間は、わずか数分。
「……時間が、もうないの」
結衣の囁き。それは朔の鼓膜を氷のように貫いた。
◇◇◇
第三章: 歯車と雨の執行者
カチリ、カチリ。
水音だけが支配していた廃遊園地に響き渡る、無機質なアンティーク時計の秒針。
時雨「ひどいバグだ。愛などというノイズは、速やかに修正しましょう」
波紋一つ立てず、水面を滑るように『それ』は現れた。
漆黒のトレンチコート。銀色の長髪を一つに束ね、感情の光が一切ない金色の瞳。
足音は全く鳴らない。空間そのものに切り取られた穴のような、圧倒的な異物感。
夏目 朔「誰だ、てめえは」
時雨「私は時雨。この破綻した世界を修復する者ですよ。夏目朔、あなたは間もなく、彼女を救うために世界中の時間を巻き戻し、数十億の命を犠牲にする。大崩壊という名の、極めて見苦しいエラーを引き起こす」
時雨の言葉に、朔の呼吸が止まる。
自分が、世界を壊す?
星野 結衣「だから私が……朔が罪を犯す前に、止めなきゃいけないの!」
時雨「ええ。彼女は自ら志願しました。愛するあなたをその手で殺すことでしか、あなたを大罪から救えないと。実に滑稽なプログラムですが、利用価値はありました」
時雨の唇の端が、三日月のように歪む。
時雨「もっとも、彼女自身が時の異物。あなたを殺した瞬間、彼女の存在もまた、過去から未来まで一切の痕跡を残さず消去されるようセットされていますがね」
脳天を雷が直撃した。
夏目 朔「てめぇ……結衣を、捨て駒にしたのか……ッ!」
星野 結衣「え……? 消え、る……?」
時雨が白手袋に包まれた指を鳴らす。
パチン。
その瞬間。結衣の指先がピクセル状に分解され、青い光の粒子となって空中へ溶け始めた。
時雨「時間切れですね。不要な事象は、これより消去します」
崩れゆく結衣の姿。時雨の瞳の奥で、無機質な金色の歯車が冷酷に回り始める。
◇◇◇
第四章: 砕け散る時計塔と燃える空
空が、燃えている。
水没した遊園地の上空。
重力という概念が崩壊し、巨大なアンティークの時計塔が天空から逆落としに降ってくる。
瓦礫の雨。空気を焦がす熱風が、肺を焼いた。
夏目 朔「結衣! 手を伸ばせ!!」
星野 結衣「だめ、朔……もう、これ以上……!」
右腕の半分が光の粒子に変わった結衣を、朔は強引に引きずる。
時計の巨大な歯車が轟音を立てて水面へ激突。舞い上がる巨大な水柱。
自分が結衣を愛せば愛するほど、運命は歪み、世界が崩壊する。時雨の言った通りだ。
朔の足が止まる。
喉仏が激しく上下した。
夏目 朔「俺を殺せ、結衣」
胸ぐらを開き、朔は結衣の左手に握られたナイフを自身の心臓へと誘導する。
星野 結衣「やめて……できない……ッ! 私、あなたを助けたかったのに……!」
夏目 朔「いいから刺せ!! お前が消えるくらいなら、俺が終わらせる!」
「できなぁぁぁいッ!!」
結衣が泣き叫び、ナイフを泥水の中へ投げ捨てる。
自らの前髪をむしり取るように掻き毟り、子供のようにしゃくり上げた。
炎と水飛沫の狭間。二人の距離はゼロになり、極限の感情がぶつかり合う。
だが、無情にも時雨が宙に浮き上がり、見下ろすように右手を掲げた。
時雨「無駄なバグの連鎖だ。初期化を完了します」
空間が白く反転する。
音も、光も、温度も。すべてが完全な白紙へと還っていく圧倒的な暴力。
朔の網膜に、結衣が完全に光の塵となって消えゆく瞬間が焼き付けられた。
◇◇◇
第五章: 因果律の簒奪、永遠の雨
白紙の空間。
時間の概念すらない絶対の無。
朔の肉体もまた、指先から透明に透け始めている。
お前がいない世界になんて、何の意味もない。
だったら。
朔の三白眼に、狂気じみた執着の炎が宿る。
夏目 朔「世界を巻き戻すんじゃない……因果そのものを、書き換える」
時雨「な……何をしようとしている!? それは、自らの存在概念の解体だ! あなたという存在が、最初からこの宇宙に発生しなかったことになる!!」
常に冷徹だった時雨の声に、初めて狼狽が混じる。
夏目 朔「あぁ。それでいい」
ドクン、ドクン。
異常な速度で脈打つ朔の心臓。
自らの魂をプログラミング言語のように細切れに解体し、結衣の生きる世界を再構築するためのリソースへと変換していく。
激痛なんてものじゃない。自己の消失という根源的な恐怖。
それでも。最後に網膜に浮かぶのは、あの真夏の夕暮れに笑う結衣の顔だけだった。
夏目 朔「生きろ、結衣」
システム……致命的……エラー……再構築……完了
そして、夏目朔は『存在しなかった』。
◇◇◇
海沿いの地方都市。
真夏の空を、突然の夕立が洗い流していく。
アスファルトが濡れる匂い。傘を持たずに駅のホームへ駆け込んだ星野結衣は、湿気た風に白髪を揺らした。
星野 結衣「……あれ?」
頬を伝う生温かいもの。
悲しいわけではない。ただ、どうしようもないほど深く、清冽な痛みが胸の奥から湧き上がってくる。
首元に巻かれた赤いマフラー。誰にもらったのか、どうしても思い出せない。
雨の匂いと、甘いホットミルクの記憶。
結衣はふと空を見上げる。
名前も知らない、顔も思い出せない『誰か』へ。
圧倒的な愛と感謝が堰を切って溢れ出し、彼女はアスファルトに膝をついて静かに泣き崩れた。
秒速で崩壊する世界は、もうない。
ただ、彼女だけが、優しい雨に濡れていた。