第一章: 錆びた海辺と反転する空
生ぬるい潮風が、少し長めの黒髪を無遠慮に撫で回す。
首に引っかけた黒いヘッドホン。そこから規則的に漏れ出すのは、プラグの抜けた不快なノイズ。
肌に纏わりつくのは、潮のベタつきと錆びた鉄の臭気。
鳴海 海星はひび割れたアスファルトにしゃがみ込み、水溜まりに反転する茜色の空へカメラのレンズを向けた。
伏し目がちな琥珀色の瞳。シャッターを切る一瞬だけ、それが酷薄に細められる。
[Think]……今日も、うるさい[/Think]
足元に張り付く、コールタールのように黒い染み。
夕暮れが近づくにつれ、実体を帯びた『己の影』がアスファルトの表面で蠢き始める。
[Whisper]お前は誰からも必要とされていない。偽善者め。[/Whisper]
影の表面に浮かび上がったノイズのような口。垂れ流されるのは心底醜悪な本音。
海星は奥歯から血が滲むほど噛み締め、ヘッドホンのボリュームダイヤルを親指で弾き飛ばす勢いで回した。
鼓膜を打ち破らんばかりの重低音。それが影の囁きを物理的に塗り潰していく。
夕闇が這い寄る廃教室。
一人でカメラのメンテナンスをしていると、ふと、錆びたドアの蝶番が耳障りな音を立てた。
[A:鳴海 海星:驚き]「……誰、かな」[/A]
西日を背負って立っていたのは、光を吸い込むような圧倒的な質量を持つ少女。
透き通るような白い肌。窓からの微風に揺れる、銀色がかった細い白髪。
光を一切反射しない、色素の薄い青い瞳が、海星を静かに射抜いた。
薄手の白いワンピースのような夏制服の裾から覗くのは、裸足に近い白いサンダル。
まるで、精巧な硝子細工が呼吸をしているかのような幽玄な佇まい。
[A:白波 夕凪:冷静]「ここは、静かですね」[/A]
波のように透明な声。それが埃の舞う教室に落ちる。
海星の視線が、無意識に彼女の足元へ吸い寄せられた。
息が、喉の奥でひゅっと詰まる。
[A:鳴海 海星:驚き]「君……影が、ない」[/A]
沈みゆく強烈な夕陽を背にしているというのに。
彼女の足元には、あるべきはずの暗い染みが一切存在しない。
ただオレンジ色の光が、無機質に床の木目を照らしているだけ。
[A:白波 夕凪:冷静]「……ええ。私は、影ですから」[/A]
[Impact]白波 夕凪。[/Impact]
転校生として紹介された彼女の言葉の意味を、この時の海星はまだ理解していない。
ただ、その静寂に満ちた孤独な佇まいから目が離せない。
自身の影が「あんな不気味な女、関わるな」と金切り声を上げている。
それでも、琥珀色の瞳は狂おしいほどに彼女の輪郭を焼き付けていた。
第二章: 硝子の空と冷たい手
波の音が、錆びた廃線跡の枕木を揺らす。
海星と夕凪は、町外れの灯台へと続く海沿いの道を並んで歩いていた。
海星の手にはラムネの瓶。ガラス越しに伝わる結露の冷たさが、指先の熱を奪っていく。
[A:篠原 灯:怒り]「ちょっと海星! またそんなところで油を売ってるでしょ!」[/A]
背後から響く、ハキハキとした甲高い声。
振り返ると、活発に切り揃えられたショートボブを揺らしながら、篠原 灯が走ってくる。
指定の制服の上に羽織った少し大きめのカーディガン。使い古された赤いスニーカーが、苛立たしげに砂利を蹴り飛ばす。
黒曜石のような意志の強い瞳。それが海星を捉え、次いで隣の夕凪へと鋭く突き刺さった。
[A:篠原 灯:照れ]「ほら、しゃんと背筋伸ばして! 全く、私がいないと駄目なんだから」[/A]
[A:鳴海 海星:冷静]「……別に、どうでもいいけど。灯こそ、部活はいいのかな」[/A]
[A:篠原 灯:怒り]「あんたが心配で抜けてきたの! ……っていうか、そっちの」[/A]
灯の足元で、彼女の影が異様に肥大化し、歪な棘を逆立てる。
[Whisper]『なんで私じゃないの』『あんな幽霊みたいな女のどこがいいの』[/Whisper]
灯の影が囁く醜い嫉妬のノイズ。それが海星の耳にも微かに届く。
同時に、海星自身の影も呼応して沸き立った。
[Whisper]『どうせ誰も俺のことなんか見てないくせに』『うるさい、全員消えろ』[/Whisper]
喉の奥から込み上げる、胃液の酸っぱい匂い。
海星は無意識に後ずさり、逃げるようにヘッドホンへ手を伸ばす。
その時。
ひんやりとした、氷のような感触。
夕凪の白い指先が、海星の震える右手を静かに包み込んだ。
体温を一切感じさせない、死体のような圧倒的な冷たさ。
それなのに、暴れ狂っていた海星の影が、波が引くように沈黙していく。
[Sensual]
夕凪の青い瞳が、間近で海星を見上げる。
彼女の指が海星の指の間へと滑り込み、硬く結びつく。
ガラス細工のように華奢な骨の感触と、微かに香るサイダーの甘い匂い。
海星は喉仏を上下させ、その冷たい手のひらにすがるように深く指を絡め返した。
[/Sensual]
灯が息を呑み、血が滲むほど唇を噛み締めて踵を返す。
赤いスニーカーが遠ざかる音を聞きながら、海星は夕凪の横顔を見つめた。
この静かな日常が、ずっと続けばいい。
そう願った、直後。
[Glitch]パキィィィンッ![/Glitch]
頭上から、巨大な硬質ガラスが砕けるような轟音。
海星が顔を上げると、茜色の空に、黒い亀裂が稲妻のように走っている。
そして、じっとりとした真夏の空から。
音もなく、真っ白な雪が狂ったように舞い落ちてきた。
第三章: 崩落する箱庭
口の中に広がる、鉄の味がする血の匂い。
海星は荒い息を吐きながら、ひび割れた交差点の中心で立ち尽くしていた。
周囲の景色は、もはや元の形を留めていない。
民家の屋根が空に向かって逆さまに墜落し、電柱が飴細工のように捻じ曲がる。
[Shout]「いやだぁぁぁっ! なんで、なんで私だけっ!!」[/Shout]
アスファルトの上で、灯が喉が裂けんばかりの絶叫を上げる。
彼女の足元から噴出した巨大な影が、蛇のように両足へ絡みつき、その体を呑み込もうとしていた。
カーディガンが引き裂かれ、黒曜石の瞳は見開かれ、極限の怯えに染まりきっている。
[A:鳴海 海星:恐怖]「灯ッ!!」[/A]
手を伸ばして駆け寄ろうとした瞬間。
灯の体が黒いノイズの塊へと変換され、砂のようにボロボロと崩れ去る。
最後に残った赤いスニーカーすらも、空間の亀裂に吸い込まれて消滅した。
膝から力が抜け、海星は冷たい地面に崩れ落ちる。
町の人々が次々と自身の影に喰われ、光の粒子となって消失していく地獄絵図。
[A:白波 夕凪:悲しみ]「……限界なのですね。この世界も」[/A]
背後から響いた、抑揚のない声。
振り返ると、夕凪が雪の降る交差点に一人立っている。
光を反射しない青い瞳が、海星を静かに見下ろした。
[A:鳴海 海星:絶望]「夕凪……これは、一体どういうことだ。灯が、みんなが……!」[/A]
[A:白波 夕凪:冷静]「この町は、既に謎の災厄で崩壊した現実世界の『残骸』です」[/A]
波のような声が、海星の鼓膜を容赦なく打つ。
[A:白波 夕凪:冷静]「生き残ったあなたが、醜い現実から目を背け、綺麗なものだけを集めて創り出した『理想の幻影』。それが、この箱庭」[/A]
[Impact]「そして私は、かつてあなたを庇って死んだ『本当の白波夕凪の影』に過ぎません」[/Impact]
海星の呼吸が止まる。
頭の奥で、鍵をかけていた記憶の扉が弾け飛んだ。
崩壊する瓦礫の下。血まみれになりながらも微笑む、本物の彼女の姿。
今の夕凪が影を持たず、体温を持たなかった理由。
全ては海星自身が逃避のために生み出した、都合の良いプログラムの残滓。
[A:鳴海 海星:狂気]「嘘だ……嘘だ! だって君は、あんなに温かく俺を……!」[/A]
海星は自身の髪をかき毟り、頭蓋骨が割れるほどの力で顔を覆う。
[A:白波 夕凪:悲しみ]「私には、心がありません。だから、あなたを愛することはできない」[/A]
感情の起伏がないはずの彼女の声。それが、ほんのわずかに震えていた。
第四章: 痛覚の代償
[Tremble]空間が、泣き叫ぶように軋みを上げる。[/Tremble]
視界の端から、道路が、建物が、空が。次々と白いノイズに変換され、剥がれ落ちていく。
世界の縁が崩落し、虚無の暗闇が這い寄る。
夕凪の白いワンピースが、突風に激しく煽られた。
[A:白波 夕凪:冷静]「中核である私が消滅すれば、この幻影の箱庭は崩壊し、あなたは現実世界へ帰還します」[/A]
彼女は自身の胸元へ両手を当てる。
その指先から、青白い光の粒子が零れ落ち始めた。
自らの存在を消去しようというのか。
[A:鳴海 海星:絶望]「やめろ……やめてくれ!! 俺はどうすればいい! 君がいない現実に、何の意味があるんだ!!」[/A]
地面を這うようにして、海星は彼女へ手を伸ばす。
己の傲慢さ。本物ではない幻影に縋り、全てを嘘で塗り固めていた自分への圧倒的な吐き気。
それでも。
あの廃教室で出会った瞬間の衝撃。
ラムネの瓶越しに触れた、彼女の手の冷たさ。
それら全てが偽物だったなどと、どうしても認めることができない。
[Sensual]
海星は立ち上がり、夕凪の華奢な体を力任せに抱き寄せる。
彼女の体が、驚きに微かに硬直する。
冷たい。氷のように冷たい体躯。
それでも、銀色の髪から香る潮風の匂いも、首筋に触れる布越しの感触も、確かに海星の五感を焦がしている。
「嘘でいい……俺は、君の嘘を愛する」
海星の震える唇が、夕凪の冷たい耳元を食むように紡いだ。
[/Sensual]
[A:白波 夕凪:驚き]「……鳴海? 何を……」[/A]
[A:鳴海 海星:狂気]「帰らない。現実になんて、絶対に帰らない」[/A]
海星は自らの首から黒いヘッドホンを引き千切り、虚無の彼方へ放り投げる。
外界の音を遮断するための盾。それを自ら捨てる覚悟。
[A:鳴海 海星:狂気]「俺が、君を繋ぎ止める代償になる!!」[/A]
海星の足元で、己の影がこれまで以上の巨大な口を開き、彼の足首へ貪り食らう。
骨が砕け、肉が引き千切られるような激痛。
現実の肉体が境界の世界へ引きずり込まれる痛覚が、彼の意識を真っ白に染め上げる。
第五章: 永遠の薄明
[Flash]視界が、真っ白な閃光に包まれた。[/Flash]
空を覆っていたガラスの亀裂が弾け飛び、無数の光の破片となって降り注ぐ。
真夏の雪と、硝子の破片が交差する圧倒的な絶景。
その中で、海星の体を覆っていた黒い影が彼の皮膚を突き破り、全身へと浸食していく。
呼吸器が焼き切れるような苦しみ。血を吐きながらも、海星は夕凪の手を絶対に離さない。
[A:白波 夕凪:悲しみ]「どうして……どうして、そこまで……!」[/A]
[A:鳴海 海星:愛情]「君が俺の影を引き受けてくれたように、今度は俺が、君の影になる」[/A]
海星の体が半透明に透け始め、夕凪の足元へとゆっくりと溶け込んでいく。
現実世界への帰還を永遠に放棄し、自らを『夕凪の影』として再定義する狂気の選択。
二人の輪郭が重なり合った瞬間。
[Pulse]ドクン、[/Pulse]と。
世界が、一つの巨大な心臓のように脈打つ。
空間の崩壊がピタリと停止した。
砕け散った空の向こうから顔を出したのは、永遠に沈むことのない、狂おしいほど美しい茜色の夕陽。
夕凪の光を反射しない青い瞳から、透明な雫が一つ、二つと零れ落ちる。
プログラムの残滓に過ぎないはずの彼女が流した、初めての人間としての涙。
冷たい手のひらに、海星の温もりが微かに伝染していく。
[A:白波 夕凪:愛情]「……馬鹿ですね。あなたは、本当に」[/A]
[A:鳴海 海星:喜び]「……別に。どうでもいいよ、そんなこと」[/A]
錆びた廃線跡の枕木。
水溜まりに反転する、永遠の夕暮れ。
自身の影を失った海星と、海星という影を得た夕凪。
二人は血の通い始めた指を絡め合いながら、終わりのない線路の上を歩き出す。
ただ静かに。
美しい嘘に彩られた日常を、永遠に繰り返すために。
雨の匂いが混じった潮風が、二人の足跡を優しく撫でていく。
永遠に続く薄明の空の下、二人の歩幅がぴたりと揃う。
もう、痛みも恐れもない。
この狂おしいほど美しい箱庭で、僕らはただ、お互いの嘘を愛し続ける。
波の音だけが、満たされた世界に優しく響き渡っていた。
冷たい指先が宿す、永遠の熱。
二人の時間は、ここで完成する。
静かな、薄明の底で。